半年。
気付けば半年以上が経過していた。
この半年は本当に、本当にいろいろな事があって、これが半年という長さなのかと思い知る一方で、その割には費用対効果がないというか、心にぽっかり開いた穴にみるみる落ちていく感覚すらある。
とはいっても充実した半年だった。
まるでひっきりなしに大型台風がやってくるような毎日で、仕事は相変わらず忙しく、たまにくる台風の目のような穏やかな日を見計らっては都心へ出かけ、好きなものに触れたり、人と会ったり。
新しい宝物も増えたし、仕事の面で新しい機会に恵まれたりもした。
この半年を振り返ると、得たものは多かった。
でも、失ったものの方が遥かに大きかった。
ここに記そうとするとどうしても抽象的な表現ばかりになってしまうが、
たくさん失敗した。
自分の未熟さや怠惰な言動で身も心も傷だらけになった。
久しぶりに絶望という感情に触れたりもしたし、自分が許せなくなることもあった。
そんな中で本当に嬉しかったのは、それを笑ってくれる身近な人たちの存在だった。
普通なら同情して、一緒に泣いてくれるところを、不謹慎な冗談のネタにして、イジってきてくれた仲間がいた。電話で。それも真夜中に。
それをどこか期待している相手だったし、それをどこか望んでいる自分の性格を理解したうえで掛かってきた電話だったから、そのなんとも言えない人間関係に思わず涙を浮かべてしまった。
自分はもともと気楽で呑気な性格だったが、加えて最近は"マイナス思考をプラス思考へ昇華する"ということを覚えた。
今よりも悪い状況を想像してみる。「~になってないだけまだマシ」「〇〇じゃなくて本当によかった」と、敢えて悪い方へ考える事で、無理矢理現実のコントラストを(対比的に)上げてみるのである。
単なるやせ我慢と決定的に違うのは、今自分がいる状況に喜びを感じるようになることだ。
いつか誰かが言った「死ぬこと以外かすり傷」は本当だし、頻繁に使われる"最悪"なんて状況はそもそも存在しない。
(これはあくまでプラス思考的な発想だが)―自分自身とても成長できた半年だったと思う。「これが大人の階段をのぼることなのか~」と思ったし、こんな形でのぼりたくはなかったなぁ、と歩みを止めたくもなった。でもそんなことは不可能だしそもそも降りるなんて選択肢は無い。
止まることのない大人の階段。最初から自分はいわば階段ではなく上りエスカレーターを駆け上がってるような毎日を送っていたのだから。
そしてそれはこれからも続く。
失ったものは完全には元には戻らない。
傷が癒えてもどこかにその名残は残るかもしれない。
でも、それが悪い事だとは限らないし、少なくとも今はそうは思わない。
前述した人間関係すらもそうだ。
いろいろな出来事で形が歪み、築きあげてきたものが一瞬で崩れ、結局元のようには修復しなかったけど、それでも関わりを続けたタイミングでのあの電話だった。
皮肉がきいたそれは酷い冗談だった。でもそれがとても笑えて、とても嬉しかった。
一緒に泣かれるのはご免だ。いつでもふざけて笑っていたい、空気を読まない自分にぴったりな慰め、だった。
そして自分に常に必要なのは、そういう人たちなのだ。
そういや今日からちょうど半年前は、夢の国にいた。
本当に夢のようだったし、もしかしたら夢だったのかもしれない。