【小説】昭和、渋谷で、恋をしたり 2-9
前回のあらすじ(2-8)
夏奈恵を大学のキャンパスに招いた泰輔は、医者家系に育ち、子供の頃は医者になることを目指していたことなど、夏奈恵に初めて自分の故郷のこと、子供の頃、家族のことを話し始めていた。
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東京に行くしかない……
嬉々として医者になる夢を口ずさんだ幼い頃だったが、高校生になった私は、少しずつ医者になることを拒みだした。それはすべてカメラのせいだった。
カメラとの出会いは、小学校の時に蛇腹式のインスタントカメラを、夏休みの自由研究で作ったことだった。
それから私の趣味に「カメラ」が加わり、中学、高校と進学するにつれ、その熱も上がると、毎月カメラ雑誌の発売を楽しみにした。
誕生日にもカメラをねだるものだから、父親は「レントゲン技師の方が向いとるんやないか」と笑ったこともあった。
もちろんレントゲン技師に憧れたことはないが、カメラそのものや写真の現像工程に現れる機材に憧れた。
だから、有名写真家の写真展より、カメラ屋や家電売場のカメラコーナーに胸を躍らせる、そんな思春期を過ごしていた。
カメラマンになりたいとは考えなかったが、自分なりにカメラと写真の魅力は「取り戻せない一瞬に宿る真の姿」を残せることだと考えている。
例えば道端に咲く花。その中の一輪を接写すると、茎の細かい産毛が白く揺らいでいたり、花びらに雨上がりの雫が光っていたり、花粉が雪のように積もっている真の姿が写しだされる。
歩いていては気にも止まらないような小さな花でも、こんなにも生命力と生きることの美しさを兼ね備えていることに心を打たれるのだ。
すると次第に、大学に行ったら好きなカメラに没頭したいと思いはじめた。そしてこの頃から、カメラに携わるような仕事ができればいいと漠然と考えるようになってしまった。
そのため大学は理工学部の受験も考えた。しかし、「大きくなったらお父さんみたいなお医者さんになる」と話していた幼い頃の私を、17歳の私に重ねて、それこそ写真のように眺めていた親に、進路のことを正直に話せずにいた。
そこで医大でなくても両親が反対しないような進路を作るしかないと考え、思いついたのが東京であり、最高学府だった。
日本でトップの大学を目指すことに反対する親は日本のどこを探してもいないと思えたからだ。
まだ高校生だった昭和50年代、世は学歴社会と言われていた。
テレビドラマ(※1)の中では、看護学校に通う女性が「私は女子大生」と学歴を偽って飲み会に参加していた。
学歴がなければ、いい就職も、いい結婚も、いい老後も何もないように言われた時代。
学歴が人生を左右し、いい大学に入れなかったら残りの五十年近くの人生は、惨めな思いをしながら過ごすしかないような風潮だった。少なくとも私の家ではそうだった。
だから親は、親戚や親しい知人の話しをするとき、大学の名前を出しては「やっぱり、さすがね」などと最終学歴を引き合いに出し、褒め讃える姿を何度も見てきた。
「東京に行くしかない……」
私は学歴社会を肯定も否定もする余裕はなかった。ただ、東京の大学こそが誰にも遠慮することなく、好きなだけカメラに触らせてくれる。
たった一筋の光を辿ろうとしていたに過ぎなかった。
2-10へつづく
(※1)1893年に、TBS系列で放送されたドラマ「ふぞろいの林檎たち」のエピソードを引用。ちなみにこのドラマの主題歌は、サザンオールスターズ「いとしのエリー」。挿入歌もすべてサザンの曲(「YAYA〜」など)を採用しています。
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