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私の量子 ♯3

アンサング・ヒーローの系譜

福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』という本に、生物学者のオズワルド・エイブリーについて割かれた「アンサング・ヒーロー」という一章がある。その偉大な功績と比べて、大きな賞賛を得られなかった英雄のことを福岡氏は敬意を込めて記している。

「ロックフェラー大学の人々にエイブリーのことを語らせると、そこには不思議な熱が宿る。誰もがエイブリーにノーベル賞が与えられなかったことは科学史上最も不当なことだと語り、ワトソンとクリックはエイブリーの肩に乗った不遜な子供たちにすぎないとののしる」。

『生物と無生物のあいだ』57頁

エイブリーは肺炎双球菌についての研究で、病原性のあるタイプの死んだ菌と、病原性のないタイプの生きた菌を混ぜ合わせて動物に注射すると、動物に肺炎が発症するという、不思議な作用の原因を解明した。いわゆる「遺伝子」の本体がタンパク質ではなく「核酸」であることを実験で示したのだが、死んだ菌に実はタンパク質が混ざっていたのではないかと同僚に批判され、DNAの発見者として評価されることはないまま1948年に研究所を定年退職し、1955年に死去した。

ノーベル賞を受賞したワトソンとクリックの「DNAの二重らせん構造」の論文が発表されたのは1953年。彼らの知名度に比べるとエイブリーは日陰の人である。でも私はこういう縁の下の力持ち的な人が好きで、福岡氏の本を読んでからずっと頭に残っていた。

前置きが長くなってしまったが、今回「量子」について調べものをしていて一番印象に残ったのは物理学界のアンサング・ヒーローというべきアイルランド人科学者、ジョン・スチュアート・ベルの存在だった。

ベルは労働者階級の出身で、17歳で物理学の技術者として働きながら学び、英国原子力機構の研究所に就職し「量子エンジニア」として長年働いた。その後、当時の職場だったスイスの原子力研究機構(CERN)からもらった一年間の「研究休暇」の間に取り組んだ論文で、その後の物理学に決定的な影響を与えた「ベルの不等式」を発表する。

「局所的な隠れた変数理論は、それがどんなものであれ、スピンの相関は、相関係数と呼ばれる数が−2から+2までの範囲に収まると予測するーーこれが、「ベルの不等式」の名前で知られる関係だ。ところが量子力学の予測では、スピン検出器の向きによっては、相関係数が−2から+2までの範囲を上回るのだ」。

『量子革命』639頁

「ベルの不等式」は、ボーアとアインシュタインの間で議論されていた哲学的問題「局所的実在論」(光速を超えて物体が伝わることはないし、物体は観測する前にすでに存在しているという考え方)が合っているかどうかをジャッジするための実験式を提供した。ベルの不等式が合っているなら、二つに分裂した粒子から生まれた電子のペアは互いに独立した運動量を持っている、つまり「相関が数学的に妥当な値」なのでアインシュタイン側が正しいことになるし、電子のペアの相関が2.0を大きく上回る関係を示しているなら、電子のペアは「相関が高い=もつれている」ことになるので、ボーア側が正しいことになる。

崩壊した粒子から生まれた2つの電子のペアは、崩壊する前は1だった運動量を逆向きに1つずつ持っているので、そのペアがどんなに遠く離れても、もつれという相関が存在すると証明されれば、この世には無限に離れた場所でもつれあう非局所的なミクロ粒子があるという物質観が正しくなってくる。
(ここまでの私の理解が間違っていたらすみません。以下の動画も参考にしてみてください)。

(YouTubeチャンネル「のもと物理愛」より)

(YouTubeチャンネル「予備校のノリで学ぶ大学の「数学・物理」」より)

要するに、ベルは今まで「それは哲学の問題だ」と思われていた議論の答えを数式を使って判断できるようにした。しかし1964年に論文が掲載された雑誌は、のちに廃刊になった地味すぎる掲載媒体だったので、この論文がいきなり世紀の大発見だ、とはならなかったらしい。

ベルの不等式が知られるのは、彼が発表した数学の式を実際に「やってみた」実験物理学者の人々の功績によるものだった。はじめに1969年にクラウザーのチームが、のちに1981年にアスペのチームが不等式を検証する実験を行い、どちらも相関は2を上回っている、という結果が出た。この両氏が2022年のノーベル物理学賞を受賞したのはご存知の通りである。

量子物理学界のエクスデス親衛隊長

ジョン・スチュワート・ベルのことを考えていたら、昔プレイしたRPGに似た奴がいた気がした。悪のボス側の人物で、最初は魔王のために働いていたが、主人公たちと何度も戦ううちにボスよりも自分の戦士としての矜恃を保つことを選ぶ。そして最終的には自分の武器や防具が主人公たちの攻略を助ける…。この存在、思い出した。ファイナルファンタジーⅤにおける愛され系中ボス、ギルガメッシュである。

ボスであるエクスデスの親衛隊長として登場し、何度か主人公と戦っては退却を繰り返すのだが、悪キャラなのに義理と人情を重んじる快男児で憎めない。ネクロフォビア戦で主人公たちが全滅しそうになると「このままじゃカッコ悪いまま歴史に残っちまうからな!」と言いながら全員にメッセージを残して自爆する。そして身につけていた防具は、攻略のための貴重なアイテムとなる。

ベルの不等式の熱いところは、それが「破られる」ことで科学の進展に寄与したところだ。倒されることによって世界が前進する、そんなベルのアンチヒーロー感が私にはたまらない。

「1990年10月、ベルは六十二歳にして脳出血のために亡くなった。彼は、「量子論はとりあえずの方便」にすぎず、いずれはもっと良い理論で取って変わられるだろうと確信していた。しかしその彼も、実験の示すところによれば、「アインシュタインの世界観は擁護できない」と述べている。ベルの定理は、アインシュタインの局所的実在論を弔う鐘となったのだ。」

『量子革命』617頁

うまいこと言うなあ…という感じだが、ここでのポイントは、ベルがボーア側の量子力学的な世界観にいまいち納得していなくて、もっと良い理論を見つけたいという動機をもって研究をしていたという点である。

ベルが死の一年前、1989年に自らの研究人生を振り返って行った講演「測定に反対して」を読むと、私の脳内にはギルガメッシュが登場するたびに流れる名曲「ビッグブリッヂの死闘」が再生される。

「実験は道具にすぎず、大事なのはその目的です。「世界を理解する」ことです。量子力学をつまらない実験作業だけに限定してしまったのでは、その大きな取り組みに背くことになるのです」。

『宇宙は「もつれ」でできている』540頁、ベルの講演「測定に反対して」より

(作曲家・植松伸夫氏のYouTubeチャンネルより)

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【記事ヘッダ写真】
みんなのフォトギャラリーより
(C)横田裕市氏 https://note.yokoichi.jp/




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