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電車の声にまつわる事

7月29日
 今朝電車の中で隣に座った女性から、すみませんと声を掛けられた。
 黒いまっすぐな髪を肩胛骨のあたりまで伸ばした色白の女性で、ちょっとびっくりするくらい整った顔立ちをしている。見たところ二十代後半くらいの年頃だろうか。きちんとスーツを着ている。
 なんとなく、こんな風に話しかけるのは本当は不本意なのだけれど、という気持ちが透けて見える。
 急にこんなことを言って驚かれるかも知れませんが、とその女性は言う。女性の声は小さく抑えられていて、ほとんど僕にしか聞こえないのではないかと思うほどだった。けれど不思議と発音は明瞭で、しっかりと聞き取る事ができた。
 周囲に気を遣う意識と、きちんとした身なりからそれほど不振な人物には見えない。僕が黙って頷くと、ほっとしたように少し微笑んで話を続けた。

 最近、うたた寝をしていると自分の降りる駅で起こされることがありませんか? とその人は言う。
 もしかしてあの、ねえ! という大きな声の事を言っているのだろうか。
 僕が答える前に何かを察したのか、女性はさらに言った。
 実は数日前まで自分はその声に起こしてもらっていたのだけれど、ある日、わあ、というどこか嬉しそうな声を聞いて以来、声は聞こえなくなってしまったのだという。
 それとなく周囲を見ていると、僕が弾かれたように目を覚まして、不思議そうに周囲を見回しているのに気がついて、もしかして「移動」したのかも知れないとこうして話しかけてみたのだそうだ。
 一度見ただけでは確信が持てなかったので、二度目もあるか確かめたのだという。
 どうにも突飛な話だが、確かに二度大きな声で起こされている。どちらかというと、気のせいなのではないかと思うのだが……僕がなんと答えようか考えていると女性は、こんな変な話本当はするつもりじゃなかったんですよ。と言って苦笑を浮かべる。すごくおかしな話だし、誰にも言ったことがないんです。でも、あの子があなたを見つけてあんなに嬉しそうな声を出したのを聞いたら、今度はどんな人を気に入ったのかと思って。
 女性は声の主をあの子と呼ぶ。あの子、と繰り返すと、女性は神妙な面持ちで女の子なんですよ、姿は見たことがないけどと答えた。
 もう、三年も起こしてもらっていたのだそうだ。
 本当に突然、おかしな話をしてしまってすみませんでした。忘れてくださって構いません、失礼します。
 そう言い残して女性は立ち上がり、一人で納得したような表情を浮かべている。綺麗な角度で頭を下げると、せいせいしたように隣の車両へ歩いて行ってしまった。
 新手の何かの勧誘かとも思ったが、それきり何も起こらず、普通に会社に到着した。

 昼休みはヨネヤに誘われて、会社の近所にできた中華料理店へ行った。餃子がとてもうまいのだというので、餃子定食を注文する。
 店内はほどほどに混んでいる。客席に向けてテレビが設置されていて、お昼のニュース番組が流れていた。山に入って遭難した子供を、2日後に飼い犬が無事発見したという話題だ。
 犬が映っていたので食べながら眺めていると、画面がスタジオに切り替わった。電車で話しかけてきた女性がニュースを読み上げていた。
 あ! と声が出て、驚いたヨネヤが餃子をスープの中に落としてしまった。何事かと僕の視線を辿ってテレビを見たヨネヤは、ああ、あの子見つかったんだ、よかったなと呟いている。

 餃子はとてもおいしかった。

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