「嘘をつくこと」の是非
Twitterで,コミュ力を「その場に適した嘘をつく能力」と定義づけをする人を見かけた。なるほど,と思う。勿論,「コミュ力」はあくまでも現代社会における,という文脈が存在しているものと(幾分勝手にかもしれないが)解しておく。
「嘘も方便」という諺が示す通り,「嘘をつく能力」というものは生きていく上で必須のものなのかもしれない。正直に居続けていると,必ず衝突が発生する。多くの場合,そのような衝突は全く意味をなさないことのほうが多い。
なるほど,実際,私はどうも嘘をつくのが苦手だ。それは心情的な意味でもそうだし,単純に嘘をつけばすぐに嘘であるとバレてしまう。そうすると,本心でもないことを言うと「あ,こいつ嘘をついているのだろうな」と思われるし,私はというと「あ,こいつ嘘をついているのだろうなと思われているのだろうな」と思いながら無用な罪悪感と居心地の悪さを抱えなければならない。無論,私の「コミュ力」は低い。
しかし,と思う。嘘をつくことに慣れることにもどうも抵抗がある。そのようなことを言っているからいつまでもコミュ力が低いのだと怒られそうだが,そのように嘘をついてまで -- 私にとっては,無理をしてまで -- 人間関係がほしいとは到底思えない。そのようにしてつなぎとめた人と一緒にいたところで,楽しくないというのはすでに学んでいる。
仕事の上で付き合っていく必要性に駆られるのは致し方ないし,私も必須の付き合い -- アルバイトなど -- では心にもないことを言い続けている。しかし,不必要に愛想を振りまき,不必要に嘘を付き,必要以上に他者をつなぎとめることに努力をするのは,どうも生きづらいように思えてならない。
ところで,私は先の定義付けに心から納得をしたのだが,これもこれでどうしたものかと思う。というのも,現代における「コミュニケーション」(あるいはその理想形)が「あらゆる人と浅く付き合うこと」とみなされているように感じるからである。簡単に言えば,誰とでも広く浅く付き合える能力を「コミュ力」といい,そのような形態を目指しましょう,とみんながどこかでうっすらと思っている… すくなくとも私はそのように感じる。
SNSが発達した現代では,多くの人と無制限に関係を持つことができる。それ自体は素晴らしいことだと思う。いいや,人だけでない。利用できるコンテンツももはや溢れかえっている。こう考えれば,人間関係もコンテンツ消費も,「コスパ」「タイパ」が重視されるという点で同一な気がする。
そのような視点や姿勢も大切であることは疑う余地もない。ただ,サッと流れるような希薄な人間関係も,サッと流すように行われるコンテンツ消費も,どこか寂しさや虚無感を覚えてしまうのである。
例の「コミュ力=その場に適した嘘をつく能力」のツイートはこちら。
https://twitter.com/kazakura_22/status/1631106176921538561
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