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大阪の城①大阪城

おはようございます、ほどほど夫婦のたけちです。主に旅行、城址めぐり、寺社めぐり等を趣味にしています😄
よろしくお願いします。

さて、このたび、ほどほど夫婦のウッチが3冊目の電子書籍を出版したのを記念して、大阪と広島のお城(とその周辺)を紹介していこうと思います。

電子書籍Kindle ウッチの本
『初心者流 お城めぐり〜大阪・広島の城編』

【電子書籍の表紙にもなっている大阪城】

今回は電子書籍でも紹介されていました100名城が一つ、豊臣氏及び徳川氏の城塞、大阪城について補足も兼ねて紹介します。

1 大阪城と信長

【東外堀】

大阪城(表記は100名城ガイドにあわせています。)
輪郭式平城(平山城)で1496年蓮如上人が別院をこの地に設けたのが始まりだと言われています。1532年山科本願寺が焼き討ちにされたため、証如によって新たに本願寺がこの地に移され城塞化します。これが石山本願寺となり、1570年から1580年の10年間顕如と織田信長と熾烈な戦いが行われます。かの石山合戦です。

1580年和議が結ばれ本願寺は退去し、信長はいずれこの地に城を建てる構想が「信長公記」に記されています。しかし、残念ながら信長がこの地に城を建てることはありませんでした😅

2 大阪城と秀吉

【大阪城の後ろは巨大ビル群、実にシュール】

織田信長の意志を受け継いだのは羽柴秀吉でした。
秀吉は本能寺の変の翌1583年には大修築工事を行い、1585年にはほぼ完成
本丸、二の丸、三の丸の他外郭を整備し、大城郭を形成しました。
信長の安土城が単に見せる城であったことに対し秀吉の大阪城は見せてかつ難攻不落の城
出来杉くんか😠

3 大阪城と家康

秀吉は後に伏見城に移り、そこで病没
その後子の秀頼が継ぎますが、ご存じ1614〜1615年大坂の陣にて徳川家康に攻められ天守は炎上し、豊臣氏は滅亡します。

徳川家康が冬の陣と和議後堀を全部埋めてしまい、大阪城を裸城にした話は有名ですが、誰の発案かというと一説によると秀吉だとか。

小牧・長久手の戦い以降、あの手この手でようやく徳川家康を大阪に招致することに成功した秀吉

得意満面、えっへん、えっへん

家康に城の案内をします。

そして天守最上階にて家康に言うのです。

秀吉「この城を家康殿だったらどのように落とす?」

家康「いや、無理っす。だってワシ、城攻め苦手っす。上田のちっぽけな城すら落とせんかったす」

秀吉「いや、誰であろうと落とすことはできやせん。まぁ、ワシだけかのう(えっへん)」

家康「すげーっす(ってオメェが作ったんだから当たり前やん)」

秀吉「(得意絶頂)家康殿、この城はこうやったら攻略できるんじゃ。ゴニョゴニョゴニョ」

家康「ふむふむ、なんと。和議を結んだふりをして、堀を全部埋めてしまう、だと。いや、秀吉殿は天才っすね」

秀吉・家康「ははははははははは」

この話も出来杉くん🙂‍↔️

4 その後の大阪城

【蛸石・・・でかい・・・タコなのに】

豊臣氏が滅びても大阪城は滅びなかった。

1619年大坂を幕府の直轄地とするとともに大阪城跡地に大修築を加えるとともに豊臣氏時代の大阪城の上に約10mの土盛りをし、石垣も全て埋めてしまったうえで、全く新しい縄張りで天守以下を構築、豊臣色を完全に消し去ったのです。

「そこまでやるか〜」😱

現在、私たちが見ることができるのは徳川氏の大阪城なんですね。

その後、明治維新まで城代がおかれ、大坂は「天下の台所」として、経済及び上方文化の中心地として繁栄します。

【桜門から見る蛸石とその奥の天守】

1665年天守は落雷により焼失、以降天守は再建されていませんでしたが、1931年に日本最初の復興天守として再建されます。
(ちなみに淡路の洲本城は1928年日本最初の模擬天守です)

大阪城の復興天守、実を言うと豊臣氏の大阪城天守をモデルとしています。

まさに歴史の皮肉、徳川氏が一生懸命豊臣氏の痕跡を消そうと努力したにも関わらず時代を超えて復活してしまう。しかし、徳川の縄張りに豊臣氏の城が建つというのは皮肉を通り越してロマンかもしれませんね。
ゆえに、今の大阪城は地元の人たちを含めて太閤さんの城として愛されている所以です。

【現存する千貫櫓】
【南外堀の美しい堀の石垣と戦火を免れた六番櫓】
【大阪城の御城印】

大阪城のスタンプは天守資料館入口で、御城印は資料館売店でいただけます。
幾度の戦火や天災にも負けずに度々復活した大阪城
間違いなく大阪の人たちのシンボルとなっていると思いますよ。
                           (おしまい)


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