旅中国編!51カ所目は島根県海士町!

旅中国編!51カ所目は島根県海士町!

11月11日〜15日まで滞在してました。
海士町は、日本海に浮かぶ隠岐諸島の1つだ。ここは昔、後鳥羽上皇が島流しの末に辿り着いた場所で歴史的に有名な場所で、島というだけあってとても自然は豊かだ。また、ここは隠岐牛というブランドがあるため、島中に牛が放し飼いされている。そして、教育の部分では、島前高校や隠岐国学習センターなどにより高校魅力化プロジェクトを初めて行った場所でもある。

今回、町で行われていた取り組みや高校魅力化プロジェクトの勉強をしつつ、この町での暮らしについてお話をお聞きした。

現在は町議会議員をされていて、以前までは島内の郵便局長をされていた松本さんにもお話をお聞きした。

私は
「この島の暮らしの変化はありますか?」
とお聞きした。

松本さんは
「昔、ここに住んでいた人たちは半農半漁だった。魚がとれる時には船を出して、とれない時には田んぼや畑をやっていたんだ。
 今、農業は機械化が進んだり高齢化で後継者が減ってきて1人でできなくなってきているよ。だから今は法人化されたりしている。漁業は"おおしき網"という定置網の漁やイカ釣船でイカをとったり、"かなぎ漁"というサザエやアワビをとる漁をしているかな。この漁では5mとか10mのモリを持って漁をするので、みんな目が良いんだよ。昔みたいに若い人がいないので田植えを手でやることなく、稲刈りを手でやることもなくなった。」
と言っていた。

このように、島内での生活様式は変わってきているようだ。またそれ以上に劇的に変わったことがあるという。

それについて、松本さんは
「隠岐諸島と本島を繋ぐ隠岐汽船の料金が半分になったこと。料金が安くなって島民が島外に出やすくなったんだよ。こっちは物価が高いので、土日を利用してジェット船で本土に買い物に出かける人も多くなった。だから、ジェット船は土日は予約がいっぱい。」
と言っていた。


こうしたインフラ整備によって生活の幅が広がっていき、島民の生活スタイルも変化してきているのだろう。
また、この隠岐汽船の料金が半分になった背景には、県外から人を呼んでくる島前高校のプロジェクトを初めとした魅力的な活動が行われたことによって、島外や県外との繋がりが生まれ人との交流がより多く生まれたということがあるのかもしれない。
全国の様々な地域でバスや電車の利用者数が減り廃線なってしまうという傾向がある中で、このようにインフラ整備が行われるのはすごいと思った。

高齢化や少子化はまだまだ進んでいると松本さんは言う。
この問題はこれからも続いていくのだろう。
良くも悪くも変化しているこの島は今後どうなっていくのだろう。

私はそんな暮らしの変化がある中で、松本さん世代(50代)の子供の時はどんな暮らしや遊びをしていたのか気になった。
そこで私は、
「子供の時はどんな遊びをしていましたか?」
とお聞きした。

すると、松本さんは
「我々は年上の先輩と野球をしたり、田んぼの稲刈りが終わった後、その場所で野球をしたりしていた。秋は山にあけびやたなごなどの木の実を採りに行って食べていたよ。みんなで一緒に山へ入っていってさ。
 海でも"海遊び"と言って、貝を採りに行ったりしていたよ。夏は海に行ったり魚釣りをしていたかな。それもみんなでしていたよ。昔は自宅の裏が海で岩場だったので、そこで釣りをしたり、海水浴をしたりしたよ。今の子供たちはこういう遊びをしなくなったのかもしれないけど、夏になると今でも家の裏の海に飛び込んでいるのを見るよ。」
と言っていた。

昔の子供たちはいつも自然相手に遊びをしていたんだなと改めて思った。
稲刈りや木の実がなる秋や海遊びができる夏。季節によっても遊びが変わっていたんだなと。
ここ海士町は島という環境で山があり海がある。なので、余計にいろんな自然と触れ合うことが多かったのだろうと思う。

子どもの絶対数が減ったというのもあるだろうが、今はこういった遊びをする子が少なくなったと言っていた。
時代と共に子どもたちの遊びも変わってきているんだなと思ったし、やっぱりそれだけ今の遊びは魅力的なんだと思った。

このように大人の生活だけでなく、子どもの生活スタイルも変わってきているのだ。
ここ数十年でこうやって変化してきたのだ。ということは、これから先も数年、数十年で様々なことが変化していくだろう。
そうなった時には今の良さと昔の良さの両方を大事にしながら暮らしていくのが大切なのかもしれない。

そして、そのために
「今の良さ」
「昔の良さ」
を見つけなくてはならない。
これとはなんなのか。
どんなものが各時代の良さなのか。
まずはそれを見つけることから始めていくことが良いのではないだろうか。