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「コロナデバイド」とSDGsの理念

アメリカの経済再開ガイドラインでは、新型コロナウイルスのリスクの高い高齢者は、経済が再開しても一定の間行動が抑制されるようになっています。また、再開シミュレーションでも、高齢者の隔離は死者数の抑制と経済損失の抑制を両立するのに役立つとの見込みがあります。

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米MITのIvan Werning氏の一連のTweetより

さらに、高齢者のほうがウイルス排出量が多いと考えられています。このため、経済再開にあたって高齢者の死者を減らすために高齢者を社会から一定程度隔離しよう、という政策は今後勢いを増してくると考えられます。

これは超高齢社会を迎えている日本の国民にとっては、非常に痛みの伴う政策になります。もちろん現時点(2020年5月半ば)では人口の約30%近くを占める高齢者に対するそのような政策は非常に抑制的です。しかし、今回の緊急事態宣言が解除され、仮に再度感染が広がり死者が増えたことにより、再度緊急事態宣言を出さなければならない、という事態になると、もはや経済が単なる全面自粛を許さない状況になるかもしれません。そうすると、高齢者の死者を減らすために高齢者を社会から一定程度隔離しよう、という政策が現実化する可能性も低くありません。しかも建前が「高齢者の死者を防ぐ」ということなのだから、あり得ない話ではありません。

そうなると、本格的に「コロナデバイド」の誕生ということになります。既にテレワークや遠隔会議などのデジタルに適応できないデジタルデバイドという意味での「コロナデバイド」は発生していますが、高齢者の隔離というコロナデバイドは社会に大きな爪痕を残すことになります。

最も危惧しなければならないのは、高齢者と高齢者以外の対立です。例えば、安宅和人教授のシン・ニホンでも指摘されていますが、2025年には子育て等の予算は5兆円程度しかないにもかかわらず、年金・医療・介護で合計122兆にも上ります。

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財務省の「これからの日本のために財政を考える」より

いくらお札を刷りまくっても、この差が大きく埋まることはありえません。入口の話ではなく、出口の話だからです。そして、2040年にはこの額が164兆円になるとみられており、本当に現実的なのかが疑わしい状況なのです。

「コロナデバイド」が広がった結果、このような問題が注目され、高齢者と高齢者以外の対立が広がれば、これまで比較的安定していた日本の政治に混乱が起こるでしょう。いくら高齢者の投票率が高いといっても、単純な多数は生産年齢の人口なのです。さらにミクロに見れば、社会から取り残される高齢者が生活に苦しむことになったり、さらには、高齢者への迫害、現在の姥捨て山現象も起こるかもしれません。

現在の社会は全ての人がいるからこそ、成り立っているものであり、多様性は社会の発展に繋がります。社会から人口の3割を隔離するということは、短期的に感染を防げても、長期的に社会の発展を大きく阻害するでしょう。

これに打ち勝つ方法は、「誰ひとり取り残さない」というSDGsの理念だと思います。南北問題のように、どこかに負担を押し付けて見て見ぬふりをして経済を回す、というやり方では、死者は若干少なくなるでしょうが、社会に混乱が起こり社会の発展は停滞するでしょう。一方で、「誰ひとり取り残さない」ために、高齢者の隔離をせず経済もそこそこ回す、ということになると感染の拡大とそれによる死者の増大は避けられません。しかし、社会はその方が発展する可能性があります。

「誰ひとり取り残さない」ということは、単なる「きれいごと」ではありません。痛みを伴う覚悟が必要です。もしかすると、最も批判の多いやり方なのかもしれません。しかし、日本社会が発展していくためには、「誰ひとり取り残さない」というSDGsの理念を目指していく必要があるのではないでしょうか。

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