私たちと政府
2021年の年頭の菅首相の施政方針演説と、バイデン大統領の就任演説を両方聞いていて思ったことは、私たちと政府の関係です。
国会で行う施政方針演説と、国民に向けたセレモニーである大統領就任演説を同列に扱ってよいのか、ということ、日本語と英語の違いということを考慮に入れても気になるのが、「私たち(We)」という言葉です。
菅首相の施政方針演説には、「私たち」という言葉は1回も出てきません。1回もです。一方でバイデン大統領の就任演説では、Weという主語がかなりの回数使われています。ケネディ大統領の就任演説でもWeが多く出てきますから、こういうものなのかもしれませんが、その違いの根底にあるものは何でしょうか。
過去の首相の施政方針演説を見ると、例えば田中角栄元首相の施政方針演説には「わたくしたち」という言葉が何回か出てくる所を見ると、「私たち」に類する主語を使ってはならないわけでもなさそうです。
もちろん菅首相の施政方針演説では「皆さん」、といった客体の呼びかけがありますが、それはあくまで政府から国民への呼びかけであって、聞いている人と言っている人を一体としてみているようには聞こえません。
私には、「政府と国民が運命共同体である」、という考えのあるなしが、演説中の「私たち」という言葉の使い方に現れているように感じられてなりません。政府にとって国民とは客体なのです。
一方で、菅首相が「私たち」という言葉を連呼した場合、どのように受け取られるでしょうか?おそらく不快感を感じる人も少なくないのではないでしょうか。
そう考えると、アメリカ国民がどうかはわかりませんが、日本国民には政府と国民が運命共同体であるという意識は相当低いのではないかとも言えるのではないでしょうか。国民にとって政府は自分自身と一体のものとしてみることが難しい存在であり、政府も国民と一体のものとしてみることが容易ではない、とも言えます。
政府の批判はするけれど、政治的な活動をする気はない。そういう国民の行動には、国民は政府や政治を自分とは別のものと考えることが根底にあるのではないかという気がします。
まあ、それでも、日本政府は政府と国民が一体のものとして考えて行動している、と思いたいですが…。