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【後編】~幸せの青い鳥を探す旅 カナダ・ニューヨーク編~ 世界は優しさ以上で想像不可能!? きっと“なんとなく”で出来ている①




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第4章 トロント~ニューヨーク~ナイアガラ~トロント


旅行後のアヌー家


 オタワからトロントまで、バスで移動すること計5時間。
普段の長期移動なら間違いなく横になっているところなのに、今は横に空きがないくらい乗客で埋まっている。
 窓際に1人で座っていたら、突然彼氏連れの女性に話しかけられた。
「エクスキューズミー。こちらは私のボーイフレンド」
 いきなりどうした? 自慢か?
 ただ女性の意図はそんな嫌味なことではなく、単純にカップルで隣同士になりたいから、私に別の席に移動して欲しいというものだ。

 真っ直ぐな瞳で言われては、日本人の私としては譲らないなんて非道なことはできない。
 せっかく早く並んで窓側の席を取っているのに……。
 喉元まで出掛かった言葉を呑みこみ、私はしぶしぶ別の席へと移動した。
 ここがもし日本であれば、カップルであっても別の人を移動させてまで隣になろうとはしないだろう。

 アヌー家のマンションに着き、私とカマルの部屋の扉を開ける。
そして開けてビックリ、部屋の中には大きな家具が増えていた。
 ダイニングにはソファ、テレビ、テーブルが増えて、ようやく“普通の”ダイニングルームになっている。
加えて私の部屋には、大きなダブルベッドとタンスとドレッサーが置かれていた。

 アヌーがしたのかと一瞬頭をよぎったが、もったいないお化けの彼女がわざわざこんなことをするとは思えない。
 しかしカマルならあり得る。前に彼女は、私のために立派なベッドを買ってくれると言っていた。てっきり冗談かと思っていたけど、本気だったようだ。
 まさか私のためにそこまでしくれるなんて。
 突然の出来事に対する感謝と困惑で、その場で固まってしまう。

 部屋には、美也子からの手紙が置いてあった。
バンクーバーの浩子さんが以前電話越しに伝えてくれたものを転送してもらっていた。その手紙があったからこそ、私はPEIへの旅を決意できた。

『あたしは奈々と出会わなければファームステイしていなかったと思う。ただ口先だけでファームしたいって言っていただけかもしれない。奈々の行動を見て、あたしも行動しようと思えたの。だから奈々は、もっと自分に自信を持って。
 自分たちがカナダにいることだけでも、日本にいる人とはまったく違うことをしているんだからね。
P.S 今度はどこで奈々と再会できるか楽しみにしているよ』

 この手紙を書いた当時の美也子は、私との再会がすぐにあるなんて想像もしなかったはずだ。人生は何が起こるかわからないし、岐路に立たされる瞬間も突然やってくる。
 美也子は謙遜していたけど、それでも現状を変えようと足掻いたのは彼女自身だ。今頃はきっとどこかで、自分の人生を歩んでいるのだろう。

 同じような志を持つ者として、私も頑張らないと。
 私はそれからもこの手紙を何度も読み返しては、その度に勇気をもらっている。

 手紙を読んでいると、部屋宛てに電話がかかってきた。
 無暗に出るのもはばかられ、そっと鳴りやむのを待つ。
電話の相手は誰なのか。もしかしたらアヌーかも?
 ベランダに出てアヌーがいるマンションのほうを見てみると、そこには既にアヌーがベランダに出ていて手招きしていた。
 彼女にわかるよう、私も大きく手を振り返す。
 たった2週間ちょっと離れていただけなのに、彼女の顔を見るのが随分と懐かしい気がしてくる。

 アヌーの部屋に行った私は、オタワでのお土産としてモントリオールで買った缶に入っている紅茶を見せて、オレンジ・ペコーとアールグレイを選んでもらった。
 インド人は紅茶好きと聞くし、喜んでもらえるだろう。
……そう思ったのも束の間。
「また無駄遣いして!」
 アヌーからは感謝よりも先に、お叱りをもらってしまった。こういうところはやはりアヌーらしい。

 アヌーのために買ったモノでさえ“無駄”扱いされた。彼女はいつものように値段を訊いてくる。
 プレゼントの値段まで訊いちゃうのね。
「……5ドルだけど」
「高っ! でもこの缶は何かに使えそう……」
 お金にうるさいところも、節約に暇がないのも相変わらず。
そんな彼女との付き合いも、そろそろ終わりが近いと思うと感慨深いものがある。

 8月からはオタワに行くことをアヌーに伝えた。
「あんなに小さくて退屈な町のどこがいいの? あっ、分かった! ジキジキできる相手がオタワにいるんでしょ」
 久々に聞いたジキジキネタ。でもこればかりは笑えない。憧れのオタワをそういうのに結び付けられたら不快の一言に尽きる。
 あの場所は、絵を習いたい気持ちを本気にさせてくれたし、童話作家になる夢を思い出させてくれた大切な街だ。夢も思い出も汚された気がして、アヌーの言葉は冗談でも許容できるものではない。

 このまま話を続けても、互いに険悪になるだけ。
 話題を変えようと、部屋にあったベッドについて訊いてみた。アレはピーターが私のために買ったらしい。
「来月にはここを出るのに?」
「あなたはナイスガールだから、あなたさえさえ良ければ長くいてもいいのよ」

 その提案はありがたいけど、ここでは私の夢を叶えられない。
 私は絵を習いたいからオタワに行くと誘いを断るも、自分もアーティストの友達を知っているからそれならどうだと打診される。
 アーティストと言っても、アヌーの知り合いが得意とする画風と私が習いたい画風では全然違う。アヌーから見れば、絵はどれでも同じなのだろう。
 それどころか、「習うのにいくら払うの?」とまたお金の話が飛び出してくる。
 アヌーは悪い人ではないけど価値観が根本的に違う。いい加減、節約の押し売りは息苦しい。

 日記を書かないといけないから、今日のところはお開きにしようと伝え、自分の部屋に戻った。
 戻る頃にはカマルが帰っていた。彼女にもお土産のアールグレイをあげたら、アヌーとは違って素直に喜んでくれる。
 この部屋の変わり様に驚いたことを伝えると、私が居心地良いように色々したと話してくれた。私の部屋に置かれたベッドは、前にした約束を果たしてくれたのだそうだ。

 しかしだとすると、アヌーの話と食い違う。アヌーはピーターが買ったと言っていたのに。
 でもそれを口に出すことはしなかった。
下手に告げても不要な揉め事を増やすだけ。でもやはり、私が今月いっぱいまでしかいないことは伝えておくべきだろう。カマルにも伝えて、折角のベッドが無駄になってしまうことを謝った。

「謝らないで。あなたはここにいる間だけでも、ここの生活をエンジョイすべきよ! それに日本の友達が来るとき、ソファやベッドがあれば困らないでしょ?」
 カマルの言う通り、確かに涼子ちゃんとはトロントに集まって観光巡りすることを計画している。
ただ数日泊まるだけの彼女にもベッドがあって良かったと言ってくれるのは、カマルなりの気遣いだろう。

 しかし今はその優しさが、私にとっては心苦しい。アヌーにしたってそうだ。
 情に弱い日本人を「これでもあなたはオタワに行くの?」と、言外に言われて引き留められているように感じる。
 後ろ髪を引かれる思いは、中々割り切れるものではなかった。



ウェイティング広場


 次の日、早速アヌーから涼子ちゃんが来たときの送迎について訊かれた。
「空港までピーターに運転してもらう? それともバスかタクシーで行く? バスだと10ドル、タクシーだと往復70ドル、あなたはピーターにいくら払う? 
 ナイアガラの滝で観光するなら、ピーターが2人を車で連れて行って、ホテルも予約してあげる。ナイアガラまではバスだと往復40ドルだけど、いくら払える?」

 アヌーは電卓をパチパチ叩きながら続けた。
「それとトロントでは、友達はここに泊まるの? ホテルに泊まるの? ホテルだと寝るだけで40ドル、あっちのマンションはカマルとピーターの部屋だから、泊まることはできない。友達はここのダイニングで寝れば、食事付きで安くしてあげる」
 朝から怒涛のハウマッチクエスチョンが始まり、頭が痛い……。
 なんだ、やっぱりビジネスか……。
 昨日の件があるだけに、ほんの少しだけアヌーの人情に期待してしまったけど、こうなることは薄々わかっていたことだ。
 やっぱり今月いっぱいでここを出ることに決めたのは、正しい選択だった。

 一方でアヌーのビジネスは、感情論を抜きにすれば魅力的な提案であることには変わりない。
 彼女の言う通り個人でホテルに泊まり、外食や重い荷物を持ってバスで移動するよりも、アヌーのプランはずっと快適でお得だ。
 お互いにとって都合の良いギブアンドテイクなら、これほどいい商談相手はいないだろう。

 アヌーはきっと親身になって私のことを考えくれている。その上で彼女は利益を常に重んじて計算を欠かさない、賢い人なのだ。
 だからと言って、涼子ちゃんを見知らぬ人の家のリビングで寝かせるのは、感情面でもサービス面でも受け入れられない。
「涼子ちゃんが寝る場所は、私の部屋にマットを持って行けばいいでしょ?」
「ダメ。ダイニングで寝るか、ホテルで寝るかの2択」
 アヌーはそれ以上言わなかったけど、要は私の提案だとビジネスにならないから嫌なのだ。

 結局私だけの判断では決めることはできず、直接涼子ちゃんに訊いてみることに。
 部屋に戻った私が彼女に電話をかけると、涼子ちゃんはちょうど居酒屋で飲み会中だった。周りの雑音混じりに、ハイテンションの涼子ちゃんが電話に出た。
「それでね、ダイニングで寝ることになりそうなんだけど大丈夫?」
「いーよー! 見てみないとわかんないけど!」
 涼子ちゃんがアヌーのプランを快諾してくれて、私はホッと胸をなでおろした。

 私の心配ごとよりも、涼子ちゃんは空港で私と無事会えるかが心配だと言う。
「カナダに行って、もし奈々ちゃんに会えなかったら……?」
「そのときは、タクシーに乗って住所見せて、カタコトの――」
「――日本語で!?」
 英語で、と言う前に食い気味で涼子ちゃんが被せてくる。
 冗談だとすぐさま笑っていたけど、天然の気質がある涼子ちゃんなら実際に日本語混じりで対応しそうだ。

 英語を話す相手に一生懸命日本語で伝えようとする彼女を想像すると、笑いが止まらなくなってしまう。
涼子イングリッシュがどこまで通じるのか、それはそれで見物ではある。
 でもまぁ、伝えようとするだけ、英語が多少話せても黙ってしまう私よりは全然マシだ。

「それじゃあWaiting areaで待ってるから、着いたら探してね」
「ウェイティング広場?」
「エリアだよ! 広場は日本語だからねっ。ウェイティンエリア!」
「じゃあ、人に訊くとき『Where is“ Waiting HIROBA?” 』でいいの?」
 涼子ちゃんのこの返しが、周りがうるさいせいでよく聞こえなかったのか、酔ってボケているのか、はたまた本気で行っているのか私には判別できない。
 ただ1つ言えるのは、早速炸裂した涼子イングリッシュは、腹がよじれるほど笑いのツボにはまったということだ。

「奈々ちゃん、目立つように添乗員みたく旗振っててぇ~! 」
「じゃあ、お土産売り場でカナダの旗買って、それ振ってるから見つけて!」
「なら私は日本の国旗振ってるぅ~!」
 それからも彼女とは心の底から笑い合った。少しの確認電話のつもりが、涼子ちゃんとは余計な話でつい盛り上がってしまう。


 そんな元気100倍の涼子ちゃん(24)とは、添乗員の資格をとる学校で知り合った仲だ。
当時、資格を取るなんて旅行好きな私なら余裕だと安易に考えていたけど、実習ではバス酔いして乗客の人数を数えられなくて挫折することに。
 ただ涼子ちゃんはもともとバスガイドの経験もあり、資格はあっさりと取得していた。
その後に彼女は、プロとして何回か国内添乗員をやっている。
 英語が話せれば海外添乗員もやりたい、好奇心いっぱいの素敵な乙女でもある。

 電話もそろそろ終わろうかという頃にピーターがやって来た。
「君の友達は君よりかわいい? ナイスバディ?」
 そう尋ねてくるピーターの目は、ケモノのようにギラギラと光らせていた。
「あー……、もちろん! それなら空港まで無料で送迎してくれるんでしょ?」
「当然だ! フリーでナイアガラのガイドもやる。その代わり、君と3人でジキジキだ」
「考えさせて。私は嫌だけど、友達には訊いてみないとわからないから」
 涼子ちゃんだって、嫌に決まっている。でもタダにしてくれるって言うなら、下ネタに付き合うのも悪くない。
それにジキジキ無しでも文句は受け付けない。勝手に期待したのはピーターなのだから。

 案の定ピーターは「OK! 決まり!」と嬉しそうに鼻の下をビローンと伸ばしていた。
私の思惑も知らないで。

 ピーターはアヌーほどお金にこだわっていないよう見える。だけどもし私みたいな色気のない子どもっぽいコが来たら、彼は正規の料金を請求するつもりだろうか?

 実際のところどうするのかアヌーに訊くと、全てピーターの冗談だと一蹴された。
 ピーターは涼子ちゃんが来る日に仕事を抜けることは出来ず、結局アヌーのお姉さんの運転で迎えに行くらしい。もちろんお金も、相応の値段を支払うことが前提だ。

 ピーターは私と会うとジキジキの話しかしないし、アヌーは相変わらずお金の話ばかり。
だけどノリのいい涼子ちゃんなら真に受けないだろうし、彼女がこの状況にどうリアクションするのか楽しみだ。

 それから約束の日。空港で涼子ちゃんが出て来るゲートを探し、アヌーと二人で待っていた。するとすぐに日本人の女の子が出て来る。
「あのコじゃない?」
 アヌーがすかさず言ってきたけど、その子の髪はショートでロングヘア―の涼子ちゃんとは違う。
 すると今度はそのすぐ後ろにいた女の子に目線を向けた。
「あのコ?」
 そう言われて私も見るも、パッと見の印象は涼子ちゃんではない。でも雰囲気は限りなく近い気がする。
違うと言いかけた口を閉じて改めてその子を見直したら、それは涼子ちゃんのスッピンの姿だった。

「涼子ちゃん!」
 私が呼ぶと、彼女もすぐに気づいて駆け寄ってくる。実に3ヶ月ぶりの再会だ。
 彼女は約11時間の飛行機の中で何人かの日本人男性と喋っていたらしく、別れ際彼らに会釈していた。
 人懐こいところは相変わらずのようだ。そして会った瞬間からケラケラ笑いだすところも依然お変わりないようで。


「奈々ちゃぁ~ん! こんなところで生きてたのねー!」
 そんなハイテンションとは裏腹に、アヌーに対しては「どうも」と真面目な雰囲気で日本語の挨拶していた。
 アヌーが言うことに対しても常に日本語で「はい、はい」と答えていた涼子ちゃんの反応に、いつもは仏頂面のアヌーさえも笑わずにはいられなかったようだ。



非言語コミュニケーション


 マンションに送られている車中、涼子ちゃんとの雑談は大いに盛り上がった。
久々の日本語での会話は、言いたいことがちゃんと伝わる。ストレスフリーだ!

「そういえば買ってきて欲しいって言われてたアレ、いつ渡せばいいの?」
 涼子ちゃんは手荷物の1つに目配せする。アレとぼかしているのは、バレないようにわざわざ気を遣ってくれているのだろう。
「日本語でならアレなんて言わなくても、“時計”って言っちゃっていいけどね。渡すのはマンションに着いたときでいいよ。
 あっ、でも……アヌーに値段を訊かれても、実際よりも安く答えてね」
「え!? それじゃあ悪くなぁい? ビックカメラで半額の1,300円だったし、デザインだって学校の保健室にあるようなシンプルなヤツだよ」
 それでも安く言って欲しいと、私は念押しした。
 純粋無垢な涼子ちゃんも今にわかるだろう。アヌーの底知れない、節約とビジネスへの執念を……。

 また涼子ちゃんは、夜にアヌーと二人きりになるのを少し怯えていた。
私から伝え聞いたことに脳内で尾ひれがついて、アヌーのイメージが凝り固まってしまったのかもしれない。それを差し引いても、見知らぬ相手といきなり一晩一緒というのは確かに怖い。
「ニューヨーク滞在を長くしようよ、そうしたらトロントにあんまりいなくて済むし」
 涼子ちゃんの提案に、私は少し渋った。
ニューヨークは私にとっても見知らぬ土地だ。そこで女子2人だけの旅を長引かせるのはかなりリスキーになる。
 しかし涼子ちゃんは、そのことを伝えてもなぜか自信ありげに
「きっと大丈夫! なんとかなるよ!」
 両腕でガッツポーズをしていた。

 ……不安だ。

 アヌーのマンションに着いて早速、持参してきた壁時計を渡す涼子ちゃん。
 受け取ったアヌーは、案の定感謝よりも先に「いくら?」と訊いてきた。

 涼子ちゃん、ここは事前の打ち合わせ通りに――
「25ドル」
 私が念じるのも虚しく、あれほど忠告したのに涼子ちゃんはバカ正直に値段を伝えてしまった。
「高っ!?」
 アヌーは驚きのあまり、時計を二度見していた。
 彼女的にはもっと安価な物でも十分だったのだろう。しかししばらくすると、アヌーは手のひらを返したように、貰った時計を絶賛していた。
 形としてはいたってシンプルな、白地に黒の数字の丸型時計。
 保健室にでもありそうなその時計に対して、アヌーは「美しい!」と繰り返していた。

 時計が気に入ったアヌーは、涼子ちゃんに突然、自分が日本に行ったときは涼子ちゃんの家に泊まってもいいか訊いていた。
 涼子ちゃんがどう答えるか、困っていたら助け舟を出そうと思っていたけど、彼女は満面の笑みで答えていた
「スモールスモールハウスだけど、OK!」
 彼女の底抜けの明るさには、心配なんて必要なかったみたい。
 私が最初アヌーに訊かれたときは、実家に来られるのは困ると思って、ガイドはできるけど家に連れて行くのは無理だと正直に答えてしまっていた。

 それにしても、そんなハッキリとアヌーを歓迎するなんて言って大丈夫なのだろうか。
「涼子ちゃん、本当にいいの? アヌーが来ても……」
「え、冗談だよ? アヌーさんも、本当には来ないでしょ!」
 涼子ちゃんがいたずらっぽく笑う。
 そんな彼女の笑みをどう捉えたのか、アヌーは「優しいコだね」なんて、涼子ちゃんを褒め称えていた。

 そうこう話しているうちに、キラキラと眩いくらいに開かれていた涼子ちゃんの目も、瞼が重そうに垂れつつある。日本からここまでの長旅&時差ボケで眠気が迫って来ているのだろう。
「リョウコは疲れているようだから、今日はわたしの寝室のベッドで寝ればいい。わたしはダイニングで寝るから」
 それはアヌーからの提案だった。
 まさか損得を何よりも重んじるアヌーが、会って間もない相手に献身するなんて。
あまりの意外さに、私と涼子ちゃんは2人して顔を見合わせてしまった。

 とはいえ、家主に負担を強いるのは心苦しい。
「sorry」
「なんでsorry?」
 せめて謝罪はしようとするも、アヌーはただ小さく首を傾げた。
 その疑問が本心からなのか、はたまた別の何かを含んでのものなのかは、アヌーの表情からは読み取れない。
彼女は優しいことを言うときも、How muchクエスチョンも、指示するときも同じ口調で同じ顔つきだ。
いつも本心を探りかねているけど、実は単に裏表がない人なだけなのかも。

 もうすぐピーターが帰ってくると報せがあった。
「え!? 胸寄せてお化粧しなきゃっ」
 涼子ちゃんは慌てて髪の毛を整えたり、パットをいじったりしている。
「ピーターは明日あなたたちを観光に連れて行けるから、時間を決めないと」
 アヌーに催促されている最中、噂のピーターが帰って来た。

 その頃には涼子ちゃんの装いは間に合ったようで、彼女はとても綺麗に着飾っていた。
胸が強調されたミニのワンピースに、ウェーブのかかったロングヘアーの女の子が可憐な笑みを浮かべている。
 ピーターはそんな涼子ちゃんを見て、もじもじとどこか照れくさそうにしていた。
 それに涼子ちゃんの魅力は見た目だけではない。
彼女の声は、少し舌足らず気味で甲高く、鼻にかかったような甘い声音をしている。そして豪快で抜けるような笑い声は、思わずつられて笑ってしまう破壊力がある。
 どうやら涼子ちゃんはピーターのお眼鏡にかなったようだ。
彼は私に目で合図してきて「彼女はとてもナイスだ」と耳打ちしてきたのだった。

 なんて、ピーターは言ってるけど。
 一応翻訳して伝えておこうと涼子ちゃんを見ると、彼女はピーターを見て呟いていた。
「へえ~、ピーターってナイスガイだねぇ」
 まさか涼子ちゃんの口からそんな言葉が飛び出すなんて!?
 てっきり彼女のタイプではないと思っていただけに、その反応は予想外だった。

 しかしよくよく訊いてみれば、ピーターが好みの相手ドンピシャというわけではなく、想像していた姿よりもカッコよかったからつい漏れ出てしまった感想らしい。
「ち、ちなみにどんな人を想像してたの?」
「う~んとねぇ、真っ黒で目だけギラギラしてる黒人さん」
「目だけギラギラって……。あっ、もしかしてジキジキの話?」
「そうそう! エッチな人って訊いてたから。でも会ってみたら優しそうな人で良かった! あと声が加藤茶に似てる!!」
「言われてみれば!」

 日本語で話せば他の人には伝わらない。私と涼子ちゃん、2人だけの秘密の会話。
 互いに気兼ねなく冗談を言い合えて、私たちの声も気持ちも次第に大きくなっていく。そして終いにはお腹を抱えて笑い合っていた。
 一方で話題のだしに使ってしまい、ピーターに少し申し訳ない気持ちもあった。
 実際涼子ちゃんほどではないけど、私もピーターのことは親しみやすいお兄さんだとは思っている。後で日頃の感謝でも伝えてみよう。それでどうかチャラにして欲しい。

 ピーターはそれから、涼子ちゃんに積極的に話しかけていた。もちろん通訳の私越しにだけども。
「ミス涼子。キミはいつ日本に帰るんだい?」
「27日だね」
「なぜそんなにすぐ帰ってしまうんだ?」
「色々あるけど、一番は仕事が理由かな」
「じゃあ日本ではいくらもらってる?」
 ピーターはどこからか紙とペンを持って来て、涼子ちゃんの前に差し出してくる。
『そこに収入を書け』という意図だ。

 涼子ちゃんは『だいたい1500ドル』と書いて、ピーターに返す。
「カナダでは普通のオフィスワーカーで3,000ドルだよ。普通の仕事で、ジキジキジョブじゃない。仮にジキジキジョブだったら6,000ドルだ!」
「会っていきなりすごい話だね……。まぁ英語ができないわたしに、カナダで転職なんてムリなんだけど!」
 涼子ちゃんの言葉を伝えると、ピーターもこれには何も言えないようで難しい顔をしていた。
 それにしてもピーターはなぜ、ジキジキジョブの月収まで知っているのか。興味は湧いたけど、そばにはアヌーもいたため訊くのはやめておいた。

 話題を変えたピーターは、涼子ちゃんにビールが飲めるか訊いていた。
 少しだけ飲めると答えると、ピーターは早速2人で乾杯を始めて飲み始めている。彼は相当涼子ちゃんを気に入ったようだ。

「明日の観光は、キミたちをフリーで連れて行くからね~!」
 酔いが回ったのか、ピーターはそんなことを言っていた。アヌーに許可を取らなくてもいいのかと不安が一瞬よぎったけど、嬉しい誤算はそのままスルーに限る。
 私たちは喜んで、ピーターのご厚意にあやかった。

 涼子ちゃんも酔いが回ってきたのか突然手を挙げた。
「はいは~い! わたし、ディスコに行きたい!」
「いいよ~、キミたちがニューヨークから帰ったら連れて行くよ」
 すっかり上機嫌になったピーターが、マドンナのCDをかけ始める。
 アヌーがすかさず「ダンス! ダンス!」と、私たちに踊りを催促してきた。

 踊り始めたピーターに、涼子ちゃんが写真撮りたい! とカメラを構える。
 するとピーターは踊りを止めてしまい、シャワールームへと言ってしまう。
 私と涼子ちゃんが揃って首を傾げていると、しばらくして髪型を整えて決め顔をしたピーターが帰ってきた。
「あははっ、カッコいい~!」

 カメラを連写する涼子ちゃんに、私も一枚写真をお願いする。
思えばトロントに来てからというもの、目の前の出来事に振り回されてばかりで写真を撮るという、今までなら絶対にしてきたこともできていなかった。
 今日のこのときが、私がトロントに来た想い出写真第1号だ。

 そんな写真第1号は、瞬く間に数えきれないくらいの号数になっていた。
 アヌーと2人での写真では、「マイナナ」と抱きしめられている。


 ピーターを真ん中にして、私と涼子ちゃんと3人の写真では、さりげなく髪や肩を触られた。英語が全然話せなくても、涼子ちゃんは充分面白くていいコだと、アヌーもピーターもわかってくれたみたい。
 その夜は一晩中キャッキャッと笑い合う、ダンス&写真大会になったのだった。



タダほど怖いものはない


 次の日の朝は、涼子ちゃんからの電話で長い1日が始まった。
「奈々ちゃん! どぉしよう……トラブル! 扇風機壊しちゃった~」
「え!? アヌーは弁償しろって?」
「う~ん……ガムテープ貼れば直りそうなんだけど、アヌーがさっきから『おニューだ、おニューだ』って言って怖いの!」
「私、ガムテープ持ってるよ」
「早く来て!」
 今にも泣きそうな涼子ちゃんに急かされながら、私は最低限の準備をして涼子ちゃんの元へ向かう。
 途中、ダイニングで寝ているピーターがいたので、彼には涼子ちゃんがピンチだと伝えた。
「ノープロブレムだ。すぐに行く!」

 心強い味方を引き連れて涼子ちゃんの元へ向かうと、彼女は首が取れた扇風機の頭を持って力なく項垂れていた。
 なんでも涼子ちゃんは、昨夜は扇風機の角度を変えたくて動かしていたら、何かの拍子に頭が外れてしまったらしい。
 その異音で起きたアヌーは目の色を変えて、すごい剣幕で英語をまくし立ててきたそう。
アヌーの本気の怒りは私も見たことはないけど、その凄さがどれほどのものか、想像しただけでも身体が震えあがる……。

 結局扇風機のほうは、ただ調節ネジが緩んでいただけのようでピーターがいじったらすぐに直っていた。


 直ったことに一息ついた涼子ちゃんは、昨夜あったことを私に打ち明けてくれた。
 アヌーは深夜、涼子ちゃんの寝ているところに来て、何度も出入りしたり、ドレッサーの引き出しやクローゼットをガタガタ開け閉めしたりしていたらしい。
 たぶん何かいじられていないかチェックされていたみたいで、寝ている涼子ちゃんをわざわざ起こして何か言ってきたそうだ。
 しかし英語がわからない涼子ちゃんは、ひたすらに「I don't know」を繰り返すしかなかった。
 アヌーの暴走はそれで一旦は収まったけど、結局その後朝7時に起こされて今度は激昂の嵐だったそうだ。

 後ほどアヌーに事情を訊けば、開け閉めに関しては涼子ちゃんの予想通り、何か盗られてないか一応確認したとのことだ。
 激昂のほうは扇風機のことだと、訊かなくてもわかった。それで夜中に涼子ちゃんに言ったことを尋ねたたら、『彼女にはダイニングで寝て欲しい』と伝えたかったそうだ。
 アヌーがダイニングで寝ていると、ピーターの仕事関係の電話がとれないためらしい。

「うん、いいよ。もともとそうだったんだし」
 翻訳した内容を伝えると、涼子ちゃんはあっさりと了承してくれた。きっと彼女の内心は、アヌーの部屋を使わなくて済むことへの安堵でいっぱいなのだろう。
 しかしこれで鎮まるアヌーでないことを、私はよく知っている……。

 涼子ちゃんがシワにならないように中で干していた洋服も、なぜか勝手に外に干されてあったり。シャワールームに置いた化粧品もすべて動かされたり。挙句、手に取る一つひとつに対して「いくら?」と逐一訊いてきたそう。
 アヌーの質問に涼子ちゃんは適当に答えていたみたいだけど、内心では相当気疲れしたようだ。
「わたし、あの人とは暮らせないよ……」
 何事にも大らかな涼子ちゃんが、珍しく愚痴をこぼしていた。
 その気持ちは痛いほどよくわかる。私も何度そう思わされたことか。

 ある日。涼子ちゃんのここでの宿泊代について、アヌーは彼女がいくら払えるか私に尋ねてきた。
「涼子ちゃんが言うには、私が払ってる分の日割りでいいって」
 涼子ちゃんから訊いたことを伝えると、アヌーは露骨に顔をしかめた。
「あなたは長くここにいたいというから安くしたのよ。彼女のケースとあなたは違う」
「じゃあいくらだったら満足するの?」
「そうね、25ドルもあれば十分かしら」
 アヌーとしては妥協してあげたつもりなのだろう。
 確かにこれが三食食事付きの宿泊代なら、良心的な値段設定だ。しかしアヌーが告げたのはあくまでも泊まるだけの値段。ここにこれまでの飲食代が足されるわけだから、決して安くはない。

 それに涼子ちゃんが寝ているのは、ちゃんとしたベッドではなくダイニングのソファだ。
「ダイニングで寝るのに25ドルは高いと思う」
「ホテルは寝るだけで40ドルよ」
「ここはホテルではない」
「わかってるわ。でもわたしが作る料理は新鮮で、あなたたちも喜んで食べているわよね?それらの材料費、本当はもっとかかるけど値下げしてあげる。だから食事付きで40ドルね」
 私がどれだけ意見しようと、アヌーはまるで聞き入れず、どころか上から反対意見で説き伏せようとしてくる。

 私はそれ以上、アヌーに意見することはしなかった。
 お世話になっている負い目もあるけど、それ以上に、彼女には何を言っても無駄だと悟ったから。

 一方のアヌーは『これだけのサービスに対して、リーズナブルな料金で提供しているのに何が不満なの?』とでも言いたげなように、自身の発言を改めるどころか大きな態度のままだ。
 きっと私たちが「美味しい、美味しい!」と言って食べているのを見て、変な自信がついてしまったのだろう。

 その話があったからか、アヌーはなかなか朝食を作ろうとせず、ゆっくり紅茶を飲んでいる。
 私と涼子ちゃんは互いに顔を見合わせて、苦笑を浮かべていた。
「朝っぱらからお金の話に付き合わされるなんてねぇ……」

 それからしばらくして、ようやくアヌーは朝食を作ってくれた。それにしても今日は一段とマイペースだ。私と涼子ちゃんが、今日もカナダで観光するつもりなのは彼女も知っているはずなのに。
 少しでも時間を無駄にしないよう、私たちはいつもよりも早めに朝食を食べ終わる。
 そうして出かける準備も終わらせたのに、肝心の移動手段役を買って出てくれたピーターが戻ってこない。
 ただ椅子に座っている間も、時間は刻一刻と過ぎていく。

 そろそろ私が貧乏ゆすりを我慢できなくなってきた頃。アヌーが唐突に話題を振ってきた。
「今日はどこに行きたいの?」
「古着屋に行きたいし、CNタワーもいいし、博物館も行きたいね。でも洋服見ている間、待たせちゃうの悪いかなぁ? ゆっくりできないよね?」
 アヌーからの質問に、涼子ちゃんがアレコレ日本語で意見を出す。ただ逐一翻訳を伝えるのは正直面倒くさい……。

 アヌーに伝えるのは、涼子ちゃんの案が纏まったらでいいや。
 そう思って涼子ちゃんが話し終えるのを待っていると、CNタワーという単語に反応したアヌーが、横から意見してきた。
「CNタワーは夜景がキレイだからナイトタイムに行って、今日はハーバーフロントとスパダイナ博物館に行きなさい」
 アヌーからの勝手な意見の押し付けに、私と涼子ちゃんは唖然として口が開いてしまった。
 勝手に決めてほしくないと、抗議の目線をアヌーに送るも、彼女は予定が決まって満足しているのか、再びマイペースに朝食に手を付け始める。

「結局さっきの宿泊費と同じで、わたしたちの思う通りにはならないんだよね」
 涼子ちゃんの乾いた笑いに、私は申し訳なく思いながら小さく頷くことしかできない。

 アヌーが勝手に口を出して来たのも、元はと言えばピーターが遅いせいだ。
 彼は30分で戻ると言っていたのに、時計の針はすでに11:30。いい加減温厚にしているのも限界で恨めしく扉を睨んでいたとき、ようやっと待ち人が到着した。
「私たちは何時に行けるの?」
 時計を見ながら言う私に、ピーターが端的に「今」と答えた。
「「よし!」」
 待ってましたと言わんばかりに、私と、それと涼子ちゃんが同時に立ち上がる。
「やっぱり、アヌーが食べ終わってから」
 ピーターがすぐさま言い直し、私たちはまた座らされるハメになった。

 そしてアヌーと言えば、彼女は未だにパジャマ姿のままでゆっくりとご飯を食べている。
その後私たちのランチをお弁当箱に詰め、身支度を済ませる頃には14時になっていた。

「あなたが運転するのに、なぜアヌーを待つ必要があるの?」
 車に乗ってアヌーを待っている最中、私はピーターに思っていたことを訊かずにはいられなかった。彼女を待たなければ、すくなくとも11:30には出発できたはずだ。
「彼女も観光をしたい」
 そう答えるピーターの語気には、確かな苛立ちが含まれている。
 彼も別に暇をしていて遅くなったわけではない。この後も17時には戻らないといけないと言っていた。
 怒りたい気持ちは私たちだって同じだ。

「なんかわたしたち、この人たちに振り回されてるよねぇ」
 ポツリとこぼした涼子ちゃんの愚痴に、私は深く、そして何度も頷いた。
 ちょっとしたお出かけでもこの調子なら、明日予定しているナイアガラはもっととんでもないことになるに違いない。
 安くしてくれるからとピーターに頼みはしたけど、これでは先行きが不安だ。

「ねぇピーター。明日のナイアガラは、私たちお金を払ったほうがいい?」
「僕は君たちからお金を取りたいとは思ってない。でもナイアガラにはもう20回は行ってるから今更行きたい気持ちもない。それにあそこには往復で4時間かかるし、ガソリン代もかかる……」
 だからお金を……ということなのだろう。
 ピーターのことだから、お金を取っても普通に行くよりは安くしてくれるだろう。でも彼の運転で行くということは、今日みたいなルーズ旅を許容しなくてはならない。
 けれども限られた日数しかいられない涼子ちゃんに、そんな時間はない。
 私たちは時間を無駄にしないほうがいいと意見が一致して、涼子ちゃんとのナイアガラは、2人でニューヨークに行った後で寄ろうということになった。

 それからやっとアヌーが来て車を出す頃には、観光する前からどっと疲れが出てしまった。
アヌーがここはどこで何々で……とガイドしてくれていたけど、建物を車窓から見ても、おもしろくもなんともない。

 色々予定していた街巡りは、結局CNタワーだけにした。これ以上アヌーたちといたら楽しいはずの観光が苦痛だけで終わってしまう。
 帰り方はわかるとアヌーたちに告げ、彼女たちとはここで別行動にさせてもらう。

 ピーターの車を見送った私と涼子ちゃんは、盛大に安堵の息を吐き、アヌーという束縛から解放された喜びに2人で飛び跳ねた。
 これでようやく自分たちのペースで行動できる!
 軽い足取りの私たちは、早速CNタワーの一番高いところまで上った。ただ天気は生憎の曇り空で、景色はあまりよく見えない。当時の世界一高い建物だったらしいけど、曇っていてはただ灰色の景色が広がっているだけで感動は正直薄い。

 写真を撮ろうとカメラを構えていた涼子ちゃんは、何かが気に障ったのか、苦い顔をしてシャッターを切らずにカメラをしまっていた。
「ここで写真撮っても、ここに来るまでの嫌な思い出を思い出すだけだねぇ~」
 写真好きの涼子ちゃんが、思わず写真を躊躇してしまうほどに、今回の出来事は相当堪えたのだろう。

 かく言う私も精神的ダメージは甚大だった。
 タワーを降りている途中、今までの我慢がはち切れたかのように突然頭痛がし始めるし、街中で通りすがったインド系のおばさんが一瞬アヌーに見えた。
「ねぇあれ! アヌーに見えたんだけど!」
 それは涼子ちゃんも同じらしく、私たちは2人してノイローゼのようになってしまっていた。



PEIのデジャブ


 CNタワーを登り終えた私たちは、次の行先をトロントアイランドに決めて、道中のフェリーがあるハーバーフロントを目指していた。
 しかし目指すと言っても、見知らぬ土地、不慣れな言語という悪条件では真っ直ぐ目的地にたどり着く方が難しい。
 結論から言えば、私たちは迷っていた。

 通りで右往左往する私たちは、自転車に乗ったカナダ人のおばさんに声をかけられた。
 早口の英語で最初は何を言っているかわからなかったけど、聞こえた単語を繋ぎ合わせると涼子ちゃんの履いているサンダルを気に入ったらしい。
 そこでようやく、彼女がそのサンダルがどこで売っているのか訊いていると理解できた。

「メイドインジャパン!」
 おばさんの言葉を翻訳して伝えると、涼子ちゃんは元気よく返事する。
 彼女のカタカナ英語でもおばさんには伝わったようで、日本産のサンダルをすごく褒めてくれた。

 お話ついでに私は、おばさんにトロントアイランドまでの行き方を訊いてみる。すると彼女も目的地が同じだったらしく、一緒に行こうと提案してくれた。
 この話し相手がもしもアヌーだったら、案内料を取られていたに違いない。

「優しいね。この人みたいな人の家にホームステイしたかったよ……」
 涼子ちゃんもアヌーの仏頂面がよぎったのか、小さく愚痴をこぼしていた。
 不満を言いたい気持ちもわかる。
 涼子ちゃんにとっては、アレが初めてのホームステイだったのだから尚のこと。アヌーと2人きりではショックが大き過ぎるのだ。


 案内のおかげで問題なくハーバーフロントに着けた私たちは、フェリーに揺られながら海風に当たっていた。
 青々とした海は太陽に照らされて宝石のようだし、船に乗って海外の都会を横目にしていくのはセレブにでもなったようだ。
 目の前に景色に心躍らせていると、気づけばトロントアイランドに着いていた。その島は公園になっており、ミニ遊園地もある。
 私たちは当然、その遊園地を堪能した。丸太のジェットコースター、スキーのリフトのような乗り物、それからお化け屋敷にも。

 アトラクションは日本と大差ないけども、お化け屋敷はやはり欧米圏といった感じの内容だ。ゾンビやおぞましい西洋人形に手厚く歓迎される。日本の静かな恐怖感とはまた違う怖さがある。
 私と涼子ちゃんは揃って、大げさなくらいにキャーキャー叫びながら屋敷を小走りで抜けていく。
 気兼ねなく声を出せたおかげで、今朝のストレスを一緒に吐き出せた。

 帰り際、見かけたチャイナタウンに寄ってみた。
 涼子ちゃんは着いて早々カメラを取り出し、 すっかりミーハーな観光客として満喫している。
「中国にも行って来たの! って言っちゃおー!」
八百屋で大きくて長いスイカを発見して、記念に写真を撮っていた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていき、アヌーのマンションに戻った私たちは一気に現実へと引き戻される。
「CNタワー、いくらだった?」
 開口一番、遠慮を知らないアヌーはいつものハウマッチ質問を炸裂させる。
「“早速”だね」
 呆れる涼子ちゃんに心の中で深い頷きをしながら、私は正直な値段を答えた。しかし答えたのはあくまでも訊かれたことだけ。
 私たちがその後にトロントアイランドに行ったことがバレたら、めんどくさいことになるのは火を見るよりも明らかだから黙っていようと、あらかじめ涼子ちゃんと決めていた。

 アヌーは「なんでアヌーも一緒にCNタワーに行くかわからない」という私の発言を、ピーターから耳にしたと告げてきた。
「それは、今朝私たちとピーターは用意が出来ていたのに、あなたの準備が遅くて待たされたから」
「わたしがいないほうが嬉しいの?」
 首を傾げるアヌーは、嫌味ではなく本当に頭に疑問符を浮かべている様子だ。彼女たちにとって“家族”を待つのも、一緒に行くのも当然なのだろう。

 しかし私とアヌーは“家族”ではなく“他人”だ。
 ただそんなことを馬鹿正直に伝えたら、今より関係が悪くなるだけで何のメリットもない。
「私が英語を間違えたから、ピーターに誤解させることを言った」
 これ以上何を言っても無駄に思えた私は、問題を英語ができないせいにしてうやむやにする。

 アヌーは根っからの悪い人ではない。それはこれまでの暮らしで重々わかっている。でも同時に、彼女との付き合いに問題が多いのもまた事実。
ただ穏便に、私が出ていくまでの辛抱だ。

 それはそうと、ピーターの告げ口には呆れてしまった。
普通、あの状況で言ったことを当の本人に言う?
 彼の普段の態度から私たちの味方をしてくれるいい人だと思っていたけど、その実は単なる八方美人に過ぎない。
 だから彼はアヌーにも言わなくてもいい情報を伝えるし、カマルとの嫁姑問題もややこしくするのだ。

 涼子ちゃんの宿泊費支払いを、カナダドルとアメリカドルのどちらで払うかアヌーが訊いた。どちらでもいいと答えると、アヌーはアメリカドルを所望した。
 換金は少し面倒だけど仕方がない。
2人でカナダドルの金額を一度日本円に直して、それからアメリカドルにして算出する。金額をピッタリそろえて涼子ちゃんがアヌーに渡した。


 お金を受け取ったアヌーが再び首を傾げる。
「どうやって計算したの?」
「一度日本円に換算して――」
「日本円はわからないから、カナダドルでいいわ」
 そう言って、アヌーは受け取ったお金を突き返してくる。わざわざアメリカドルにしろと言ってきたのはそっちなのに。
 毎度のこととは言え、彼女の横暴には神経を逆なでされる。
 態度に出すなと言うほうが無理な話で、私はわずかに膨れっ面をして閉口する。
漂う険悪な空気感に涼子ちゃんが気を利かせてくれて、
「はい、これ。カナダドル」
 その場を収めてくれた。

 夕食を食べ終えて、カマルのいるマンションに帰るとき。
「着いたら電話しなさい」
 なんて、アヌーがらしくもなく心配してきた。いつもなら、そんなことは言わないのに。
 理由を訊けば、ピーターもカマルも今いないから心配になったということらしい。
 もっともな理由だが、それもおかしな話だ。
ピーターとカマルが不在だった日は何も今日が初めてではない。今日だけ心配するのは道理に合わない。
「いいから、心配しないで!」
 怒りが積もっていた私は、アヌーの身勝手さに遂に限界がきてしまい、声を荒げて部屋を出た。

 会話の内容を知らない涼子ちゃんが、先に部屋を出た私を追って気にかけてくれる。
「何か言われたの?」
 一度深呼吸をして心を落ち着かせた後、エレベーターの前で涼子ちゃんに先程あったことを伝える。
 話している途中も、なんだかもう今までのことが積もり積もってすべてが嫌になってしまった。
 せっかく日本から遊びに来てくれた涼子ちゃんにも嫌な思いをさせてしまうなんて、なんて情けない。頭の中は不条理と自分に対する怒りと悲しみでグシャグシャだ。

 壁でも殴りたい気分……。
自然と拳を握る指先に力が入っていく。
 そんなとき、ふっと優しく背中を撫でられた。
「奈々ちゃん。今まで一人で頑張ってやっていこうと気を張っていたから、それでわたしみたいな甘えたヤツが来て、愚痴も出るようになってきて、今までガマンしてきた分が爆発したんだよ。それに奈々ちゃんはあの人たちの言ってることがわかるから、余計嫌だよね! わたしは英語わからないから、まだアヌーが何言ってるかわからないけど……」
 涼子ちゃんの言うことは、少し前の私が言った内容とそっくりだ。

 それは英語学校時代の知り合いである美也子からPEIに誘われたときのこと。
そこのB&Bで働いていた彼女と、今の私の境遇は同じようなものだし、涼子ちゃんに言われた言葉も当時私が感じていたことそのまんま。
 アヌーとジムは共に料理上手だけど、クセのある性格。そして美也子は私が遊びに来たことで、私にも悪いとジムに対して怒りが爆発して、荷物をまとめることになっていった。


 ここまでそっくりなら、いっそ美也子の行動も見習おうかな……。
 私も今すぐすべての荷物を持ってニューヨークへ、そしてオタワへ行きたい気分だ。
 涼子ちゃんが来る前は、このトロントへの移民も考えたくらいに愛着があったはずなのに。彼女が来てからは愚痴が吐ける環境が整ってしまい、アヌーに対する不満や不信感が募っている。

 しかしそれは絵空事で現実的ではない。
 大事なのは割り切ること。このトロントはあくまでも、ニューヨークに行くまでの荷物置き場。そう考えると気持ちが随分と楽になるし、ニューヨークへの旅にも期待が膨らむというものだ。
「これは早くニューヨークへ行け! ってお告げかもね!」
 涼子ちゃんの溢れんばかりの笑顔につられて、しかめ面だった私にも笑顔がうつる。

 考えてみれば、今いる場所はカナダだけどホームステイ先はインド人家庭ではないか。これではインドに来ているようなものだ。
 ここを出られてようやく、私のカナダでの旅は始まるのだろう。

 インド人は自己主張が強く、マイペースで時間を守らない。それに値段の交渉はしょっちゅうだ。
インドにいたときは彼らに嫌というほど振り回されていたから、1日の中で何回も“激怒”するような経験をしていた。
 当時はそれにもだんだん順応してきて、自分も強く主張しないと負けてしまう! と強く逞しくなった気がする。

 その得難い経験と、美也子の境遇を間近で見てきた機会を、“今こそ”活かすときがきた!



刑務所ホテルと写真祭り


 そうと決まれば有言実行。私たちは手早く荷物を纏めてニューヨーク行きの列車に乗る。
 毎度のことながら12時間の長旅の末、遂に念願のニューヨークの地を踏みしめた。
「奈々ちゃん、ニューヨークだよぉ! 怖いよ~」
 列車から降りて早々にそんなことを口にする涼子ちゃん。しかし怖がっているにしては、彼女のテンションは上げ上げ過ぎて、むしろそのほうが怖い……。

 時刻は夜中の23時。ここはトロントと違い、湿気もすごくてかなり蒸し暑い。
それに地下鉄はなんだか薄暗くて、地図を片手にしても何度も迷ってしまった。

 ガイドブック『地球の歩き方』には、目指しているホテルの説明として『交通の便がいい』と記載がある。しかし実際は駅から20分も歩かされた上に、ハドソン川に面したそのホテルまでの経路は、臭くて汚い倉庫街を通った場所を歩かなくてはならない。

 おまけにフロントにいた黒人は不愛想で、私たちが来てもノロノロと他の仕事をして、全然対応しようとしない。
 ようやく案内されて、いまどき見ない手動開閉扉のエレベーターで2階に上がって部屋を見ると、そこには予約した覚えのないダブルベッドが。

 私はツインのつもりで予約をしたはずだ。
「2名とは聞いているけど、ツインベッドとは聞いていない」
 私の文句は、店員の有無を言わさない態度でかき消されてしまう。
ただこれについては、店員が正しい。察してくれるだろうと甘い見通しを立てた私のほうに非がある。
 しかし涼子ちゃんとダブルベッドで寝るというのは……。
 せめてエキストラベッドを入れてもらえるよう頼むも、今日はもう遅いので、また明日フロントに注文するよう言われて終わった。

 店員が去った後、改めて部屋の様子を確認する。
 この蒸し暑い部屋の中に冷房の類は見当たらない。天井や窓は高い位置にあり、風通しも悪い。おまけに窓には鉄格子までついている。
「こんな厳重に閉ざされて居心地も悪いと、まるで刑務所みたいだね」
 涼子ちゃんの言うことはもっともで、部屋の出口側も鉄格子で塞がれていたらここは完全に牢屋だ。
 電気をつけても薄暗く、共用のトイレとシャワーの汚さがますます嫌な想像を助長させてくる。

「倉庫街もそうだけど、このホテルも“ニューヨーク”って感じがするよね」
「だね。日本とも、トロントとも全然違うよ」
 ベッドが来るのもあてにならないし、明日他のホテルに移る案も出た。
しかし2人で59ドルという安価な宿泊費を優先しようとする以上、他のホテルに行っても同一相場ならどこも似たようなものだろう。

 実際に交通の便がよくて、ホテル内もキレイという条件だと一泊100ドルは下らない。
 ここは我慢するしかないと納得して、私たちは大人しくシャワールームへと向かう。その途中、たまたま他の宿泊客の部屋の様子が見えた。

 その住人の部屋は、多くの私物で溢れかえっている。きっともう長きに渡ってこのホテルに泊まっているか、その様相は完全に私室のようだ。
この部屋の主は随分とホテルを気に入っているらしい。
「やっぱり住めば都かな?」
「うん、ホテル探すのに1日つぶれちゃうのはもったいないしね。明日ベッドがくればそれでいいし、換気は悪いけどシャワーを浴びれば涼しくなるよ」

 そして就寝前、ダブルベッドに入った私たちは明日の予定について話し合う。
「ショッピングとかどう?」
「私は美術館に行ってみたいかも。最近芸術への興味が再燃してきたし」
「あ、それかクルージングでニューヨーク一周の三時間ツアーもいいかもね」
「おぉ、セレブっぽい!」
 明日への期待に、私たちのトーンも次第に弾んでいく。

 深夜も近くなってきたのもあって、お互いに変な気分になっていた。
「そういえば奈々ちゃん、床屋に行くんでしょ?」
 ニヤニヤしながら言う涼子ちゃんに、私は人差し指を横に振る。
「そこはビューテイサロンって言わなくちゃ」
 なんてただの雑談でも、涼子ちゃんはケラケラ笑ってくれる。
 確かに私はニューヨークで髪を切りたいと口にしていたけど、それはあくまで冗談のつもりで言ったこと。
 このときの私は、まさか本当に散髪することになるなんて夢にも思っていなかった。

 翌日。結局クルージングをすることにした私たちは、フェリー乗り場への場所を立ち寄った店の店員に訊いていた。
 しかし私の英語が伝わらないのか、何度言っても電車での行き方を説明される。そうじゃなくてと再度説明していると、横から黒人のおじさんが現れた。
「どこに行きたいんだ?」
「えっと、フェリー乗り場に」
「それならバスがある。ただフェリーまでは歩いても10分の距離だ」
 簡素だけどわかりやすい説明に、私と遅れて涼子ちゃんが感謝を告げる。歩いたほうが安上がりなら、そっちのほうがいい。
 それにしてもこの街の人たちは、みんな親切だ。昨夜のホテルまでの道を尋ねたときも、彼らは無視せずに答えてくれた。
 てっきりニューヨーカーは冷たい人ばかりだと思っていただけに、これは意外な発見だ。

 それから案内通りに歩いていると、フェリーの発着場が見えて来る。運がいいことに着いたのはちょうど出航する少し前。
乗る船の前でグループごとに写真を撮ることになっていたので、私たちも撮ってもらった。
 位置について掛け声の1つでもあるのかと思ったら、何の合図もなしにシャッターが切られる。そのときの私は、ちゃんとしたカメラ目線ではなく横目。
出来上がりは酷いものになってそうだ。でもそうなっていた場合は、写真を買わなければいいだけのこと。
 すぐさま気持ちを切り替えて、船へと乗り込んだ。

 船内には生憎にも隣同士空いている席がなかったので、私と涼子ちゃんは前後で座る形となる。
船の中から映りゆく都会の街並み。その中でもニューヨークらしいものと言えば、自由の女神やマンハッタンの高層ビルだ。しかし単に風景を撮っても、映る景色はガイドブックや絵ハガキで見る物と大差ない。
そう思うと、意気揚々と撮っていた思い出の写真たちが、途端にニューヨークに行ったことへのただの証拠写真に見えてしまう。

 嫌な想像をしてしまった。ここは何か目新しい物でも見て気分を変えないと。
 辺りを見回していると、ガイドをしていた男性が突然、片足をイスに乗っけたかと思えばマイク片手に首をすくめる、おどけたポーズで説明を始めた。
 あまりに異様で突飛な姿に、それまで固く結ばれていた口元が緩んでいく。

「あの人と写真撮りたい!」
 言いながら涼子ちゃんは、私にヒョイっとカメラを渡してきた。
 私はカメラを構えて、涼子ちゃんが位置につくのを待つ。てっきりガイドさんの後ろにでも行くのかと思ったら、涼子ちゃんは堂々とガイドさんに隣に並んだ。
 そういうことを臆せずできるところは素直に尊敬する。
 突然の涼子ちゃんの登場に、ガイドさんは驚くどころかむしろノリノリで彼女を迎えていて、肩に手を回してカメラ目線でこちらにポーズをとっていた。

「だったら私も!」
 交代でカメラを涼子ちゃんに預け、私もガイドさんの横に並ばせてもらう。
すると彼が私にマイクを向けてきた。
「ハ、ハロー!」
 みんなが一斉に私のほうへと振り返るかとドキドキしていたけど、他の乗客は全員景色に夢中で、誰一人私たちを見ていなかった。
 人がいっぱいいる中で、3人だけの独立した空間が広がる。不可思議な体験に、私と涼子ちゃんはお腹を抱えて笑い合った。

 それから船は自由の女神像のそばを通っていく。確かにあの緑の像を間近で見るのは圧巻だった。前評判でもここが一押しされることはある。
 しかし逆にここを過ぎた後の船旅は正直言うと大したものではなかった。自由の女神のインパクトが強かっただけに、余計にそう感じてしまうのかも。
 振り返って見たら、涼子ちゃんはクルージングの途中にもかかわらずコックリと頭で船を漕いでいた。

 終わってみたらあっけないものだ。
 あんなにニューヨーク一周を楽しみにしていたのに、私たちの山場はガイドさんとの写真だなんて。

 帰り際、ガイドさんには「アリガトー、バイバイ」と日本語で見送ってもらえた。
「なんでわたしらのこと、日本人だってわかるんだろーね?」
「あれだけカメラを持ってはしゃいでいれば、コテコテの日本人だよ」
「確かに!」
 涼子ちゃんは周りでしている同じような日本人を見て、ポンと手を叩いた。

 船から降りると、乗船前に撮った写真が既に現像されていた。
写真の私はやっぱり横目になっている。
隣の涼子ちゃんは、羨ましいくらいカメラ目線でかわいく写っているのに……。
「ヤダ~、私も横目にすれば良かったぁ。今度から目線外そう! なんか奈々ちゃんより太って見えるぅ。奈々ちゃん今度から写真のときはもっと前に出てよぉ」
 なんて口では言いながら、ちゃっかり写真を買う涼子ちゃんにつられて、私も1枚購入してしまった。
「これは是非とも他の人にも見せたい写真だね、特に笑いとるには! もしもわたしに何かあったら葬式の写真にして!」
 縁起でもないけど、確かに遺影がこれだけ満面の笑みなら遺族も必要以上に悲しまなくてすむかもしれない。

 その後は、ファッション街のSOHOに行くことになった。おしゃれなお店やブランド店が並ぶところだけど、似たような光景は原宿で見てきているからかカルチャーショックのようなものはない。
 でもアーティストの街だけあって、面白い雑貨やカラフルな絵がたくさんあって、歩いているだけで元気が湧き上がってくる。

 露店で売っている人で、ボブマリーのようなすごい髪型の人がいた。そんな目を引く人がいたら、涼子ちゃんが黙っているはずがない。
「あの人と写真撮りたい!」
 案の定彼女はそう言いだして、ボブマリー風の彼にカタコトの英語で写真の許可をお願いしていた。
 喜んだ彼は、両手を広げて涼子ちゃんを歓迎する。そうかと思えば涼子ちゃんに膝の上に座るようジェスチャーして、彼女の肩に手を回そうする。

 私たちは手早く写真だけ撮り、「サンキュー」と言って逃げる準備を整える。
「写真が出来たら自分の住所に送ってくれ」
 言ってる内容は理解できなくもないけど、それまでの怪しい言動からその言葉にも下心があるのはバレバレだ。
 涼子ちゃんと相談して、今日現像して明日ここへ持ってくると調子のいいことを言って、その場から退散させてもらった。



ニューヨークの床屋


 それから涼子ちゃんの要望で、私たちはブランド店へと足を運んだ。
着いて早々涼子ちゃんは立ち並ぶブランド店の前で写真を撮ったり、彼氏や友達へのお土産探しに夢中になっている。
 私のほうは、店内にあったアクションペインティング系の絵とそれが描かれたTシャツに目を奪われた。アクションペインティングは数ある絵のジャンルの中でも1、2を争うくらいに好きなもの。
 もちろん飾られていた絵は写真に収めて、Tシャツもバッチリ購入した。

 早速そのTシャツに着替えて、次はいよいよニューヨークスタイルにヘアカット!
「奈々ちゃん、髪型失敗したときにどう?」
 ウィッグ店の前を通りかかったとき、まだサロンに着いてもいないのに涼子ちゃんはピンクや緑色のカツラといった奇抜な飾り髪を勧めてきた。
 ド派手過ぎて私には合わない。失敗してお世話にならないことを祈るばかりだ。

 ガイドブック『地球の歩き方』に載っていた「早い! 安い! 美容室」を見つけたときは、“床屋かよ”なんて一人で突っ込んでいた。
 そして実物を目の当たりにすると、店内の様相は見慣れた床屋そのもの。
 ここって美容室って触れ込みだったよね……?

 不安を感じながら入口の扉越しに中を見ると、誰か知らないけど、この床屋の前で撮った有名人らしき写真が飾られてある。
 その人はオシャレな髪型をしていて一応の安心材料にはなりはしたけど、それでもここでどんな髪型にされてしまうのかわからない以上、恐怖が遅れてやってくる。

 やっぱり変にケチらずに80ドルのヴィダルサスーンの店にすればよかったかな。
 なんて後悔も頭の片隅にはあったけど、せっかくここまで来たのだし、ニューヨークの床屋に行く機会もそうそうないと思い直し、意を決して私は扉を開けた。

 中に入ってどうしても目に付くのは、店を利用する客層だ。
2階はどうかしらないけど、1階の席はほとんどおじさんで埋め尽くされている。やはりイメージ通り、ここは大衆向けの床屋だ。
 周りの雰囲気もなんだか狭くて汚いし、女性が1人で来るような場所ではないことは一目瞭然。一歩踏み出した足が躊躇いに後ずさりしてしまう。
 周囲に圧倒されて固まっている間に、美容師の中で一番若そうなおばさまが来て、困惑する私をよそに、すぐ鏡前の座席へと案内されてしまった。

 座ってしまった以上、いよいよ腹を括るしかない。
 せめてどんな髪型にするかは、カタログを見て決めさせてもらおう。
お任せなんて論外だけど、下手に不慣れな英語を口頭で伝えてとんでもない出来になったら一晩寝こんでしまいそうだ。
 カタログをお願いすると、持ってこられたのはすごく年季の入ったおばさん向けのものが何冊か。
 渋々カタログをめくりながら、同伴していた涼子ちゃんに愚痴をこぼす。
「なんでここが『歩き方』に載っていたか不思議」
「でも、若いお客もいるよー」
 そう言って涼子ちゃんが目線を向けた相手は、親の付き添いが必要な子どもだった。
 若いのはそうなんだけど、それはなんていうか違うじゃん……?

 価格表を見れば、シャンプーとカットで17ドルとある。東京によくある1,500円カットみたいなものなのだろうか。
 引き続きカタログからめぼしいものがないか探していると、涼子ちゃんが横から指さしてくる。
「こういうのニューヨーカーっぽくない? 前が長くて横が短いから、頭の後ろにボリュームを持たせて、頭の形良く見えるし、背も高く見える」
 他にこれというのもなく、前髪に手を加えなさそうな髪型がよかったのでそれに決めた。

 涼子ちゃんは待っている間暇だから、その辺を見て回ると言う。
「ゆっくりしてきていいからね。あ、それと。見て笑わないでね」
「うん、笑う! すぐ戻ってくる!」
 ここでもまぶしい笑顔を向けて、彼女は店を後にした。

 1人になると、ますます不安感は強くなっていく。
けれども私の心配とは裏腹に、カットはめちゃくちゃ早い。
ただずっと美容師同士で話していて、途中に私に意見を求めないのはやっぱり不安だ。
 そう思っていたら案の定、確認もなく美容師のハサミが私の前髪にまで攻めてくる。前髪は切られたくないのに!
「ノー!」
 頭を避けようとしたけど、美容師のハサミのほうが早く、結局前は短くなってしまった。
 そして絶望に打ちひしがれる余韻もなく、ものの7~8分でニューヨークで髪を切る私の夢は終わった。

 涼子ちゃんはまだ戻ってこない。さすがにここまでの早さは彼女も予想外のようだ。
 待っている間、鏡に映る自分の姿が嫌でも気になってしまう。
その髪型を一言で表すなら松ぼっくりがピッタリだ。いいさ、笑いたければ存分に笑うがいい。
 半ばヤケになっていたけど、戻って来た涼子ちゃんには意外な反応をされた。

「い~んじゃなぁい? ほら、この辺がヴィダルサスーンって感じだよ」
 なんとも言えないコメントはフォローと受け取っていいのか、それとも冗談の類なのか。
 いや涼子ちゃんのことだ。単に適当なことを言っているだけという可能性もあり得る。
 彼女の本心はわからないけど、記念に店の前で写真を撮ってくれた。



無敵の涼子節


 次の日は、ホイットニー美術館に行くことに。
 涼子ちゃんは絵にまったく興味がないらしく、「ラッセンの絵あるかなぁ?」なんて言っていたくらいだ。
 流石にマリンアートは飾られてないと思うよ。

 美術館に着いた私たちは、早速最上階の4階に上がって順に下がって見ていく。
 途中好きな絵の前でカメラを構えたら、日本人のおじさんに「カメラはダメですよ」と注意された。
 正確にはフラッシュがあるとダメということらしい。私も涼子ちゃんも持っているカメラは自動フラッシュで調節ができないもの。泣く泣く写真は断念することとなり、写真好きの私たちはそろって肩を落とした。

 それでも芸術の価値が損なわれたわけではない。
 美術館には様々な作品が展示されている。それはもちろん絵画だけではない。瓶に入ったおじさんや、名古屋のナナちゃん人形みたいな巨大な女性のオブジェなど。
 こんなものもあって大丈夫……?
 ときにはそう思ってしまうような、ゲイの裸体が絡んでいるマネキン5~6体の作品も。


 ただ目を引くのはそれくらいで、他に特段気に入るような作品もなく、横目で通り過ぎるばかり。
「奈々ちゃんが好きそうなのないねー。あの人に訊いてみたら?」
 私の様子に見かねたのか、涼子ちゃんは近くにいた背たかのっぽの黒人と中年男性の警備員に促してくる。

 せっかくなので、好みであるアクションペインティングの作品がないか彼らに訊いてみた。
 しかしアクションペインティングと言っても彼らには伝わらず、絵の説明もなかなかうまくできない。
 それでも中年男性は、熱心にいろんな画家の名前を出してくれる。
 預けてしまった本を見ないとわからない私に、彼はその本を持ってまた来なさいと言ってくれた。


 フロアの作品を見終えていない私たちは、本を持ってくるより先に全て見回ることにする。
ゆったり作品を見回っていると、なぜか先程の中年警備員が持ち場を離れてやって来た。
「自分はアーティストでアパートにたくさん作品があるから、見に来ないか?」や「絵を習いたいなら教えてあげる」と優しい言葉をかけてくれる。

 しかし翻訳を聞いた涼子ちゃんは否定的だ。
「え~!? やめときなよ。危ないよー!」
 涼子ちゃんに手を引かれて、私も目が覚める。私1人だったら大丈夫かとも思ったけど、涼子ちゃんを危ない目に巻き込むわけにはいかない。
 それに先程涼子ちゃんに向けられた警備員の視線が、彼女の顔ではなくその下辺りに向けられたのが気になる。

「本を取りに行かないと」
 そう言って涼子ちゃんの手を引こうとするも、警備員に遮られる。
「君は取りに行っていい。あなたはここに残りなさい」
 警備員は涼子ちゃんに残るよう言ってきた。彼女のことを気に入ったのだろう。これはもう下心があるのは確定だ。
 私たちは強引にその場を後にした。

 彼らから離れた後、涼子ちゃんにお小言をもらった。
「奈々ちゃん、アイツのこと利用しようと思ったでしょ。絶対ダメだよ。逆に利用されちゃうよ。アイツ、あの背たかのっぽのところから離れて話したときからおかしいと思ったもん」
「そうだよね……。ごめんね、巻き込む形になっちゃって」
「被害はなかったから全然大丈夫! ただもったいないことしたなぁ。アイツとゲイのマネキン、一緒に撮ってやりたかったのに」
 涼子ちゃんが、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
 私も人のことは言えないけど、涼子ちゃんのしたたかさは常々感服させられる。

 その後はニューヨークの代名詞とも言える五番街に行くことになったけど、今日が日曜日ということもあってブランド店はほとんど休みになっていた。
 高級マンションや歴史的な大邸宅が並ぶ有名な街とは聞いていても、ブランドや歴史建造に関心が薄い私としては、特段ピンとくるものもなくこれまで見て来た街並みと変わらないように見えてしまう。

 でも涼子ちゃんは、憧れの街に来れた喜びでテンションが最高潮になっていた。
グッチやシャネル、ヴィトンなど名だたる有名店の前に行ってはひたすらにポーズを決めていく。私はその度に涼子ちゃんの華麗なキメ姿を写真に収めていった。
 ファインダー越しに映る私の景色は色あせたモノだったけど、涼子ちゃんにはきっと世界が輝いて見えている。

 ただ日曜日は何も悪いことばかりではない。
 休日だけあって、あちこちでパフォーマンスが行われている。
セントラルパークに行った私たちはサンドイッチ片手に彼らの芸を観賞する贅沢を味わえた。

 それから涼子ちゃんとは別行動をすることに。
私は近代美術館へ、涼子ちゃんはお土産を買いに。1時間後に集合予定にした。

 美術館には様々な作品が展示されているし、ここにあるのがどれも芸術的価値の高い作品であることはなんとなくわかる。
でもソレと私の琴線に触れることは別問題。
眺めてみても「すごいなぁ」とか「描くの大変そう」なんて浅い感想しか出てこない。

 そんな漠然とした虚無感を覚える中で、唯一心が突き動かされた作品に出合えた。
 それはクロード・モネの『睡蓮』。
 彼の作品は、東京で独り暮らししていたときにポスターを飾るくらいに好きだ。
 そしていざ壁一面に展示されている本物を前にしたら、そのあまりの迫力と美しさに私はしばらくその場で立ち尽くしていた。

 圧倒された私は、遠くから眺めたり、近くに寄ったり、たまに目を閉じたりして、目を閉じても睡蓮が思い出せるくらいに、目に焼き付けようとしてみた。
 やっぱり生で見ることで得られる感動はポスターで見るのとは比べ物にならない。これだけでもわざわざ芸術館に足を運ぶ価値がある。
 この芸術の世界にずっと浸っていたい気持ちにさえなってくる。きっとこれは写真で残したとしても伝わらないものだろう。


 待ち合わせ時間になるまで集合場所で待っていると、苦笑をにじませる涼子ちゃんがやってきた。彼女の手荷物は、お土産を買うにしてはあまり多くないように思える。
「やっぱりわたし一人じゃダメみたーい。店員に何回訊いてもすぐ笑われちゃう。それにあんまり欲しいモノ買えなかったよぉ!」

 涼子ちゃんはきっと、日本語混じりになりながらも涼子イングリッシュで一生懸命伝えようとしたのだろう。
店員に笑われたのも、おそらく彼女を小バカにしたのではなく、彼女の奮闘が微笑ましかったからではないだろうか。
 それに涼子ちゃんの笑顔には不思議なパワーがある。彼女が笑うとみんなつられて笑ってしまうから、そういった理由もあるのかもしれない。
 私のフォローで、涼子ちゃんも元気を取り戻してくれた。

 ただ元気を取り戻すと、今度はそれまでの愚痴が溢れて止まらない。
「ひどいんだよ!? こっちはプレゼント用に包装してって言ったのに、実際にしてくれたのは柔らかい紙をクシャクシャにして緩衝材として紙袋に入れるだけ。『ナイスに包む』なんてカッコいいこと言ったのにだよ!?」
「具体的に言わないとそうなっちゃうんだよね。私も経験ある」
「そうだと思ってちゃんと言ったの! 『リボンで包んで!』って。なのにしてくれたのは、折り畳みボックスを一緒に入れてくれただけ! 信じられる!?」
「でも残念ながらそれもカルチャーショックとして受け入れるしかないんだよ。こっちにはリボンで箱を装飾するっていう習慣がないみたいだから」
「そっかぁ……。日本って偉大なんだねぇ」
 うなだれる涼子ちゃんに、私は美術館で買ったモネの絵はがきをプレゼントした。
 芸術に興味がない彼女でも、モネの絵はキレイと喜んでくれたのでよかった。

 それからしばらく、ブラブラとネオンギラギラのブロードウェイを歩いていると、映画か何かの撮影らしく、道路に仕切りが作ってあった。周囲にはカメラの機材やスタッフと、それらを一目見ようと群がる野次馬たち。
 私たちも少しだけその野次馬の一端になってみたけど、見渡す限り俳優や女優らしい人は誰もいなかったので、大人しくその場を後にした。


 その先を少し歩くと黒人が踊っているのが目に入る。みんなおもしろそうに見物していたけど、パフォーマーが帽子を観客に向けて“お金を入れて”と目で訴えると誰も見向きもしなくなってしまう。
 この撮影を見に来て集まったギャラリーに向けて披露しても、彼らの目的が撮影にある以上、集客のおこぼれにあやかることは難しいようだ。

 撮影の通りから外れると、車に乗っているポリスが見えた。日本の警察を見てもなんとも思わないけど、本場アメリカの警察官はガタイがいいのもあってカッコよく思える。
 そんな素敵なものを見たら、彼女が飛びつかないはずがない。
「あのポリスと写真撮りたーい!」
 案の定隣からそんな声が聞こえてくる。涼子ちゃんの写真撮りたい欲に私もあやからせてもらおう。
 
 涼子ちゃんに続いて私もカメラを取り出すも、相手がマッチョな警官だけあって中々写真の許可を言い出しにくい。
 そろってもじもじしている私たちに、ポリスさんが気づいてくれた。
 彼らは私たちが写真を撮りたいことをジェスチャーで確認すると、気前よく車から降りてきてくれた。

 普通に並んで写真を撮らせてくれるのかと思いきや、警官は自身の帽子をとってわざわざ私に被せてくれた。
「はい、交代だよ。こんなこと滅多にないよね」
 涼子ちゃんの番になり、被せてもらった帽子を今度は彼女に渡す。
 しかし彼女は帽子を被って早々、なぜか下を向いて笑っていた。
「そんなに帽子被れるの嬉しかった?」
「違うの、あの帽子が全然被れなくって! つまりわたし、あの警官より頭がデカイってことでしょ!? もう写真見たくなーい」
 笑いながら言ってはいたけど、それなりにショックは大きかったようだ。その後も涼子ちゃんはしばらく自分の頭を撫でたり、サイズを測る素振りをしていた。

 夕食には、たまたま見かけた立ち食い蕎麦屋に入ってみる。
 店内は店員もお客さんも日本人のようだ。
「いらっしゃいませ」
 見慣れた日本風の店内装飾に聞き慣れた日本語で出迎えられ、思わずニューヨークにいることを忘れてしまいそうになる。
「懐かしい!」
「わたしも!」
 感想を漏らす私に涼子ちゃんが同意してくる。彼女のほうは、まだこちらに来て1週間しか経っていないというのに。

「懐かしさ感じるの早すぎない? まだ1週間だよ」
「あらやだ、奈々さんったら。それって友達のアヌーのことでしてよ。わたしたちはもうニューヨークに来て1年にもなるんですの」
 涼子ちゃんが突然よくわからないセレブ気取りで、訳のわからない冗談を口にする。
 誰に自慢したかったのか理解はできなかったけど、涼子ちゃんがあまりにもノリノリだったせいで爆笑させられるハメになってしまった。

 蕎麦を食べ終わった私たちは、ホテルの最寄り駅に帰ろうと地下鉄へ向かう。
 最寄り駅は『14st8ave』。詳しい行き先とかはわからないけど、左右のプラットホームのうちその表示があるほうに乗れば大丈夫なはず。
 ここは海外暮らしの先輩として、涼子ちゃんをスムーズに案内しないと。
 そんな小さな見栄を張るため、私は周りの人に訊くこともなく涼子ちゃんの手を引いて、ちょうど来た電車に乗り込む。

 電車に乗ってから地下鉄マップを広げて通り過ぎる駅を確認していると、電車が止まったのは“次”に着くはずの駅ではなく、逆方向の駅。


 これが日本であれば、駅に備え付けられた階段をつかって反対ホームに渡れば何の問題もない。
 しかしここアメリカでそんな便利なことはできず、反対方向へ行くには一度改札を出て清算を済まさなくてはならない。

 駅にもよるけど、一回乗り間違えるだけで切符が無駄になってしまう。
 駅には確かに『14st8ave』と表示されていたはずだったから、絶対に大丈夫だと思って、知ったかぶりをした結果がコレだ。

「ごめんね。切符代払うよ」
「いいよ。間違えることもあるじゃない。わたしもわからなかったし、駅の表示に惑わされることもあるよ」
 優しい涼子ちゃんはそう言ってくれたけど、良心が痛む私は切符を二枚買って、無理矢理彼女に握らせた。

 電車を待っていると、涼子ちゃんが小銭をかき集めて切符代1ドル50セントを私に返してくる。
「え! 悪いよー」
「ダメダメ! 奈々ちゃんが悪いわけじゃないもん」
 このまま押し問答するのも悪いと思い、結局涼子ちゃんの優しさに甘えさせてもらった。

 こういうことをしてしまうから、私は未だに電車の利用には慣れていない。でもだからこそ、わからないときは素直に駅員に訊くべきだと反省した。
 1人だったらともかく、相手もいる場合は迷惑をかけてしまう……。
 申し訳なさと自惚れた自分への怒りで、気分がどんどん暗くなる。

 ふと横目で涼子ちゃんを見ると、彼女は何かを手帳に書いていた。どうやら旅行中に行った場所を記した一行日記らしい。
「今日最初に行った美術館って、ヒューストン美術館だったっけ? あの中年警備員に絡まれたヤツ」
「うん、そう――。あれ……? 違う、ホイットニー美術館だよ!」
 確かにヒューストン美術館はテキサス州に実在する。でもそれを絵に興味のない涼子ちゃんが知っているわけない。
 アメリカ歌手“ホイットニー・ヒューストン”からの連想だと知ったときは、呆れに笑いがこぼれた。

 涼子ちゃんの明るい声と大きな笑い声、天然ボケなキャラクターにはいつも元気をもらえる。ネガティブな自分にはない、羨ましい個性だ。



細田夫妻


 今後の予定を立てていく中で、個人での観光だけじゃなくてツアーもいいよねっ! という話になった。そこで私たちはニューヨーク市内を観光できる日本人用のツアーに申し込んだ。
 当日の集合場所はグランドハイアットホテル。
そこは高層で一面がガラス張りで作られている超高級ホテルだ。私たちが今利用している刑務所のような、臭くて汚くて狭いホテルとは比べるのもおこがましいレベル。
「ここで待ち合わせって私たちに対して、イヤミだよねー? なんでわたしたちのホテルに集合しないのかねぇ」
 愚痴垂れる涼子ちゃんに、私も深々と頷き返す。

 外にいても感じられるホテルの高級感に圧倒されていると、蛍光グリーンのポロシャツを着た添乗員女性がやってきて、私たちの名前を呼んだ。
 自分たちは名乗っていないのに、どうして一目見ただけでわかったのか。それは他に、わざわざホテル前でツアーバスの到着を待っている客がいないからだ。
 それはつまりここで乗る他の客は全員、ホテルから直接ツアーバスに乗る宿泊客ということ。

 乗客は他にも、ヒルトンホテルから乗り入れる人もいるらしい。今日は特別参加者が多いらしく、バス2台でのツアーになると添乗員の岸さんは言っていた。
 車内で彼女のアナウンスが響く。
「ニューヨークの夏は、夕方や夜に雨が降ったりするため湿度が高く、ものすごい茹だるような暑さで不快指数80にも上ります。今日は雨が振りそうなので、ニューヨークの風物詩を感じて、貴重な体験として覚えておいてください」
 冷静に聴くとただただ嫌な情報なのに、風物詩やら貴重な体験やら言われれば悪くないと思える言葉の不思議。
なるほど物は言い様だ。

 ヒルトンに着いてバスを降りた私たちは、全員集合した参加者に対し岸さんが点呼して出席確認をしていた。
 しかし彼女が「細田さん」と何度呼んでも返事がない。しかし参加人数は合っているらしく、単にその「細田さん」は返事をしていないだけのようだ。

 「細田さん」は夫妻での参加だった。一目見ても金持ちだとわかるような風貌をした中年の男女。さっきのグランドハイアットでも、ヒルトンへ出発のときに突然いなくなるという珍事をやらかしてくれた問題夫妻である。
 探しに行くハメになった岸さんには心底同情します……。

 それはそうと、いい大人が添乗員を困らせるなんて本当にだらしない。仮に私が添乗員だったら絶対にイライラしてしまう。
1回だけだけど添乗員の経験がある私は、つい添乗員側の気持ちになる。

 岸さんもきっとイライラしてるだろうねと、涼子ちゃんと2人で話していた。
「だから添乗員って、いっぱい入ってもすぐ辞める人が多いんだろうね。きっと岸さんも短期組だね」
 それだけストレスの多い職場なのだ。『観光地を巡りながら楽しくガイド』なんて夢物語だと痛感する。

 ツアーが始まるバスは自由席であった。添乗員の席以外は好きな席に座っていいと言われ、私たちはダッシュでバスの中に入る。
 陣取ろうとしたのは添乗員席の近くの席。何かあったらすぐ質問できるようにするためだ。

 しかしそこには先客のおじさんが座っていて、私たちは諦めてその後ろに座る。
 バスの発車を待っていると、ご主人の細田さんが何かをおじさんに言いに行き、なぜかおじさんが席を立った。
 ラッキーじゃん!
 私と涼子ちゃんはすかさず空いた席を確保する。

「なんでおじさん、どいちゃったんだろうね? でも良かったー」
 疑問を覚えながらも座席確保の喜びに浸っていると、今度は私たちのほうに細田主人がやってきた。
「あの、すみません。さっきあの方がここに座っておられたんですけど、僕が『そこは添乗員の席だから』と伝えて、あの席に移られたんです。でも僕の間違いだったみたいなので、あの方と席を代わっていただけませんか?」
 そういう事情ならまぁ……。
 私は渋々立ち上がろうとするけど、涼子ちゃんは頑として席を譲る気はなかった。

「それはそちらがお間違えになったんでしょう? わたしたちには関係ないことかと」
「ですからあの方は最初にここに座っていて、この席に座りたがっているので代わってもらえませんかと言っているんですけど……」
「でも私たちもこの席がいいので! すみませぇーん」
 涼子ちゃんに気圧されたのか、細田主人はそれ以上何も言わず背中を丸めながら引き下がっていった。

「席は早い者勝ちなのに、知ったかぶって他人におせっかい焼いて嫌なヤツだねぇ」
 ひそひそと涼子ちゃんが耳打ちする。
 さっきの行動が完全に悪いとは思わないけど、集合時での一件もあるせいで細田さんには嫌な印象が勝ってしまう。

 それからツアーバスが発車され、世界貿易センタービルへとたどり着く。その最上階へと上がって展望を眺めるのがプランの1つだ。
しかし岸さんのアナウンスがあった通り、今日は生憎の曇天で、窓からの景色はほとんど真っ白で埋め尽くされていた。

 ただそのビルには映像を見ながら座席が振動するアトラクションがあり、ヘリコプターに乗ってニューヨークを上空から眺めるシチュエーションというもの。
映る景色は録画されたものだけど、画面に合わせて椅子が動く細かい仕様で、ヘリコプターに乗っている臨場感は十分に味わえた。

 しかし気にしないようにしても気になってしまうのが、周りに座った乗客が誰かということ。私たちの前には、あの細田夫妻が座っていた。
「また一緒になっちゃったねぇ……」
 彼らから実害を受けた訳ではないけれど、一度抱いてしまった印象から何かされるのではないかと不安がよぎってしまう。
 モヤモヤを抱えたままのアトラクションに、私と涼子ちゃんは互いに顔を見合わせて苦笑を浮かべるしかなかった。

 約6分間のヘリコプターの旅が終わる頃には、集合時間が迫っていた。トイレに行ってから向かう私たちは、遅れないようかなり急いだ。
「Bバスの人は前に行って!」
 岸さんではない、Aバスの添乗員から先を急ぐよう言われる。そんなことを言われるということは、私たちが最後なのだろう。
 申し訳ない気持ちでバスに乗り込むと、入れ違いで岸さんが乗客を探しに出ていった。もちろん不在の乗客は細田夫妻。
 さっきまで一緒にアトラクションに乗っていたのに、あの一瞬で行方不明になるなんて何をしたのか。

 しばらくバスの中で待っても彼らは現れない。迷子の客が出たときは、ツアーの会社に電話して後程迎えに行ってもらうことになっている。
車内の空気はもう置いて行こうという雰囲気でまとまりかけていた。

「細田さんが行方不明になりましたので、11時半のフェリーには乗れません……」
 岸さんが申し訳なさそうにアナウンスしていると、向こうのほうから細田夫妻が歩いてくるのが見えた。

 他の人を待たせている身の上でヴィトンのペアバッグを揺らしているのが、怒りを通り越して随分と滑稽に見える。
「拍手で迎えようか?」
 私たちではない、別の乗客の誰かから嫌味が飛び出してくる。
 涼子ちゃんも相当の怒りを覚えているようで、彼女の両手は握りこぶしを構えている。

「人にはおせっかい焼くくせに、自分のことちゃんとできないじゃん! グーでパンチだよ!」
「椅子に画ビョウでもまいとこーか?」
 悪乗りが過ぎるとは思いながらも、これだけ待たされたら涼子ちゃんに賛同せずにはいられない。
「生卵のほうがいい」
 そっちのほうが不快感はあると、涼子ちゃんは不敵な笑みを浮かべていた。

 それはそうと、ここまで大遅刻をかましてくれた細田さんはなんと言ってくれるのか。
「すみません。エレベーターが混んでいて……」
 結果は当たり障りない言い訳だった。
「わたしはノミの心臓なので、皆さん迷子にならないでくださいね」
 冗談か本当かわからないけど、岸さんのフォローでバス内に笑いが広がり、どうにかその場は事なきを得ていた。

 それからも細田夫妻とのツアーは続く。
直接絡みがなくとも、遠目で見てれば段々と彼らについてわかってくることがある。
 ご主人の細田さんは、ブルドック顔をした大阪弁の男性。奥さんはメガネをかけた痩せた女性。ヴィトンのペアバッグが妙に浮いて見える。


 次の目的地ではフェリーに乗る。これは岸さんが何度もアナウンスしてきている。
にもかかわらず細田さんは降りるときになって、「次はどこに行くんですか?」と質問していた。
 今度は何をするつもりなのか、乗客全員が彼らの行動を見ている。細田さんは何やら岸さんと話し込んでいた。
「な~んかあの雰囲気。『だったら乗らない』とか言い始めそうだよねぇ」
 そんな涼子ちゃんの何気ない予想は、見事当たっていた。

「あの人たち。きっともう別の機会で乗っちゃってるんだろうねー。勝手だねぇ。こういう人はツアー向かないんじゃない?」
「本当にね。少しは私たちも見習って欲しいよ」
 ツアーが予定しているフェリーでは、自由の女神を間近で見ることができるもの。これは私たちも前に一度乗っている。でもせっかくだからと何も言わずに参加しているのに。

 前に会った陽気なガイドのお兄さんが懐かしい。
 あの頃の思い出を語り合おうと涼子ちゃんを見ると、彼女はまたしても寝てしまっていた。

 フェリーを終えた後は、予定の時間まで自由時間となっている。
しかし問題児を抱えているこのツアーで自由行動は見えている地雷とも言っていい。だからといってツアー内容を変更できる権限なんて岸さんにはない。
 岸さんは私たちに、特に細田夫妻に向けて口を酸っぱくして遅れないよう釘を刺してくる。これだけ守れば絶対に迷子にならないと、アドバイスまで付け加えて。

 それでいざ自由時間が始まると、中国人や韓国人ツアー客でごった返しており、あれよあれよと人の波に呑まれてしまう。気づけば私たちは、日本人のツアー客とはぐれてしまっていた。

 私たちは急いで待ち合わせ場所を探したけど、着いた頃には集合時間は過ぎてしまっている。
 岸さんが手を振っていて、私たちが来たのを確認するとツアー客が進み始める。遅刻した私たちで最後だったようだ。
 こういうときに限って、細田夫妻はキッチリ時間を守っていたらしい。
「ゲー! 細田2だよぉ」
 涼子ちゃんはそれ以降、彼らに対する不満はあまり言わなくなった。
 私たちは散々彼らのことを悪く言ったけど、こうして遅れてしまっては人のことを言う資格なんてないのだ。



添乗員はつらいよ?


 お昼は中華街でランチの予定だ。
 私たちが選んだコースは、北京ダック付きのスペシャルコース。幸いにも細田夫妻とは違うコースだったため、彼らとテーブルを囲む心配はない。
 普段のんびりしている細田夫妻は、食べるときになると先頭きって席に着いている。
そのやる気を他の所にも活かして欲しいと、思わなくもない。

 丸テーブルを数人で囲むように座る昔ながら中華スタイル。1つの皿に盛られた料理を、テーブルを回しながらそれぞれで取り分けていく。見知らぬ人との食事は、取る量に配慮するのがマナーとして正しいのだろう。
 でもここは弱肉強食のニューヨーク。
礼節よりも欲望を重んじる私たちは、空腹に任せてモリモリ食べていく。

 続いて来たチンジャオロースも、私と涼子ちゃんで思う存分取り分ける。夢中で食べていたら、隣の夫妻の分がないことを失念していた。
「ダメよ! こういうのは早い者勝ちだから、さっさと取らないと取りそびれるわよ!」
 残念そうに肩を落とす旦那さんに、奥さんが叱っている。
 気の強い奥さんと尻に敷かれる旦那さんという構図は、まるでアヌーとピーターのようだ。
 食べ物の恨みは恐ろしい……。

 奥さんの言葉が店内に響いたからか、私たちの隣にいたマッチョさんが、夫婦に麻婆豆腐を差し出していた。
 このニューヨークでも日本人の善性は失われていなかったようだ。だからといって私たちまでも気を遣うかは別問題だけど。
ただ無遠慮に食べるのは卑しい気がして、私はそれ以降、料理に手を付ける分を少し控えた。
 いや、そもそもそんな調節なんてできるほど、私たちの胃のキャパシティは大きくなかった。
無計画に食べ進めたせいで、楽しみにしていたはずの北京ダックは少ししか食べれなかった上に、満腹過ぎて気持ち悪い。

 でも持ち帰ってもいいと言われた以上、遠慮することはない。もらった容器に入るだけ詰めさせてもらった。
ついでに箸ももらわないと。しかし箸の英語がわからない。
「“箸”は英語でなんて言いますか?」
 優しそうなマッチョ男性に訊いてみた。
「chopsticksだよ」
「チュッパチャプス?」
 マッチョさんの回答に、涼子ちゃんが渾身の天然ボケを炸裂する。
不意をつかれた私はもちろん、マッチョさんもツボに入ったようで大笑いしていた。

 客が次々と店を後にする中、私たちはお箸をもらうために待たなくてはならない。
このままでは食後の集合場所にまた遅れてしまう。逸る気持ちですぐさま集合場所に行くも、最後になったのは私たちではなく、安定の細田夫妻だった。

 帰りのバスの中で岸さんが、アメリカでここだけは行ったほうがいい、オススメスポットを話している。
 ニューヨーク、ディズニーワールド……。それにもう1つ場所を挙げていたはずだけど、日記帳にメモしてなかったせいで私の記憶からはキレイさっぱり。
「――その3つを既に制覇された方はいますか?」
 岸さんの質問に、みんな周りをキョロキョロするだけの様子。私だってまだニューヨークにしか行っていない。
そんな中、少し遅れて手を挙げる人が現れた。
 乗客全員の視線がその人に集まり、そして納得と落胆を表すように息を吐く。該当者は細田夫妻だった。

 お揃いのヴィトンバッグも相まって、アメリカの名所も制覇した金持ちですというアピールに見えてしょうがない。
集団行動では時間を守らない、名前を呼ばれても返事をしない、二人だけで別行動をとる。人にはおせっかいを焼くくせに、自分のことはちゃんとできていない。
 こんな大人が、何かの仕事で成功していて、地位もあって、誰かの上司でお金をたくさん得ていると思うと、信じられなかった。

 バスが朝待ち合わせした高級ホテルの前に着くと、私たち以外全員降りて行く。私たちの安宿までは送れないけど、近くで降ろしてくれることになった。


 必然的にバスに残るのは、運転手を覗けば岸さんと私たちだけになる。今なら何でも話し放題だ。
「わたしたち、日本で添乗員やったことあるんですよ」
 唐突に涼子ちゃんが話題を切り出し、そこからガールズトークが開催される。
 岸さんの添乗員経験は海外だけで、国内ではやったことがないらしい。涼子ちゃんは逆で、国内はあるけど海外はないと話していた。

「海外でもぜひ働いてみてはいかがでしょう。いろんな人に出会えるし、自分の勉強にもなりますよ」
「細田夫妻みたいなお客さんもいるし、今日の岸さんを見ていたら大変そう……」
「だよねー! 他人ながら、何度イライラさせられたことか!」
「ああいう人は稀ですね。とにかくどこでも眠れて、なんでも食べられて、声が大きければ誰でもなれますよ。この仕事の楽しさに比べたら、大変さなんてほんの少しです。そうですね、9対1くらいでしょうか」
 岸さんは淀みない瞳で、堂々と今の仕事が楽しいと告げる。

 私は勝手に岸さんの立場に立って嫌だと同情していたけど、たった1日だけでは判断できないのかもしれない。
 誰かにとってはツライことでも、そこまでしんどいと思わず続けられることは“天職”だ。
 岸さんは、職業としての大変さや苦難を割り切った上で、今の仕事を楽しんでいる人なのだ。

 この後岸さんからアポロシアターの情報を聞いた私たちは、予定を変更してニューヨーク滞在を数日延長した。



※このアポロシアターでのエピソードは、関連作『旅の喜怒哀楽以上“悟り”未満』の『NYであみん!?』に書きました。併せてわせてお楽しみください。



笑いなしの旅


 ニューヨーク滞在を延長することになった私たちは、チケットの日付を変更しにアムトラック鉄道の駅に向かう。
ニューヨーク観光後すぐに行くはずだったナイアガラは今しばらくお預けだ。

 窓口は長蛇の列だった。
 並んでいる間に話す内容を頭の中で整理していると、ナイアガラで予約しているB&Bについて、鉄道から遠いかも訊いて欲しいと涼子ちゃんにお願いされる。

 B&Bの住所はカナダのガイドブックに書いてあり、その本は今手元にないためわからない。でも確か、カジノの近くにあると予約のときに聞いた覚えがある。
「気になるならJTBに電話して訊いたら?」
「わたし英語話せないよ?」
「JTBは日本語で対応してくれるでしょ? 私はここで並んでないといけないから」
 涼子ちゃんは頷くと電話をかけに行った。

 間が悪いことに、涼子ちゃんが抜けた途端列の進みが早くなる。この調子だと彼女が戻る前に私の番が来てしまいそうだ。
こんなことなら彼女の分もチケットを預かっておけばよかった。
涼子ちゃんが間に合わなければ、再びこの長蛇を並ばなければならない。
 私が焦燥感に駆られ始めていると、数分もしないうちに涼子ちゃんが戻ってきた。なんでも日本語無料相談の営業時間を過ぎていたのだとか。

 それから自分たちの番になり、あらかじめ整理していた通り窓口に日にちを変えたい旨を伝える。
伝達はバッチリできて万事解決なんて浮かれていたら、その後に対応の駅員から早口で質問される。
 質問があるなんて予想してなかったし、早口過ぎて聴き取れなかった。
一旦わからないことが生じると、私はちょっとしたことでもパニックになって普段わかることでさえもまったく理解できなくなってしまう。
 トロントでトークンを買ったときの悪夢の再来だ。

 こうなったらわかるまで聞き返すしかない。
何度も聞き返していたら、黒人の中年男性駅員は露骨にイラ立ちを表に出し始めてきた。体は小刻みに震えて、今にも怒りが爆発してしまいそうだ。
「君はまったく理解していないし、君の言っていることがわからない」
 彼の苦言には、怒声のような勢いが込められている。

 トロントでの嫌な思い出がフラッシュバックする。でも誰のせいにすることもできない。
悪いのは勝手にパニックになって英語が聞き取れない私だ。

 だからと言ってここで引き下がれば、ここまで来た労力も、泣きそうになるのを抑えている我慢も無駄になってしまう。
 その場から逃げようとする足を必死にその場に留めて、私は泣きの1回と思い、もう一度訊き直す。

「ナイアガラからトロントに帰るのはいつ?」
 落ち着いて、耳を澄ませばよく聞こえる。並んでいる単語はどれも簡単なものばかり。私は『When(いつ)』という基本的な単語すら聞き逃すほど、動揺していたらしい。

 意味が理解できたことで、ようやく話を進められる。駅員をイライラさせてしまった申し訳なさもあるし、なるべく簡潔に済ませよう。
 そう思った矢先に、横から涼子ちゃんが口を挟んでくる。
「あ、帰りの分も手配してくれるなら、遅い時間じゃないとダメだよー」
 そのアドバイスは至極真っ当だ。スムーズにことが運んでいたら、彼女の助言に感謝していたに違いない。
でもソレを伝えるべき相手は、怒りの沸点間際で爆発寸前。それに予定にない会話を不出来な英語で伝える労力は計り知れない。
 どうにか会話の流れから、それっぽい話に誘導できるか試みるのが関の山だ。
 しかし話を振るより先に、チケットの取得で問題が生じた。日付の変更はできたが、トロントまでの帰りの席は埋まっているとのことだ。

「そういうことだから、予約の必要がないバスで行こう」
「じゃあ、ナイアガラからトロントまでのチケットの返金はして貰える?」
 それについては、以前岸さんにも確認してもらったことだ。チケットの返金は、買ったところ(トロントのユニオン駅)でしかできないと。
 それに店員を見れば、もう要件は終わっただろ? とでも言いたげで、イライラを抑えるのがやっとのようだ。
 これ以上彼を刺激して不手際があれば、今度こそ怒号が飛んできそうだ。それに私のせいで随分と人を待たせてしまっている。
「もういいよ。行こう」
 ナイアガラまでの予約だけできれば上出来だ。私たちは逃げるように窓口から去った。

「ここってなんだか不便だね。日本語わかる人を置いてくれればいいのにー」
「英語圏に来ておいて、それは無理だよ」
「えー、でも日本では英語できる人置いているでしょ?」
「英語は世界の共通語だもん。こればかりは英語を話せないのに来ている自分たちが悪いんだよ」
 もっともらしいことをのたまう自分に嫌気が差してくる。
 そう、私は英語が話せない。3ヶ月間も外国で過ごしているのにもかかわらず……。
 私がしてきたことはただ外国に身を置いてきただけで、英語が身に着くよう努力も勉強もしてこなかった怠け者だ。
 今は涼子ちゃんと使い慣れた日本語ばかり使っているから、余計に英語を忘れている。


 落ち着いてきたら、だらしない自分への嫌悪と同時に、やり場のない怒りの所在を求めてしまっていた。
 考えてみれば、チケット返金について岸さんから訊いたことは、涼子ちゃんも聞いていたはずだ。それにいくら駅員との会話に参加していなかったとは言え、横にいれば私たちの空気感がどうなっているのかわかりそうなものではないのか。
 だというのに涼子ちゃんは、横でアレ訊いて、コレ訊いてと、まるで簡単なことのように私に注文をつけてきた。

 頭の片隅では理解している。こんなのは英語ができずに恥をかいた自分を守る責任転嫁だと。それがわかっているからこそ余計に自分が腹立たしくなってくるし、その分だけ涼子ちゃんの行動が憎らしいと思ってしまう。
 これ以上考えても悪循環だ。
私は大きく溜息を吐いて、すべてを心の奥底に押しやった。

 そして翌日。今日は6日間世話になった、この刑務所のような部屋とのお別れの日だ。
フロントスタッフに鍵を渡すと笑顔で見送られた。
「また戻ってきてね!」
 初日は無愛想でどんくさくて、ぶっきらぼうな人だと思っていたけど、最後の笑顔を見せられてそれまでの印象が塗り替えられる。
 人は第一印象で決まるなんて言うけど、すべてがそういうわけでもないようだ。

 地下鉄に乗るとき、私はまた間違えてしまって反対方向の電車に乗ってしまった。そしてまた不要な切符を新たに買うハメに……。
 涼子ちゃんは「やっぱりー!」と笑っていた。
 気付いてたら教えてよ。
 喉元まで出掛かった言葉を押し戻す。元よりガイドブックを持っているのは私だし、周囲の全てが英語表記である以上、英語が多少できる私に行動を一任されるのは仕方のないこと。
 それにここではおんぶにだっこな涼子ちゃんも、私にできないことが沢山できる。車の運転もそう。臆さない行動力もある。彼女は私よりもすごい人。

 私なんか、ただでさえ北も南もわからない方向音痴だし、日本でも余裕で迷子になる。それに交通関係を把握するのも苦手だから、頼りにされたくないのが本音だ。
 これが自分1人だったら間違えても仕方ないと思える。だけど涼子ちゃんが渋々切符を買い直しているのを見ると、無責任に案内できない。

 最新の注意を払い続けた結果、それからの電車の移動は間違えずに済んだ。
 ナイアガラに着いた私たちは、カジノ方面に行くバスに乗ってB&Bに向かう。カジノから近いと聞いていたけど、実際には道を3~4人訊かなくてはならないほど入り組んでいたし、予想以上に歩かされた。

 それらしき家に着くと、年配の女性が庭いじりしていた。
声をかけると、その人が店主のステファニーさんだった。私たちの到着が遅くなったせいで、彼女にはいらない心配をさせてしまっていた。

 B&Bには問題なく泊まれそうで、荷物を置いた私たちは夜間でライトアップされた滝も見に行く。
 アメリカ側から見た滝は、緑、ピンク、青色と次々点滅していて舞い落ちる飛沫が鮮やかに彩られている。しかしどうにも見える位置が遠いせいか、噂の大瀑布と言われるほどの壮大さは感じられない。
 でもカナダ側から見れば、その規模感は噂に違わない強烈さがあった。
 轟音を立てながら水が流れ落ちる景色は圧倒という他ない。それに金曜日だけ打ち上げられる花火に照らされる水のカーテンが、いっそうこの滝の壮絶さと優美さを引き立たせていた。

 翌日は『霧の乙女号』という観光船に乗って、間近で滝を見ることに。
かなり濡れるからか、水色のてるてる坊主のようなポンチョを渡された。時期的なこともあって、着てるとサウナスーツのように蒸し暑く、景色よりもそっちのほうが気になってしまう。

 人のことを言えないのはわかっているけど、乗客みんながそのマヌケな格好で写真を撮り合っている姿はなんとも滑稽に思えて笑いが出てしまった。
 船が滝の間際に近づくと、 “霧”のような滝しぶきを全身に浴びる。カメラもサンダルも何もかもがびしょ濡れだ。

 しかしそれでも涼子ちゃんは物足りなかったらしい。
「なーんだ。もっと滝の中まで入って行くのかと思った」
 乗る前ははしゃいでいたのに、今は心底つまらない様子だ。
 実を言えば私も少し物足りなさを覚えていた。
 てっきりド迫力な滝を目の前で見られるものとばかり思っていたから、そのギャップは大きい。
 楽しみにしていた15分間のフェリーは、不完全燃焼のままあっという間に終わってしまった。


 お互いに、期待を大きくさせ過ぎたと涼子ちゃんと話した。
 ニューヨークにしてもそうだ。
 あそこは世界の最先端の街で、すごいところだと無意識の内に期待していた。でも実際にあったお店は東京にあるものと大差ないし、私が心の底から感動したのはモネの『睡蓮』だけ。
 それに怖いと思っていた人々は意外にもみんなフレンドリーで、危険なことは一度もなかった。良いことのはずなのに、カルチャーショックがないことも期待ハズレだったのかも。

「観光って結局見るところ見ちゃえば、後は暇だねぇ」
 涼子ちゃんの言葉にハッと気づかされる。私も“観光”に少し飽きてきていて、そろそろ何かしたいと思い始めていたのだ。
 やっぱり人間、遊んでばかりだと逆に働きたくなるものなのだろうか?
 なんにせよ『よく遊びよく学べ』ということには変わりない。

 荷物を取りにB&Bの部屋に帰るも、ステファニーがいない。こういう場合は前もって知らされていた秘密の鍵で入ることになっている。
庭の1つにある植木鉢を持ち上げ、底にあった鍵を使う。
 中に入って安心したせいか、急に喉が渇いてきた。
「今朝、朝食で残したジュースを取って置いてもらえばよかったね」
 冷蔵庫を開けようか迷っていたら、ステファニーが帰ってきた。

 彼女の両手には、大量の買い物袋が提げられていた。なんでも今日はお客さんがいっぱい来るから忙しくなるらしい。
 私たちが冷蔵庫を開けるより先に、ステファニーが買ったばかりのスプライトを出してくれた。人の家の冷蔵庫を漁る無礼を働かなくてよかった。

 荷物を纏めた私たちがB&Bを後にすると、ステファニーがわざわざ見送ってくれる。
大量の荷物を運んで疲れているだろうに。それでも彼女は笑顔で私たちを送り出してくれた。
「わたしの親もあんな感じだよ。旅館やってるとお客さんに対しての気配りや配慮がすごいもん。でもステファニー、ふとした表情にすっごい疲れが出てた」
「1人で切り盛りしてるみたいだしね。疲れるのは当然だよ」
 思えばPEIのジムも、お客さんに見せる顔と裏の顔とで二面性があった。
 1人での商売は多かれ少なかれ、営業とプライベートの落差が激しくなっていくのかもしれない。



鏡にお説教


 そして毎度恒例、長時間のバス旅を経て私たちはトロントにあるアヌーのマンションへと着く。ドアを開けると、アヌーが珍しく愛想よく迎えてくれた。
 何かあったのかと考えるも、アヌーの開口一番でその意味を察せてしまった。
「ニューヨークでボーイフレンドは見つかった?」
 相変わらずこの人は……。お金と色恋にしか興味がないのだろうか。

 なんて思っていたら、アヌーは続けて私の変わったヘアスタイルや、ニューヨーク仕様のTシャツを褒めてくれる。
 疲れている涼子ちゃんを寝かせてあげるよう頼むと、アヌーは快諾してくれて涼子ちゃんの手を引いていた。
 ここまで金銭的な会話もなくただただ優しくされると、別人のようにも思えてしまう。

 次の日、朝食を食べにアヌーのマンションに行くと、涼子ちゃんが頼みごとをしてくる。
なんでも明日の飛行機の予約の確認を、アヌーにして欲しいらしい。
電話で確認をしないと、自然に予約が消去されてしまう、とチケットを申し込んだ旅行会社の手紙に記載があったそうだ。
 私が電話で英語を話すことが苦手だと以前から言っていたので、アヌーに頼むのは彼女なりの気遣いなのだろう。

 そういうことなら急いだほうがいい。私はすぐさまアヌーに伝え、彼女もその場で電話してくれる。しかし繋がらなかったらしく、この時間は忙しいから後でかけておく、とフライトナンバーだけメモして、後回しにされてしまった。

 そのことを伝えると、涼子ちゃんは眠そうな瞳をこすりながら頷いていた。
昨晩アヌーに手を引かれた彼女は、ベッドで寝かせてもらえるのかと思いきや、結局いつものようにダイニングで寝ることになったらしい。事情は例によってアヌーが電話を取れなくなるから。

 窓際で横になることになった涼子ちゃんは、夜間に冷たい隙間風に当たられ続け、朝には強烈な日差しというダブルパンチで全然眠れなかったらしい。
「アヌー、奈々ちゃんがいるときといないときとで態度が違う。それがムカつく!」
 眠れなかった怒りは相当のようで、涼子ちゃんの愚痴はいつもより声量が大きい。

「予約の確認も、あの人言うだけで絶対にしないよ!」
「本当に忙しい時間なのかもよ。アヌーは無駄なことはしたくない人だから」
「奈々ちゃんには上手く言うんだよ」
 それからも涼子ちゃんはしばらくプリプリしていた。

 涼子ちゃんはアヌーのことをまだ理解しきれていない。
 それに彼女と直接のコミュニケーションがとれないから、そういう誤解が生まれてしまうのは仕方のないことだ。
 以前もカマルが私に話しかけて、何回か繰り返して同じことを言っていたことに対し、涼子ちゃんは「カマル、ボケてきてるのかもね」と言っていた。

 しかし私の解釈は違う。カマルはきっと私が英語を理解しきれていないと思って、あえて繰り返し言ってくれていたのだと考えている。アヌーやピーターと話すときは、わざわざ繰り返し言ったりしないから。
 でもそれはきっと、彼女たちと長く一緒に暮らしてきたからわかるものだ。

 今日の予定はユニオン駅で、ナイアガラからトロント間のチケットの返金をするだけ。
でも涼子ちゃんは「本当に返金してくれるのかなぁ」とすごく心配そうにしている。

 ただそんな心配を横からブツブツ言われても今更どうしようもない。それに返金の話は岸さんから訊いたことで、大丈夫だと彼女からのお墨付きももらっている。
 そんなに疑うなら、自分で調べればいいのに!
 頭の中に浮かんだ言葉がこぼれ出ないよう、私は固く口を閉ざす。お互いに長旅で疲れているのだ。変に言い争いして、関係がこじれるほうが御免だ。

 返金作業は問題なく行えた。
 これで涼子ちゃんの心配も解消されたことだろう。彼女を見ると、今度は別の心配ごとでブツブツと呟いていた。その内容は、今朝に処理されなかった飛行機の予約確認問題。
 しかしよくよく見てみれば旅行会社からの手紙の中に、予約確認用の英文も記載されているではないか。
「たまには自分でかけてみたら? どうしても大変だったら手伝うから」

 涼子ちゃんが公衆電話からかけるも、テープのアナウンスが流れるだけで、いつまで経っても肉声にはならない。時間を空けて、たびたびかけ直したけど同じだった。
 アヌーの言うように、今は本当に忙しい時間帯なのかも。

 徒労感に一気に疲れが押し寄せて来る。私たちはしばらく駅の隅で座り込んだ。
 これまでいくら話しても時間が足りないくらいにおしゃべりをしていたのに、互いに黙り込んだまま。重たい沈黙が続く。

 先に口を開いたのは私のほうだった。
「涼子ちゃん、日本が恋しくなってるんでしょ?」
「日本、便利過ぎるもん。それに言葉がねぇ……」
 もう何度その言い訳を聞いてきたことか。

 これまでは遊びに来てくれた友人として聞かないフリを続けて来たけど、いい加減私も思っていたことを言わせてもらおう。
「旅行の期間だけでも、自分で英語を話そうとしたほうがいいよ。自分で話したり、聞こうとしたほうが、たとえ間違えたとしても納得いくじゃん」
 涼子ちゃんはそんなことを言われるなんて思っていなかったみたいで、一瞬両目を丸くしていた。

 しかしポツポツと、涼子ちゃんはまた言い訳を始めた。
「わたしにはその間違えることさえわかんないよ。言いたいことはいっぱいあっても、単語一つひとつ言うので精一杯。“サイトシーイング”とか“デンジャラス”とか、それだけで終わっちゃう。文として正しいのが“イズ”なのか“キャン”なのか、そういうのもわからないし……。間違えながら覚えていくって言っても、その間違え方もわかんないから」
「こっち来る前に、少し英会話スクール通ったんじゃなかった?」
「通っただけだよ。何一つ身に付いてなくて全然ダメ。こっちに来れば少しは覚えるかな? なんて期待もあったけど、変わらない。それにさ、覚えても結局日本で使わないじゃん」
「たとえそうだとしても、少しでも話せたほうが楽しくなるし、また今度海外に来たときに役に立つよ」

 本当にそう思ってる?
 発した自分の言葉に、ふと疑問符が浮かび上がる。
言っていることは正論だ。誰だって英語ができないより、できたほうがいいに決まっている。
 でもそれはただの理想論だ。言語習得なんて、一朝一夕でできないことは私が何よりも痛感していることではないか。
 それにもし私が涼子ちゃんと同じ立場だったら、英語を率先して使ってみようと思えるだろうか。
 自分の性格はよく知っている。答えは“しない”だ。
 カナダに住んでいる友達のところへ2週間だけ遊びに行くシチュエーション。そこで友達が少しでも話せるならそっちに頼ってしまうに違いない。

 何もこれはただの憶測ではない。
 実際に1年前のキューバ旅行の際、念のためとスペイン語を習ったのに、結局現地では日本人留学生の女の子に通訳を頼り切っていたから。
 その留学生の女の子からは、「今度ヒラルド(ホームステイ先のおじさん)と会うときは、もっと直接話せるようになっているといいね」と言われた。
 そのときはスペイン語を勉強しようと思えたけど、そんな意欲があったのはキューバを離れるまでの間だけ。
 涼子ちゃん同様、日本で使わないことを理由に勉強を放棄してしまっている。

 私と涼子ちゃんは似た者同士。
程度の差こそあれど、冒険心や好奇心がある上に行動力もある。刺激が好きで飽きるのが嫌い。東京ではお互いに職を転々として、何が自分に合うのか    いろいろやってみるも、何にもハマることができない……。
 そのクセに能力以上のことをやりたがる。若気の万能感ともいうべきか。自分は何か大事を為せる存在だという、己への過ぎた期待がある。

「もっと英語話そうとしないと、日本にいるのと同じだよ……」
 どの口がそれを言うの?
 自分で言っていて笑えてきそうだ。
 英語にしたってそう。これまでまったく勉強してこなかったではないか。必要最低限の単語を覚えて満足しているではないか。

 涼子ちゃんは、私の鏡だ。鏡相手に、私は自己満足にお説教をしている。涼子ちゃんの気持ちもわかるし、逆の立場なら自分も同じだというのに……。
 しかしそんな私の重さのない言葉にも、涼子ちゃんは耳を傾けてくれていた。

「奈々ちゃんはスゴイよ。もう3ヶ月も海外暮らしなんて、わたしにはできない。今回ホームステイを初めてしたけど、他人の家に自分が入るって難しいんだね。まぁアヌーと合う人は珍しいとは思うけど。それを抜きにしてもだよ……。それにわたしは奈々ちゃんみたいに本を出したいとか、絵を描きたいとかいう明確な目標なんてないの。東京からもそのうち実家に戻るつもりだったし、わたしには何もないんだ」
 1つ1つを吐き出すように、涼子ちゃんは自らの想いの丈を語ってくれた。

 涼子ちゃんは私を褒めてくれるけど、それは全部勘違いだよ……。
それにあなただって目標があったでしょ? ニューヨークのアポロシアターで歌ってみたいって。
 私にはそんな度胸なんてないもの。それに叶うなら涼子ちゃんにはもっと華やかな世界で活躍してほしい。
 でも涼子ちゃん自身がそれを諦めてしまっている。
そんな彼女になんて声をかけていいかわからないし、元よりすべてを中途半端にして逃げてきた私が何か言う資格なんてない。

 でも涼子ちゃんには魅力がある。それは紛れもない事実だ。
「英語話せたら海外でモテモテだよ!」
 なんてよくわからない激励に、涼子ちゃんがゆっくりと顔を上げてくれる。
「誰に?」
「えーっと……。ピーターとか?」
「なぁにそれ……!」
 吹き出す涼子ちゃんに、私もつられて笑みを浮かべる。小さな微笑みは、やがて2人の大笑いにまでなっていく。
 現実は何1つ変わってないけど、笑って元気になれば漠然となんとかなるような気がしてくる。

 その夜、夕飯を食べにアヌーのマンション戻る。
彼女は明日発つ涼子ちゃんに、「日本に帰れて嬉しい? 悲しい?」としきりに訊いていた。
「デンジャラス」
 端的に一言答える涼子ちゃんに、アヌーが珍しく爆笑する。
「リョウコがいなくなると寂しくなるね」
 アヌーの感傷を、涼子ちゃんはすぐさま否定していた。そんなはずないと。

「きっとお金払う人がいなくなるからでしょー?」
 直球すぎる涼子ちゃんの言葉を、そのまま翻訳するのははばかられる。他にないか目で合図を送ると、涼子ちゃんは別の言葉で言い換える。
「わたしたちはニューヨークに長くいて、ここにはあまりいなかったから」

 アヌーに伝えると、それでも彼女は寂しいと言っていた。
「この部屋は一人で使うには広すぎるから……」
 こぼした言葉は彼女の本音だろう。アヌーは続けてこう訊いた。
「やっぱり、日本のボーイフレンドが恋しい?」
 涼子ちゃんは、彼氏よりお母さんに会えないのが寂しいと伝えたかった。
「マイマザー」
 ひねり出したワードに、アヌーがまたもや笑う。
「子どもなのね。ピーターみたい」

 あの無表情のアヌーを、この短時間で何回も笑わせることができる涼子ちゃんは、やっぱりすごい!
 涼子ちゃんは自分とは違う。私にできないことが沢山ある、魅力的な女性だ。



身の丈を決めない派


 涼子ちゃんが発つ朝、アヌーのマンションに早めに行くと、ダイニングで寝ているアヌーに出くわした。
 あれだけ電話が取れないと寝室を譲らなかったアヌーが、最終日には涼子ちゃんに気を利かせてくれていた。
 こういうところがあるから、やっぱりアヌーは憎めない。それに昨夜の“涼子ちゃん式コミュニケーション”で、アヌーと涼子ちゃんが打ち解けられたようで何よりだ。
 最後の別れで変にギクシャクした気持ちを2人には残して欲しくない。

 寝室に入ると、涼子ちゃんは既に起きていた。
「おはよう。わざわざ起こしに来てくれたの?」
「まぁそんなところ。寝坊で帰れなくなるなんて、笑えないしね」
 ファームに行く前にした惨めな経験なんて、私1人味わえば十分だ。

「それで空港までの移動は大丈夫そう? ピーターが送ってくれるって言っていた気もするけど」
「あーそれね。昨日の夜、ピーターが無料で空港まで送るって言ってくれたんだけど、酔っぱらってたし、もしも彼が朝起きれなかったら大変だから断ったんだ」
 もう“無料”だからといって振り回されるのはごめんだからと、彼女はタクシーを呼ぶことにしたそうだ。

 スーツケースを運ぶのを手伝って下まで降りていると、アヌーが慌てて降りて来た。
 涼子ちゃんが私に、とある英語を訊いてくる。私はそれをコッソリ涼子ちゃんに耳打ちした。
 息を切らしたアヌーに、涼子ちゃんがそっと微笑みかける。
「サンキュー……エブリシング」
 教えた“Thank you for everything”からは、随分とカタコトでぎこちない涼子ちゃんの英語。それでもアヌーには十分に伝わっていた。

「Come again(また来なさい)」
 涼子ちゃんを抱きしめながら、アヌーなりの言葉で彼女を送り出す。涼子ちゃんに翻訳しようとしたけど、短い単語なら彼女も意味がわかったようだ。
 涼子ちゃんもアヌーにハグをし返して、アヌーに眩い笑顔を向けて手を振っていく。

 空港までのタクシーには私も同伴した。
 3ヶ月前に私が日本を発ってカナダに旅立った日は、涼子ちゃんが成田まで見送ってくれた。今は逆で、私が涼子ちゃんをトロント空港まで見送っている。

 なんとなくだけど、涼子ちゃんの横顔からは日本に帰れて嬉しいよう感じられた。帰る場所があるというのはホッとするものだ。私がキューバから帰るときもそうだった。

「奈々ちゃんって22だよね? わたしなんて9月になったら25だよ。もう“若いから”なんて世間が許してくれない歳になっちゃう……。といっても、わたしが心配しなくても奈々ちゃんのほうがよっぽど大人か! 奈々ちゃんは外国で、私は日本で。お互いに何か見つかるといいね」
 このときの涼子ちゃんの横顔は、眩いはずの笑顔なのに少しだけ寂しそうだった。

 あっという間に空港に着いた。まだまだ話し足りなくてもお別れをしなくてはならない。
「また電話する! 手紙も書くね!」
 見えなくなるまで互いに別れを惜しんで、涼子ちゃんは遥か空へと飛んで行った。

 涼子ちゃんには、長く付き合っている同郷の彼氏がいる。
 しかし彼とは結婚の話は出ていない。でももしも結婚するとなったら、涼子ちゃんは田舎に戻らなくてはならないだろう。
『だからそれまでに東京で何かしたい』
 涼子ちゃんはいつも言っていた。
 未熟で愚鈍な私が、涼子ちゃんのために直接できることなんてない。でも彼女のために祈ることはできる。
 神なんて信じていないけど、人の願いがいい運命をもたらすとは信じているから。
 涼子ちゃんが、まだ見ぬ未来で一番良い方向へと進んで行けますように……。

 部屋に戻ると、日本からの手紙が届いていた。差出人は長谷川さん、東京で働いていたときの職場の先輩からだ。
『これといった志もなく生きた人は皆、晩年は自分の人生に悔いはないとか、いろいろなことがあったけど今は幸せだとか言いたがるものです。
 だけど、偉業を成し遂げた人こそ、まだやり足りないことを無念に思いながら人生を送るものなんです。大きな夢を持てば持つほど本当の幸せ(青い鳥)はどんどん遠くへ逃げて行くもの。
 奈々ちゃんは今、“青い鳥”を見つけることより、それがどんな鳥なのかを知ることが大切ですよ』
 まるでどこかで私のことを見ていたかのように、先輩の手紙は的確な内容だ。

 私も涼子ちゃんも、きっと自分の身の丈を知りたくなかったのだ。だからちょっとやそっとのことじゃ満足できないと強がって、それでいて何がしたいのかも、何をすればいいのかもわからず、自分を持て余している未熟者。

 それに対して手紙の差出人である長谷川さんは、50代のしっかりした男性で、彼にはフィリピン人の奥さんがいる。
 そして長谷川さんにワーホリでカナダに行くことを話した際、行くときになったら是非教えて欲しいと言われていた。
 なんでも彼の知り合いがサスカトゥーンに住んでおり、シアトルには奥さんの親戚がいるとのことらしい。

 もう一枚、ハガキが届いていた。
 こちらの差出人は真澄さん。涼子ちゃんと同じくらい仲の良いい、既婚者の友達だ。
 真澄さんにはこっちに来てから何度か電話をかけたけど、いつも繋がらず手紙でしかやり取りできていない。
 彼女とも私が海外にいる間に、会おうと約束していたのを思い出した。


 ふと私は、真澄さんに電話をかけてみた。
 日本では今、朝の7時。迷惑かな……。
 コールがなる間に不安がよぎる。いつものように不在だろうか。しかし数度のコールの後、電話に出る音がした。

 久々に真澄さんと話すことができて、通話料金も気にせず雑談で盛り上がる。
 話題は何度も電話をかけたことに移る。
「いつかけても真澄さんの電話は留守電にもならないから、てっきり離婚したかと思ったよ」
「留守電にならない=“離婚”になるの? あー、でも離婚はしたいよー」
 ほんの冗談のつもりで振った話題が、思いの外重い話題になって私のほうが動揺してしまう。

 32歳の真澄さんと私とは10歳年の差があるものの、なぜか互いに意気投合した。
 彼女との出会いは、私が母の勧めでむりやり保険屋をやらされ、イヤイヤ行っていた研修のときのこと。
 そこで真澄さんと席が隣同士になって知り合った。私は部長と喧嘩して数ヵ月で辞めたけど、彼女はその後も続けている。

「元カレと旦那を保険に入れたから、来月には30万円くらいお金入るんだ。9月からは飛行機代が下がるから、その頃そっちに行けたらいいなぁ。ま、“山銀”も一緒に行けるところのほうがお金出してくれるからいいけどねー」
 山銀とは、真澄さんの旦那さんのことで苗字は山岸さん。銀とは銀行を意味している。つまりは旦那=銀行、今風に言えばATMというべきか。
 真澄さんは、その旦那さんとはお金を出してもらえるから結婚したようなものらしく、本当は元カレのほうがまだ好きだと言う。

 それから旅の軌跡を訊かれて、ニューヨークでヘアカットしたことを話した。
「え!? 床屋行ったの? あー、私もニューヨーク行きたいなー」
「真澄さん、ニューヨークでしたいこととかあるの? ショッピング? 美術館巡り?」
「ただ町歩いて、公園散歩したいなぁ」
「それじゃあ、新宿歩いて、石神井公園散歩すればいいじゃん」
「あはは、ほんとだ! やっぱりどこの主要都市も東京と大して変わらないのかもね」
 奇遇にも、私がニューヨーク五番街に行ったときと同じ感想だ。
 だからってそれでいいんかい、真澄さん。

「日本で最近ホットなニュースはないの?」
「今はー不景気まっただ中なのと、XJAPANのHIDEが死んだから私も死にたくなったっていうくらい」
「えっそんなにファンだったの? 辛いこと聞いちゃった?」
「ぜ~んぜん? ただの流行り」
「……」
 早朝から離婚やら自殺やら、よくもまぁぽんぽんとブラックジョークが出てくるよ。その豪胆さにはある意味感心する。
 涼子ちゃんとはまた違うタイプのぶっ飛んだ人だと思い知らされる。


 真澄さんの保険屋は仮の姿で、今はWindowsの学校にも通っているという。それに同人漫画を描いていてまた本を出すらしい。
「よくネタが尽きないね」
「ネタはあるけど、カネがない。売れないからね。ま、売れるために描いてるわけじゃなくて、買ってくれる人のために作ってるからいいんだけど」
 真澄さんは趣味に全力で生きている。そんな生き方に憧れる自分としては、彼女がとてもカッコよく見える。彼女も身の丈を決めたくない派の一人だ。
 私たちはどこかで会うことを約束して電話を切った。



子はかすがい


 涼子ちゃんを見送り、電話を終えてマンションに戻る頃には夕暮れ時になっていた。
 アヌーたちと夕飯を囲むも、なんだか物足りなさを覚えてしまう。それは料理の量に対してではなく、囲む食卓に対して。
 これまではここにもう1人涼子ちゃんが座っていたのに、その席は空いている。

「リョウコがいなくなって、1人だとストレスたまるでしょ?」
 アヌーの言う通りだ。
 涼子ちゃんが来る前はずっと一人だったから、元に戻るだけだと安易に考えていた。でもこうして涼子ちゃんのいない食卓は、スッポリ穴が空いてしまったかのようだ。

 そう思ってしまうのは、トロントでもうやることがなくなったことも関係している。今の私がしたいことは、オタワにあるのだ。
 アヌーには、予定より早くここを出ることを伝えた。アヌーは了承してくれたけど、家賃についてはピーターが管理しているから払い戻しできるかはわからないと言われた。
 それについては元々返ってくるなんて期待していないから別によかった。そもそも退去を早めるのはこちらの一方的な都合なのだ。

「ナナが出るなら、わたしもここに居続ける理由はないわね。来月にはこのマンションから引っ越して、姉の家で暮らすことにしようかしら」
 アヌーが急にそんなことを言い出した。
 いや口ぶりからして、単に私が知らなかっただけで前々から計画していたのだろうか。しかしアヌーの転居に夫の名前が挙がらなかったのは気掛かりだ。

「ピーターは?」
「彼はあっちのマンションで、カマルと暮らすことになるでしょうね」
「え!? まさか離婚?」
「そうなると思う」
 淡々と告げるアヌーの顔は、相変わらずの仏頂面だ。だけどもそこそこの付き合いをしてきた私にはわかった。
 彼女の発言が、何もその場の思い付きで言ったことではないことは。

「ピーターと離れてしまって寂しくないの?」
「ピーターのことは愛しているわ。でもカマルが嫉妬するから毎日喧嘩になってしまう。カマルがインドに帰ったら一人ぼっちになってしまうから、それはかわいそう。インドでは2、3ヶ月離れて暮らすと離婚になる。だから仕方ないけど……」
 アヌーはそれ以上何も言わなかった。

 ただいきなりそんなことを聞かされて、私は素直にショックだった。
ほんの束の間でもピーターとアヌーとは、家族みたいなひとときを過ごして、知らない土地で助けてもらえた縁がある。アヌーの告白を聞く私は、両親の離婚を知らされる“子ども”のような心境だ。

 もしも私がここに残り続ければ、アヌーは私の食事を作るという名目で、ピーターと離れずに済んだのだろうか。きっと私がいたことで、2人はギリギリの線で夫婦仲が保てていたのだ。
 今にして思えば、アヌーはしきりに私にここに留まらないかと打診していた。B&Bのようなビジネスの話を持ちかけたのもそうだ。
 彼女の本心としては、いびつでも私を通して夫婦仲を繋ぎ止めたかったのではないか。
 子どものいない彼女たちにとって、仮初めでも“子はかすがい”にしたかったのだ。

 アヌーはどんな話でも表情を変えずに淡々と話すし、態度も体もデカイのに、このときはなんだか小さく見えた。彼女もきっと心の内では大変さに苦しんでいたのだ。

 だからといって、今更私に残るという選択肢はない。それに単なる同情でアヌーもここに残ってほしくはないだろう。私が出ていくと言ってから、アヌーが実情を告白したのがその表れだ。

 しんみりしながら自分の部屋に戻ると、部屋に置かれた電話が鳴った。
電話口からは「もしもし」という聞き慣れた声がする。母からだった。
「今、『ハロー』って外国人が出たから切ろうかと思った」
「それ私だよ! 海外では『ハロー』は『もしもし』だからね」
 母親の天然っぷりには、呆れて言葉もでない。
 要件を訊くと、私の送った絵ハガキが届いたから電話してみたらしい。国際電話は高いから会社から内緒でかけているとか。
 母は他には特に用事もなく、こちらの様子を心配して訊くでもなく、一方的に自分の話だけをして切った。

 そういえば、私が小学生のとき、父が浮気をして離婚の危機があった。でもそのときは“子はかすがい”になったみたいで、色々あったけど今も2人は夫婦のままだ。

 その後すぐに、ピーターの友であるビッキーから電話があった。用があったのは、私ではなくピーターだけども。
 せっかくの機会だから、彼にも明日発つことを伝えた。
「そこにいたくなければ、私の妹の家に来ればいいよ。またトロントに来ることがあったら教えて」
 そう、ありがたい言葉をかけてくれた。

 思えばビッキーがアヌー家を紹介したから、ここでの生活が始まったのだ。
 もし違う友達を紹介されたり、彼が自分の家に来るように言っていたら、また別の展開があったはずだ。
 偶然とはいえ最後にビッキーにお礼が言えたのはよかった。

 それにしても母もビッキーからの電話も、ひいては日本の友人たちからの手紙も、まるで明日私が発つことがわかっていたかのような絶妙なタイミングには、運命を感じずにはいられない。

 次の日の朝、記念に部屋の写真を撮っていると、まとめ買いしてあるコーラが目に止まった。
 コーラといえば、アヌーと出会った最初の頃によく注意されたものだ。
「外でコーラを買うと1ドルだけど、まとめ買いすると60セントだから、ここから持って行きなさい」
 私よりお金の大切さを知っているアヌーだからこそ、私のお金も自分のお金のように気にしてくれたのだと、今ならわかる。
 自分の荷物を纏めて退去の準備をしていると、丁度良くピーターが戻って来た。

「もしオタワがイヤになったら、いつでも帰って来なさい」
 普段饒舌なはずの彼は、それだけ言うと鍵を受け取って別れた。
 これはきっと彼なりの気遣いだ。変に憂いを感じさせないよう、送り出してくれているのだろう。
 ピーターに抱いた印象も良し悪し様々だけど、沢山お世話になった感謝に嘘はない。
 彼は口がうまい上に八方美人だ。でもピリピリした空気をガラッと変えてくれる彼の陽気さには、何度も救われた。
 しばらく留守にしているカマルには手紙を残した。

 そして最後の挨拶をしに、再びアヌーのマンションの戸を開ける。
「ナナは、オタワに行けて嬉しい? 悲しい?」
「デンジャラス」
 いつかの涼子ちゃんのように、私も笑って答える。
 アヌーは予想外の答えに、首を傾げていた。
「あなたが涼子ちゃんに同じ質問をしたとき、彼女がそう答えたらあなたは笑っていたから。最後くらい笑顔で別れたいでしょ?」
 少しの間があって、アヌーはようやく笑顔を見せてくれた。ただその笑顔は、少しだけぎこちない。
 やっぱりアヌーを自然と笑わせられる涼子ちゃんには敵わないな。

 期待していなかった返金の件は、意外なことにキッチリと返してもらえた。
 先に払った家賃の200ドルの半分の100ドルをアヌーから受け取る。しかしそれはピーターから返してもらったわけではなく、自分のパート代から捻出してくれたらしい。

「ニューヨークではあなたとリョウコが一部屋をシェアして、2人で半分ずつ出し合っていたから問題なかったでしょう? もしどちらかが払い続けていたら友情は壊れる。それと同じで、あなたが払い続けていたらわたしたちは友達にはなれない」
 アヌーは言った後、小さく首を振って照れくさそうに頬をかいた。
「友達じゃないわね……。わたしには姉しかいなかったから、あなたのことは本当の妹のように思っていたわ」
 浮かべた柔和なアヌーの微笑みは、ぎこちなさなんてまるでない、優しい姉の顔をしていた。

 彼女のお金への徹底具合は、苦しさを感じるほどだった。
ただそこまで徹底するのは、彼女にとってお金の線引きが友愛において大切なものだから。

 タクシーに乗って別れたとき、私は泣き出したかったけど、“泣く”のは違う気がして涙は出さなかった。変に気持ちを押し留めるのは喉の奥が熱くなって、心がモヤモヤする。

 結局アヌーは最後まで、私の日本の住所を訊かなかった。日本に行ってみたいと、何度も言っていたのに。
 真意はわからないけど、アヌーは満足したのではないだろうか。
「うちにタダで泊まっていいよ!」
 屈託のない笑顔の涼子ちゃんに言われたその言葉で、きっとアヌーには充分だったのだ。

 一瞬でも涼子ちゃんと夜逃げの計画を立ててしまったことも、今となっては浅はかな考えだと笑いにできる。
 美也子が言っていたように、海外での別れは“永遠”のようだ。
 例えイヤな思い出があったとしても、“永遠の別れ”は、悲しいとか寂しいなんて単なる形容詞1つでは表しきるものではない。
 次なる一歩に踏み出したい気持ちもあるのに、後ろ髪を引かれるような思いも感じている。そんな複雑な気持ち。

 この先きっと“トロント”の名を聞くだけで、私はあのインド人たちを思い出すだろう。そして涼子ちゃんと過ごした日々も……。
 すべてがかけがえのない想い出になっていく。

 感傷に浸る間もなく、オタワへと向かうバスに乗り換えた。そこから次のドラマが始まる。
 1つでも何かが欠けていたら“今”はない。これまでの軌跡はすべて繋がっている。
 だから私は安心して想い出を胸にしまい、前に進めるのだ。



◆◇2024年現在視点 ~涼子ちゃん編~◇◆


 あれから随分と時計の針は周回した。
「奈々ちゃんも早く帰ってくればいいのにぃ~」
 トロントで別れてすぐに電話したときには、そんな可愛いことを言っていた涼子ちゃんも2024年の現在は50歳になっている。

 帰国してからもよく遊んでいて一番仲良かった涼子ちゃんとも、彼女が結婚して山形に行ってしまってからは、すっかり疎遠になっていた。
 子どもが産まれた話を聞くようになってからは、連絡すらやり取りしなくなった。
 疎遠になったのは、私が自分から涼子ちゃんを遠ざけてしまったからに他ならない。
 彼女は長く彼氏のいなかった私とは違う。“あたたかい幸せへの道”へと歩む、別世界の住人だと一線を引いていた。

 それでもこうして涼子ちゃんとの旅の話を書いているうちに、懐かしさが込み上げた私は15年振りくらいに彼女に連絡をしてみた。


 返事はすぐに返ってきた。是非とも原稿を読んでみたいと。
 彼女が出てくるトロントやニューヨークの話だけをメールで送ってあげる。


『当時の記憶が少しずつ蘇ってきたよ!
 奈々ちゃん、わたしの喋った内容とかも覚えてるなんてスゴイ記憶力だネ★ 流石!
 あのとき私がトロント行くまでも、ステイ先の人と色々あったんだなぁ〜。ほんと奈々ちゃんには感謝してるよ。英語がチンプンカンプンな自分は、助けて貰ってばかりだったからね。ありがとう!!

 ピーターが日本からカワイイ子が来ると思ってたこと、スッピンで登場した私。
「胸寄せて化粧しなきゃ」とか会話がおバカっぽくて笑えるよねぇ~!
 確かにアヌーたちはお金の話ばっかだったよね。

 ニューヨーク行ったことないのに、わたしってばなぜか自信ありげだったし。しかも列車で12時間もかけて行ったんだね!
 そして刑務所ホテルに床屋、懐かしい!! ちなみに、どこでも寝る癖は今でも変わってないよ(笑)

 英会話の勉強してったのに全然出来ないわたしと、アヌーたちの板挟みになってた奈々ちゃん、本当に頼ってばっかで大変だったよね……。申し訳ないデス。

 思ったこと、なんでもやり遂げる奈々ちゃんはわたしの憧れだよ!

 今では、こんなステキな旅エッセイも書いたし、またあのときめいていた頃にタイムスリップしたいよね☆彡
 読ませて貰ってアリガトね!』


 涼子ちゃんらしい明るい文面だ。年月が経っても、そこのところは変わっていないみたい。それにどこでも寝るクセが治っていないのはイメージ通りのままだ。
 もちろん、会話は全文記憶していた訳じゃなくて、ほとんど日記にあったものから引用したものだ。
 スゴイのは言うなれば、“記憶力”ではなく“記録力”。
 書き残していなかったら、話したことなんてサッパリ思い出せない。

 感想の感謝と、これまで連絡をおざなりにしていたことを詫びる内容を添えて返信する。

『全然だよ~! こっちもなかなか連絡できなくてごめんよ~。うちは上の子がいろいろあって、まだ手がかかってるからバタバタでね。トロント&ニューヨークは最初で最後の豪華旅行だったよ』

 詳しく訊いてみたら、長男は発達遅滞と言われて、なかなか言葉が出なかったり、公園の遊具すら怖くて遊べなかったり、運動面でもむずかしいみたい。
 小さい頃から療育センターや言葉の教室に通っていて、年長さんになった頃、やっと少しずつ言葉が出てきたそう。いまだにみんなと同じスタート地点には立てなくて、時間はかかるけど、小学校には無事に通えているらしい。

『でもね、すっごくイイ子なんだよぉ~』
『そりゃあ涼子ちゃんの子だもん。イイ子に決まってるよ!』

 英語がまったく理解できない涼子ちゃんでも、アヌーもピーターも彼女とはちゃんと非言語コミュニケーションがとれていた。
 そんなコミュニケーション力高くて、天然でおもしろい涼子ちゃんが母親なら、子どももきっと楽しいはず。

 今回はメールでのやり取りだけだったけど、文の勢いだけでも涼子ちゃんの元気な声が聞こえてきそうだ。
 あのときの軌跡は今もまだそれぞれの形で続いている。そしてそれはこれからも変わらない。




『言語の壁を乗り越える旅 カナダ・シアトル・ロサンゼルス編』へとつづく……。
(2025年1月公開予定)

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蔵良 蘭
ご縁に感謝いたします。 大切に使わせていただきます。