ゴールデン・ダスト
1.街角のカフェで
時計の針は午後2時を少し過ぎていた。
薄暗い店内には、今淹れたばかりであろう珈琲の香りが漂っている。
他の客の会話が適度に打ち消される程度に流れているエリックサティを聞き流しながら、私は注文したアールグレイが運ばれてくるのを待っていた。
この店に来るのも久しぶりだ。
周囲が気にならない雰囲気と、店内の景色に溶け込んだマスター。
変わり続ける街の風景はよそに、ここだけは時が止まったようにさえ感じる。
この店は、昔からそうだった。
どこか、周囲から切り離されたような、そんな特別な空間。
昔は、何かにつけてこの空間を利用していた。
仲間と静かに話したいとき。
一人で考え事をしたいとき。
そして、特別な誰かと時間と空間を共有したいときに。
過去の記憶に一人頭を巡らせていると、私の前に、すっとティーセットが置かれた。
白地に青で模様が加えられた、シンプルなデザインのカップ、そして透明なポットに入れられたアールグレイ。
この店では、まるですべてのカップが違うものであるかのように様々なカップが用意されていて、その中からマスターが注文者の雰囲気に合わせて選んでいる。
同じ服装で来ても違うカップが出されることもあるので、服の色やデザインだけで選んでいるわけではないようだ。
どうやら、今日の私はこんな感じらしい。
カップにアールグレイを注ぎ、その色や香りを楽しんでいると、遠くで店の扉が開く気配がした。
その気配は、カウンター席の最も奥にいる私の傍らまで近付いて来て、そして止まった。
見上げると、秋らしいダークブラウンのワンピースに白いふわふわのコートを着た彼女が立っていた。
「来たよ」
彼女はそう言いながらコートを脱ぎ、隣の席に座った。
「来たね」
そう答えると、なによ、それ、と言いながら彼女がカフェオレを注文する。
カウンターの奥でカップを拭いていたマスターは、まるで空気のように微笑みながら頷いた。
「また、寝れなくなるよ」
「だって、美味しいんだもん」
座り直しながら、彼女は答えた。
彼女は昔からカフェオレが好きだった。
ただ、飲む度に夜眠れなくなるので、時には翌日の予定に支障することもあった。
それでも、やっぱり飲みたいらしい。
その辺りも変わってないようだ。
「久しぶりね」
「そうだね」
私の目を見ながら彼女は言った。
「相変わらず、寂しい写真を撮ってるのかしら」
私は黙って用意してきた写真集を渡した。
最後に彼女と会ってから撮りためていた手作りの写真集。
ふうん、と言いながら彼女はページをめくった。
「変わらないわね。
切れそうで、凍えそうな写真」
香ばしく、優しい香りを伴ってカフェオレが運ばれてくると、彼女は、ありがと、と言ってマスターを見上げ、軽く微笑んだ。
少し茶色がかった長い髪が、店内の灯りを受けて淡く 輝いている。
マスターは、再び空気のように微笑むと、また、背景の中へと溶け込んで行った。
カフェオレを飲みながら、一通りページをめくり終わった彼女は、私に写真集を手渡しながら微笑んだ。
「でもね、私は好きだよ」
そう。
この言葉に、何度救われてきたことか。
彼女にとっては、多分何気なく放たれた言葉のひとつなのだろうけども。
彼女はいつも奔放に振る舞っていた。
他の何かに囚われる事なく、確固とした時分を持っていて、自分の中の道を歩んでいた。
そして、自由な発言の中でも、最後には相手を肯定する。
その独特な世界観は、とても居心地が良かった。
「ブログはどうしてる?」
彼女は、昔私がやっていた、写真を中心にしたブログのことを尋ねた。
「ああ、そういえば、もうずっと更新してないな」
「そうなんだ」
彼女は、少し残念そうに目を伏せると、カフェオレを一口飲んだ。
ブログは、彼女に勧められて始めたものだった。
当時、大量に撮った写真を彼女に見せるだけだった私に、もっと広く色んな人に見てもらおうと、彼女は扱いやすいサイトを探してくれた。
何処の誰だかわからない人と、好きな写真の話をすることは、それはそれで楽しかった。
「今は何もしてないの?写真」
「ああ…ツイッターでは流してるけどね」
「ふうん、じゃあ、人の目には触れてるのね」
よかったねと言うように、彼女は微笑んだ。
そうでもない。
確かに、ブログの更新をやめた頃から、写真に簡単な言葉を添えてツイートしている。
しかし、見てもらうべき確かな相手のいないツイートは、まるで宛名のない手紙のように宙を漂うだけのように感じた。
しかし、そんな一種の虚しさが、彼女の言う"切れそうで凍えそうなほど寂しい"という私の写真の魅力を増しているのかも知れなかった。
目の前では、サイフォンがコポコポと音をたてて吹き上がり、湯気とともに珈琲の香りを漂わせている。
隣に座る彼女の顔は、店内のセピア色の灯りの中に浮かび上がって見える。
優しく、そして、どこか儚い時間が流れてゆく。
カフェオレを飲み終えると、彼女はこちらを見た。
「ねえ、あそこに行ってみない?」
「あそこって、あそこ?」
「そう、あそこ」
暗い光の中で、彼女の目が何かを伝えている。
「そうだね」
私も、残りのアールグレイを飲むと、コートに手をかけた。
「じゃ、行こうか」
2.秋に染まる都市公園
「うわぁ…」
広い園内は、まるで日本中の秋を集めてきたかのように、見事に染まっていた。
「すごいね」
「ほんと、ね」
頃よく傾いた陽射しが、園内に黄色い光を投げかけ、赤や黄色に色付いた樹々や、空気までも黄金色に染め上げている。
「前に来たときには、ロウバイが咲いてたよね」
彼女が、最後に二人で来た時のことを話始めた。
あれから、もう、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
「そうだね。
確か、雪が積もってて、
雪だるまがたくさんあった」
「え?
そうだったかしら」
あの時は、朝まで降っていた雪が上がり、澄みきった空からは冬の柔らかな陽射しが広い園内に降り注いでいた。
空気中に残った水蒸気の粒に光が反射してキラキラと輝いていたのを覚えている。
「ねえ、見に行かない?ロウバイ」
「咲いてないから、たぶん分からないよ」
ロウバイが咲くのは春先、植物音痴の二人が咲いてない花の木を探すのは、多分無理だろう。
でも、確かに探したい気持ちはあった。
「また来ようか」
「そうね」
あの日、ここでまた会おうねと言って、それきりになっていた。
いや、それが今日なのかも知れないけれど。
話しながら歩いていると、大きな木蓮の前に来ていた。
「咲いてなくても、これは分かるわね」
「そうだね」
二人でここに来るようになって覚えた植物が幾つかある。
この木蓮もそうだ。
「大きすぎて、コブシにしか見えない」
「でも、やっぱり花は木蓮だったわね」
木蓮とコブシはよく似ている。
よく見ると、木蓮は花が肉厚で、コブシの方は華奢な印象だ。
しかし、この木蓮は木自体が大きすぎて花が小さく華奢に見えてしまうため、コブシのように感じてしまう。
その木蓮も、他の場所なら咲いていないと私たちには分からないだろう。
池の畔に出ると、池を囲むように植えられた紅葉や楓が織り成す赤や黄色の重なりが、斜陽を受けて輝いていた。
それが更に水面に映り、まさに「一面の秋」という風景を造り出している。
「良いときにきたね」
「そうね」
言いながら、二人で池に渡された橋に差し掛かる。
水面には、流れて来た赤や黄色の葉が水面に映る空の青さと見事なコントラストを描いている。
岸辺に近いところには、次々と流れてくる葉が織り重なるようにして新たな岸辺を作り出していた。
「昔、桜が咲いてるときにも来たよね」
「そうだね。あの時は桜が流れてたね」
四季折々の花が咲くことで有名なこの公園は、桜の名所でもある。
桜の季節には、百種類を越えるサクラの花が次々と咲き乱れ、桜色の幻想的な世界に包まれる。
そう。
二人でそこにいたのも昔の話。
「ねえ、行こ」
「ああ、そうだね」
彼女に促されて、橋を後にした
3.夕焼けの並木道
広い園内の一番奥には、銀杏の並木道がある。
そこに並ぶ樹々は、まさに今がそのピークとでも言うかのように、地面に近いところから枝の先端まで樹々の葉が黄色く染まっていた。
そして、地面の上には、やはり黄色く染まった葉が降り積もり、辺り一面が銀杏の色に包まれている。
遠く西の空からは、夕陽が黄金色の光を投げ掛け、その空間は、上から下まですべてが黄色く輝く世界になっていた。
時折吹く風が銀杏の葉を巻き上げて音を立てる。
ベンチに座った老人が、連れた犬と一緒に黄金色に染まった並木道の空を見上げている。
遠いところでは、親子連れの子供が落ち葉を集めて遊んでいた。
舞い上げられた落ち葉が、風を受けて更に舞い上がる。
それらの光景が一遍に目に飛び込んできた私たちは、しばらくは固まってように何もできず、ただその様子を眺めていた。
「凄い…、綺麗」
「凄い、ね」
ようやく口を開いた彼女が、吸い寄せられるように並木道に歩き出すのに合わせて、黄色い絨毯の上に私も歩き出した。
一歩、一歩、地面を踏みしめる度に、カサコソと落ち葉が音を立てる。
「今日は撮らないんだね、写真」
歩きながら、彼女が話しかけた。
「ああ、今日は撮らない日だよ」
「どうして?」
「本当に綺麗なものは、
心に焼き付けておくんだよ」
「へぇ~」
なに言ってるんだか、と、軽く横目で見ながら、彼女は少し先を歩いてゆく。
そう。
今日は写真を撮らない日。
なぜなら、もっと大事なものがあるから。
写真は自分の中にある何かを、目の前にある風景を通して、誰かに伝えるための表現のひとつ。
今日は、その必要もないから。
今、伝えたい伝えたいことがあるとすれば…。
「前に、聞いたことがあるんだけどね」
少し先を歩く彼女に、私は話し掛けた。
「ゴールデン・ダスト、
っていうのがあるらしいんだ」
私を振り返り、なんなの、それ、と聞く彼女に、私は続けた。
長野県の山のなかには、落葉松の森があり、秋も終わりに近付くと落葉松の葉は黄金色に黄葉する。
そこに夕陽が差し込むと、まさに燃えるような黄金色になる。
晩秋の頃には、時々、強い風が吹く日があって、それが、落葉松の森が黄金色に黄葉した夕方に重なることがある。
そうすると、落葉松の葉が一斉に木の枝を離れ、そこら中に黄金色の葉が舞っている所に夕陽が当たり、周り中の空間がキラキラした黄金色の世界に包まれるのだ。
まさに、ゴールデン・ダスト。ダイヤモンド・ダストの黄金版だ。
しかし、いつでも観ることか出来るものではなく、程よく黄葉した葉が枝に残っていて、晴れた日の夕方に、強い風が吹く、という3つの条件がすべて揃う必要がある。
チャンスは年に1度だけ。
しかも、当然観ることが出来ない年もある。
だから、非常に珍しい現象なのだが、長野県のどこかの山の中にある落葉松の森では、比較的この条件が揃いやすいらしい。
しかし、その場所は明らかにはされていない。
どうやら秘密の場所らしい。
「それ、みたの?」
「やっぱり難しいね。
すごく緩いのはこの前見たけど」
先日、武甲山に登った際に、緩い北風に落葉松の葉が晩秋の陽射しを受けて輝くのを見た話をした。
でも、昼間だったし、ゴールデン・ダストと呼ぶには程遠い。
「いいなあ、私もみたい」
「そうだね、見てみたいね」
しかし、ゴールデン・ダストが起きるのは山深い森の中、体力のない彼女が観に行くのは難しい。
「俺が、撮ってくるよ」
黄金に輝く世界を、彼女に見せたかった。
一緒に行かれないなら、せめて…。
「そうね、でも…」
そう言いながら、私に顔を向けたまま彼女は身体の向きを変えた。
そのまま、少し前を歩いてゆく。
そう。
これが今の距離感。
近いようで、遠い。
「ねえ」
少し先まで進んでから、彼女は振り向いた。
そして、今度は彼女が話し始めた。
「前に、日食を観に行ったよね」
「ああ、行ったね」
「あれはよかったなぁ。
世の中にあんなものがあるなんて知らなかった」
あの時は、色々難しいことがあるなかで、かなり頑張って二人で行った。
南海の孤島へ。
たった数分間の天体ショーを観るために。
そう。
彼女に見せたかったから。
月が太陽を完全に隠す皆既日食。
真昼なのに、辺りは夕暮れのように暗くなり、360度すべての地平線が明るく浮き上がる。
そして、空には幻想的に揺らめく青い炎のリングが浮かんでいた。
悪天候のため、他の島では観れない中で、その島だけは奇跡的に観ることができた。
「ほんと、凄かったよね」
「うん、すごかった」
彼女は歩くのを止めて私を見た。
私も、一定の距離を空けて立ち止まる。
夕暮れ近い風が、彼女の髪やコートを靡かせる。
オレンジ色に変わった光が、逆光気味に立つ彼女の輪郭を、柔らかく浮き上がらせていた。
「珍しいお魚も一杯食べれたし、
楽しかったなあ。
連れてってくれてありがとう」
彼女は、少し俯いたように見えた。
逆光で、その表情は見えない。
言葉が見つからず、ただ、彼女を見つめていた。
「私たち
どうしてこうなっちゃったのかしらね」
少しの間、オレンジ色の光に包まれたまま、音の無い時間が過ぎた。
4.黄金色の時間
次の瞬間。
突然、強い風が吹いた。
「え…」
地面に積もっていた落ち葉が舞い上がり、枝に残っていた葉は一斉に樹々を離れ宙を舞う。
折からの夕陽に照らされて、空中で輝く黄葉。
ゴールデン・ダスト。
銀杏のゴールデン・ダスト。
「わあっ」
オレンジ色に煌めく世界で、夢のように空中を舞い降りてくる黄色い葉の数々を、二人で見上げていた。
「すごいっ」
「凄いね」
彼女は少しだけ駆け出し、そして、くるくるっと回った。
「あはっ
見れちゃったね」
彼女は回るのをやめて私を見た。
「あなたといると、色んなものが見れるね」
彼女は今、舞い降りる銀杏の葉のなかで周りの風景と一緒になって輝いていた。
オレンジ色の透明な夕陽が、彼女を優しい色に染め上げる。
「また、見れるといいな」
舞い降りる銀杏の葉と夕陽の光で周りの世界から隔離されたような空間。
今は、そこに二人だけ。
このまま、この世界に閉じ込められてもいい、そう思った。
そして、柔らかな輪郭に縁取られて、夕陽の色に染まる彼女を、私は素直に美しいと思った。
5.街の灯かり
やがて、周り中の世界を黄金色に輝かせていた夕陽が、遠い町並みの向こうへと消えて行き、その最後の赤い光が届かなくなると、辺りは夜の街へと姿を変えていった。
黄金色に輝く奇跡の時間は、日没と共に終わりを告げ、風も治まった園内は、静かな空気に包まれていた。
ポツポツと街頭に照らされた部分だけがまるでスポットライトを浴びたかのように浮かび上がっている。
時折、緩やかな風が道の上の落ち葉をかさこそと音をたてる。
その中を、二人並んで歩いた。
「今日はたのしかったな」
「そうだね」
「うん。来てくれてありがとう」
今は地面に降り積もった落ち葉たちを踏みしめながら歩く。
親子連れも、犬を連れた老人も先に帰ったのか、誰もいない園内を入り口までゆっくりと歩いた。
「また、あえる?」
「また、会おうね」
「わかった」
そう言うと、笑顔の彼女は胸元で小さく手を振った。
「駅まで送るよ」
「うん、大丈夫」
また連絡するね、と言うと、彼女はネオン眩しい人混みの中へと消えていった。
振り向きもせず歩いて行く彼女が見えなくなると、急に周囲の音が大きくなったような気がした。
街の雑踏。
車の行き交う音。
ふう、と息をついて空を見上げる。
東京の街中からは、星は殆ど見えない。
微かに見えるのはオリオン座だろうか。
また、一人、か。
いや、いつもの日常に戻っただけ。
さあ、帰ろう。
彼女の空気感が残る公園を背に、私は足を踏み出した。
望む未来へと繋がっているはずの明日へと、毎日を繋いでいくために。