様々なさとりの契機
禅門に入ったその動機も、さとりの契機も、 禅僧それぞれであって、けっして同じではない。また修行につい ていうと、 僧堂での坐禅修行ばかりがさとりの場、でないのも当然である。 むろん坐禅中に振るわれる警策の音の響きのなかにもさとりの契機(きっかけ)はあろう。 が、むしろそれをはなれた十字街頭(日常生活) の騒々しい、喧噪のまっただ中にあっても、開悟はむろん可能なのである(動中の工夫は、静中に勝ること百 千万億倍の語り)。そのほうがかえって、さとりの時節(適当な機会)をむかえるには最適なこともあろう。 六根(眼耳鼻舌身意)をフルに動員して、それにうながされて出てきたものを"さとり〟にむすびつける。眼でみて、耳できいて、 鼻で嗅ぎ、 舌であじわい、身にふれて、意におもって、 といったように、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感官(感覚器官)を通してあらわれ出てきたものに触発されて、それまでの疑問(疑団) をとかしつくし、それをさとりへと開発している。
それは、洞山良价禅師(八〇七-八六九)の「過水悟道」をはじめ、香厳智関禅師の「撃竹大悟」(掃除をしていたとき、掃きすてた礫が竹をうって発したその音に大悟した)や、霊雲志勤禅師の 「桃花悟道」( 桃の花をみてさとった)、あるいは『無門関』の著者・無門慧開はお昼の斎(おとき)をしらせる太鼓(斎鼓) の音を耳にして開悟した(さとりを開いた)ことなど、これらはいずれも、感官(感覚器官)のうながしによ る“さとり〟、であることがよく知られている。響きのなかにもさとりの契機(きっかけ)はあろう。 が、むしろそれをはなれた十字街頭(日常生活) の騒々しい、喧噪のまっただ中にあっても、開悟はむろん可能なのである(動中の工夫は、静中に勝ること百 千万億倍の語り)。そのほうがかえって、さとりの時節(適当な機会)をむかえるには最適なこともあろう。 て根(眼耳鼻舌身意)をフルに動員して、それにうながされて出てきたものを"さとり〟にむすびつける。眼でみて、耳できいて、 鼻で嗅ぎ、 舌であじわい、身にふれて、意におもって、 といったように、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感官(感覚器官)を通してあらわれ出てきたものに触発されて、それまでの疑問(疑団) をとかしつくし、それをさとりへと開発している。
それは、洞山良价禅師(八〇七-八六九)の「過水悟道」をはじめ、香厳智関禅師の「撃竹大悟」(掃除をしていたとき、掃きすてた礫が竹をうって発したその音に大悟した)や、霊雲志勤禅師の 「桃花悟道」(桃の花をみてさとった)、あるいは『無門関』の著者・無門慧開はお昼の斎(おとき)をしらせる太鼓(斎鼓) の音を耳にして開悟した(さとりを開いた)ことなど、これらはいずれも、感官(感覚器官)のうながしによ る“さとり〟であることがよく知られている。