万劫の撃驢橛:マンゴウのケロケツ
「船子和尚と夾山の話」もまた『景徳伝燈録』〔や『永平元和尚頌古】中にみえる話ではあるけれど読書人にあまねく知られわたっている話 (公案)ではない。
これも、一箇半箇(一人半人、つまり、きわめて少数人) の嗣 (すぐれたあととり)をうるのに難渋したという、その接化為人の困難なさまをいったものだろう。まずは伝を灘いてみよう。
船子和尚 (華亭和尚、船子徳誠)は、武宗 (八四〇一八四六在位)による法難会昌の沙汰のとき、華亭県の江上(大河の上)に高舟(こぶね)をうかべて、渡し守に身をやつし、来たるべき世を待っていた禅僧で、薬山惟像の嗣 (法を嗣いだ者)である (徳山宣鑑もこのころ、独浮山の石室に難を避けている)。
沙汰とは、「米を水洗いして砂を取り除く。転じて、物の善悪をよりわける。淘汰」(『漢字源」)の意である。また、禅語辞典によると、「沙石より金を沙り分くる事にて、善悪を分類することなり。即ち官より僧尼の善悪を吟味して悪しき僧を還俗さするを沙汰と云う。唐の会昌五年(或は四年) の毀仏を会昌沙汰と云うは、道教を善とし、仏教を悪としてこぼてるなり」(山田)。なお、天下の寺院四千六百を毀ち(こわし)、二十六万五百もの僧尼を還俗させた(『資治通鑑」巻二四八《会昌五年五月)、『十八史略』『仏祖統記」四三巻)。
船子和尚 (本貫=故地・俗姓など不詳)の同学・同参の禅僧に、道吾円智 (どうごえんち。七六九一八三五。予章〈江西省〉の人)や雲巌雲晟(うんがんどんじょう。七八二一八四一。鐘陵建昌〈江西省南城県〉の人)がいる(なお『祖堂集』では、道吾をも鐘陵建昌の人としるす。また雲厳雲晟と道吾円智の二人はきょうだい、とも)。
煙波のかなたへ
華亭(かてい)の船子和尚、名は徳誠(とくじょう)にして、薬山(やくさん)に〔法を〕嗣ぐ。かつて、華亭の呉江 (江蘇省松江府の大湖にのぞんだ地)に於て一小舟を汎(うか)ぶ。時に之れを船子和尚と謂う。師(船子和尚)、かつて同参 (船子と同じく、薬山の嗣)の道吾〔円智〕に謂いて曰く、他後に霊利の座主(ざす)有らば、 一箇を指しきたれ、と。道吾、後に京口和尚夾山(かっさん)を激励して、師(船子和尚)に参礼せしむ。師(船子和尚)、問うて曰く、座主、甚(なん)の寺にか住する、と。[夾山善〕会、曰く、寺は即ち住せず。住せば即ち似ず、と。師(船子和尚)、曰く、似ずと、箇の什麼(なに)にか似る、と。〔夾山善〕会、曰く、目前(めさき)に相似るたるものなし、と。師 (船子和尚)、曰く、いずれの処よりか学得し来る、と。曰く、耳目の到る所に非ず、と。師、笑いて曰く、一句合頭(いっくがっとう)の語 (理にかなったことば)、万劫(まんごう)の繋驢橛(ケロッケツ、やくたたず)なり。垂糸千尺(ながい釣り糸)の意は深潭(ジンタン、ふかいフチ=淵)に在り。鈎(つりばり)を離るること三寸、速やかに道(い)え、と。〔夾山善〕会、口を開かんと擬するや、師(船子和尚)、すなわち篙 (さお)を以て水中に撞在す(ドウザイ。つきおとす)。因って大悟す。師 (船子和尚)、当下(とうげ)に舟を棄て逝(ゆ)く。其の終りを知ることなし(巻第一四。『五燈会元」巻五にも載す)
たとえ真理に契った語でも、それに執着すれば自由の分を欠くことになる、の意。撃盟概は、驢馬をつなぐ木くいのことで、①全く役に立たない無意味なもの。2束縛されて自由の分を欠くこと、文字言句に執着して悟境から遠ざかること(『国訳一切経 史伝部十四』三六九頁)に驢馬をつなぐ木のくいの意。しまったく役にたたない無意味なもの(碧巌録一則「是れなんの繋驢橛ぞ」)
②束縛されて自由がきかないことで、文字言句にとらわれ、悟りの境地から遠くはなれているこたとえ(祖・夾山伝「一句合頭の語。万劫の撃騒」)(増永『小辞典』)