武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉗
文化を用いたフランスの中立国プロパガンダ
先進的な文化を外交の武器としたフランス
戦争プロパガンダは、敵の戦意喪失を狙った対敵宣伝、自国の戦意高揚と戦争協力を促す国内宣伝、そして中立国を味方につける中立国宣伝にわけられる。なかでも第三国へのプロパガンダは、自陣営の影響力を広めて敵陣営を孤立させられるので、大戦中はどの国も積極的に行っていた。
第二次世界大戦時の米独が、南米国家の支持を得るため宣伝合戦を展開したことは有名で、とくに中立国宣伝を重視していたのがフランスである。
帝国主義全盛の1870年代、欧州各国は海外植民地を拡大するべく熾烈な競争を展開。フランスも例にもれず、中東・アフリカを中心として権益を奪い合っていた。その手段の1つがプロパガンダであり、利用したのが文化であった。
フランスでは16世紀の中期頃より、文化を外交手段に取り入れる。1535年にオスマン帝国との間で結ばれたフランス言語・芸術の保護条約をはじまりとし、17世紀には文化的教養が外交官の必須技能となっている。
フランスは先進的な文化を外交の武器とし、外交活動を通じた文化浸透によってフランス語圏の影響力はアフリカやアジアにまで広がっていくのだった。
親仏感情を植え付ける文化拡散を展開
19世紀から20世紀においても、文化はプロパガンダの武器であった。実際、フランスは語学と文化宣伝の施設を各国に展開。1820年代よりリセと呼ばれる教育機関を中東やヨーロッパに創設する。インド、オスマン(トルコ)、ギリシャ、イタリアなどに設立されたリセは、親仏派の育成とフランス文化ネットワークの拠点として活用されていくことになった。
1883年には、フランス語と文化の宣伝交流を担う「アリアンス・フランセーズ」がパリで創立。プラハ (チェコ)、デンマーク、中国などにも支部を持つばかりか、20世紀以降はラテンアメリカとの交流にも乗り出し、中南米への足掛かりも着々と構築していった。
フランスは第三国に親仏感情を植え付けるノウハウを得ていったのだ。
こうした活動は第一次世界大戦の勃発でさらに加速する。ドイツ陣営に勝利するため、文化ネットワークのプロパガンダ利用が政策目標とされたからだ。
1915年にはドイツ人弁護士・リヒャルド・グレリングが執筆した「我糾弾す」という書籍を、フランスは宣伝活動に利用。ドイツの戦争犯罪を徹底的に弾劾するこの書を、フランス宣伝部は約10カ国語に翻訳すると、文化ネットワークを通じて世界中にバラまいた。
なお、この書物は通常のビラ宣伝と同じようにドイツ陣地にもまかれている。
親独政権を拒否した海外の文化拠点
第一次世界大戦後になると、文化プロパガンダはより一層の発展を見せる。1918年に設立した「芸術普及機関」は芸術活動の振興を表向きの活動内容としていたが、実際は外務省の支援で大学活動、芸術活動、作品普及の三部門から海外への知的プロパガンダを行うための組織であった。
最重要の活動拠点とされたのは、オスマン帝国の消滅で空白地となった中東地域と、オーストリア・ハンガリーの解体で勢力図が白紙化された中・東欧だ。これら地域の第三国を味方につけるべく、フランスは教育文化施設の建設と文化協定の締結を強力に推し進めていく。1929年にイランと協定を締結したのを皮切りに、デンマーク、オーストリア、スウェーデンなどとも手を結び、同国でのフランス語教育の展開を推し進めた。
フランスのターゲットは日本も例外ではなかった。駐日大使館の主導で1924年には東京、1927年には京都に日仏会館が設立され、文化交流と日仏宥和に利用されていった。
ただフランスは、戦時におけるプロパガンダが、あまり得意ではなかったようだ。
たしかに反独の著書やビラを撒くというオーソドックスな方法は用いていたが、斬新な宣伝手法は何もない。これはフランスが常に侵略される側であり、第二次世界大戦時には国内政治も乱れていたので、発案する余裕がなかったとする説がある。
結果としてフランスはドイツに降伏するが、平時に構築したネットワークは無駄ではなかった。親独ヴィジー政権が発足しても、各地の海外文化拠点は支持を拒否。自由フランスのレジスタンス活動を支援することになるのだった。