武器を使わない情報戦ープロパガンダ①

第一次世界大戦からはじまった日本のプロパガンダ

民間からはじまったプロパガンダ黎明期

「プロパガンダ(propaganda)」とは、政治や軍事的な意図に基づき、自国・敵国対象者の思考と行動に影響を与える組織的宣伝を指す。ラテン語で動植物の繁殖を意味する「propago」に由来し、もともとは宣伝全般を意味していた。それが政治・軍事宣伝を指すようになったのは、19世紀末頃からだとされる。
 この時代は印刷技術の発展により、戦争報道を民間に伝えやすくなっていた。新聞はもちろん、欧米各国で日用品のおまけとして同封された戦争カードもブームになっていたようだ。
 もちろん日本も例外ではない。日清戦争(1894~1895)には、各出版社が先を競って戦況を報道し、従軍記者の総数は100名を超えていた。「戦争錦絵」という戦場を題材とした錦絵も飛ぶように売れ、なかには1日に発効可能な枚数の30倍を売った業者もいたという。
 日露戦争(1904-1905)には写真技術の普及で戦況写真がメディアをにぎわし、写真に特化した戦争グラフ誌も大流行。国民の戦争熱をもっともあおったのが、戦地の状況を流した活動写真(映画)であった。
 ただ、当時は技術力が足りず、再現映像や無関係の戦闘のつぎはぎもあったようだ。それでも国民からの人気は上々であったという。こうしたように、日本の戦争プロパガンダは、かなり古い段階から行われていたのである。
 ただし、こうしたプロパガンダは民間が戦争を商機ととらえておこったことで、政府の主導ではなかった。日本政府・軍部が宣伝工作に本腰を入れ出したのは、第一次世界大戦(1914-1918)以降である。

政策躍進につながった関東大震災

 サラエボのオーストリア皇太子夫妻暗殺からはじまった史上初の世界大戦では、戦争の長期化と宣伝技術の発達によって両陣営のプロパガンダが盛んにおこなわれる。米英などでは、初の国家的プロパガンダ機関も設立されている。一方の日本も写真や映画を通じた戦意高揚を図ってはいたが、宣伝の組織化に本腰を入れたのは戦後だ。
 1918年11月に大戦がドイツ側の敗北で終結すると、日本陸軍を中心としてイギリス式のプロパガンダ政策の研究がスタートする。陸軍ではドイツの敗戦原因のひとつを「宣伝戦の敗北」とし、将来の総力戦にそなえるためには、国民の戦争協力を扇動するプロパガンダが必要不可欠と考えたのだ。
 日本の外務省もイギリスの宣伝関連著作の入手をすすめていた。対象はドイツ語圏のプロパガンダ研究資料にもひろがり、それらを入手・翻訳するだけでなく、独自研究に役立てることで、プロパガンダ技術の向上をはかったのである。
 そうした中、1923年に発生した関東大震災もプロパガンダ政策の躍進に役立った。東京を中心とした関東一円を襲った大災害のさなかには、略奪行為やデマによる朝鮮人の殺害といった暴虐事件が問題となっていた。日本政府は治安回復のための方策を幾つも実行に移しており、その一つに「国民精神作興ニ関スル詔書」の布告がある。
 同年の11月10日、大正天皇の名で摂政宮(のちの昭和天皇)が渙発した詔書の内容を簡単にいえば、「国民精神をゆっくりと育み、己を奮い起こすよう務めよ」というものだ。大衆を対象とした布告を公布した経験は、民衆向けプロパガンダにも役立てられたという。

軍部による宣伝活動の強化

 これに先んじて、陸軍ではプロパガンダを「思想戦」と称し、総力戦における重要なファクターに位置づけていた。1919年には、新聞検閲委員を改編する形で「新聞班」が陸軍省内に設立される。宣伝報道業務を担う部署の設立には、当時は大正デモクラシーや米騒動による反政府世論の高まりへの危惧もあったとされる。
 設立後は陸軍省内の記者クラブとの癒着を強め、軍隊寄りの記事を書かせようとしていた。記者の接待も日常的だったといわれ、一説には新聞社の買収も計画したようだ。1934年には「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを制作し、国民世論を味方につけようとした。
 やがて、1933年に「軍事調査部」が設立されると、新聞班はその傘下に置かれて対外活動を担当することになる。この新聞班を流用する形で戦果報道を行った部署が、大本営発表を手掛けた大本営陸軍報道部である。一方の海軍は当初こそプロパガンダに消極的だったが、1930年代より本腰を入れはじめ、海軍省内に軍事普及部を設置して宣伝活動を強めていった。
 このようにして、第一次世界大戦を契機に日本のプロパガンダ体制は急ピッチで整備されていったのだ。

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