多くの崩御年次が存在する継体天皇

『日本書紀』によると、継体天皇は皇子の勾大兄(のちの安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御したとする。年次は辛亥の年(531年)だが、甲寅の年(534年)とする異説も載せている。なお『古事記』では527年としている。
 531年説は百済の史書『百済本記』によるものだ。記事には「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨」とあり、記述が正しければ継体天皇と皇子も同時に亡くなったことになる。その皇子がだれなのかは不明だが、太子が皇太子を意味するのであれば勾大兄も没してしまったことになる。
安閑天皇の即位は継体天皇の崩御と同じ年なので、『日本書紀』にしたがえば531年か534年だ。在位は2年とされているので、次の宣化天皇が即位したのは533年か536年。その次の29代欽明天皇が即位したのは宣化天皇4年。536年もしくは539年となる。しかし、「記紀」ともに宣化天皇の崩御を535年としているので、宣化天皇の即位は536年、欽明天皇が即位したのは539年だ。即位の期間に誤りがないとすれば、継体天皇の崩御も534年となる。
ならば『百済本記』が間違っているのか。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』といった史料では、欽明天皇の即位を531年としている。これらのことから考え出されたのが、「継体・欽明朝の内乱説」もしくは「両朝並立説」だ。

欽明天皇によるクーデター「辛亥の変」

歴史学者の喜田貞吉は『百済本記』の記述を正しいとし、辛亥の年に重大な政治危機が起こり、継体天皇の崩御後、ヤマト王権が分裂したとの説をとなえた。つまり、地方豪族出身の尾張目子媛を母に持つ安閑・宣化系と仁賢天皇の皇女である手白香皇女を母に持つ欽明系が対立し、2つの王朝が成立したとしたのだ。さらに日本史研究会の創立参加者でもある林屋辰三郎は、喜田の説を発展させ全国的な内乱が発生したとの説を提起した。
この説では、継体朝は継体天皇と大伴金村による政権とらえる。しかし、朝鮮半島政策の失敗や527年に起きた筑紫(九州)の豪族磐井の反乱によって権威は喪失。そんな王朝に対して蘇我稲目が欽明天皇を担ぎ上げ、天皇と皇子がともに亡くなるようなクーデターを起こす。大伴金村は稲目に対抗して安閑天皇を擁立。まるで14世紀に起こった南北朝時代のような状況が9年間続いたと考えた。
林屋はこの内乱を「辛亥の変」と呼称したが、大胆な意見には反論も多い。しかし、もしも531年に欽明朝が成立していたとすれば、歴史的な疑問が解消される。それは仏教の公伝である。

仏教が公伝したのははたして欽明朝なのか?

『日本書紀』には、日本へ仏教が公式に伝わった年を欽明天皇13年の壬申の年としている。西暦になおせば552年である。だが、『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の「戊午年」とする。だが欽明天皇の即位が539年だとすると、在位時に戊午年は存在しない。それ以前でもっとも近い戊午年は538年。現在では538年説が有力で、授業でそう習った人も多いだろう。
 つまり仏典や仏像が百済の聖明王よりもたらされたのは、欽明朝でなく宣化朝の晩年だったことになってしまう。これがもし531年に欽明天皇が即位していたのなら、矛盾は生じない。
 はたして異母兄弟同士の内乱は起きていたのか。それとも崩御や即位の年、在位の期間が史料によって違いはあっても、継体~安閑~宣化~欽明の即位は順調に行われたのか。古代史の謎であり、ロマンでもある。
 


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