武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑦
戦時体制強化のための「聖戦博覧会」
新聞社によるプロパガンダ目的の博覧会
戦前の日本政府が好んだプロパガンダに「博覧会」がある。戦争や国威をテーマとした展示を大々的に行うことで、政府の正当性を伝えようという試みだ。
日本はすでに幕末のパリ博覧会から欧州の万博に参加しており、ジャポニズムという日本美術ブームを起こしていた。戦争に影響を与えたのは、1893年に開催されたシカゴ万博である。
日清戦争の前年に開かれた万博において、日本は平等院鳳凰堂をモデルとしたパビリオンを建て、日本の風景を撮影した写真でも外国人の興味を引いた。その結果としてジャポニズムの流行はさらに高まり、翌年の日清戦争への国際的な関心も必然的に高まることになる。万博への参加が、意図せずプロパガンダとなったのである。
そして日中戦争時、博覧会は意図的にプロパガンダの手段とされた。主導したのは新聞社だ。
1926年の朝日会館竣工記念講演会にて、朝日新聞の村山龍平社長(当時)は新聞社の役割を新聞の発行だけではないとした。さまざまな催しをつうじた公共利益の向上を第一とした社長の方針により、朝日新聞はこの翌年から音楽、科学、美術といった多種多様な展覧会やイベントを企画していく。
当初は平和と文化を重んじていたのだが、1931年の満州事変より軍事をモチーフとした展示が増えていく。1932年に大阪朝日会館で開催された「満州事変一周年記念展覧会」がいい例だ。
目的は、もちろん発行部数の増加であり、日中戦争勃発直後の1937年7月31日に「新聞紙法」第27条に基づく軍事事項の当面の掲載禁止が決定すると、より新聞社も軍部との癒着を強めるようになった。
再現された戦場を楽しんだ来場者
やがて1938年4月1日より、日中戦争を題材とした博覧会が開かれることになる。それが「支那事変聖戦博覧会」だ。会場は、兵庫県の阪急西宮球場(現阪急西宮ガーデンズ)とその周辺。主催は朝日新聞社である。
約10万平方メートルという広大な会場には、陸海軍省の支援で多種多様な展示品が置かれていた。その中の目玉といえば、実際の戦場を再現した一大パノラマ。敷地面積の1割を使った再現戦場には中国の山々が再現され、トーチカや塹壕を備えた陣地にも、実際に来場者が入って楽しめるつくりになっていた。
ときには軍隊の模擬演習も行われたという。また、戦況写真や音声付きの現地映像も活用され、来場客は戦争をイベント感覚で大いに楽しんだのだ。
当時は日中戦争の勃発から1年が経ち、3月には国家総動員法が制定されるなど、軍国化の雰囲気が色濃くなった時期だった。そうした情勢の中で博覧会を開くことにより、日中戦争を「聖戦」として印象づけるとともに、新聞社側も部数向上と軍部との結びつきの強化を狙ったのである。
一大ブームとなった戦争イベント
こうした軍部と新聞社の思惑は大いに当たり、5月30日までの75日間で訪れた来場者数は約145万人。プロパガンダとしても大成功だったといえる。
これに味を占めた軍部と新聞社は、その後もプロパガンダ目的の博覧会を多数開催していった。1939年1月からは東京、大阪、名古屋で「戦車大博覧会」を開き、陸軍の威光を国民に知らしめる。また4月には、ふたたび阪急西宮球場にて「大東亜建設博覧会」が開かれ、今度は武漢攻略をテーマとした大パノラマが軍部の支援で建設されている。
その後も阪急西宮球場では、1941年に「国防科学大博覧会」、1943年には「決戦防空博覧会」などの大規模博覧会が幾度も開かれている。もちろん朝日新聞以外の各社も博覧会に力を入れ、プロパガンダは全国へと広がっていったのだ。
これらプロパガンダ博覧会の開催は、1937年から1940年までに全国で大小合わせて72回、太平洋戦争勃発後も1941年から44年までに12回を数えた。戦争をイベントとした大規模プロパガンダは、まさに戦中のブームだったといっていい。
ちなみに、阪急西宮球場は戦後もプロパガンダの舞台になっていた。1950年3月からの約3か月間、この球場では「アメリカ博覧会」が開催される。主催は聖戦博覧会と同じく朝日新聞社。しかし協賛は連合国軍総司令部(GHQ)である。
アメリカ各所のパノラマや旅客機の実物大模型まで展示した博覧会は、まさにアメリカへの親近感を日本国民に持たせるためのプロパガンダの一種だったといえる。来場者数は約200万人と聖戦博覧会を超え、アメリカ文化の喧伝に役立った。イベントをプロパガンダ利用する発想は、日米共通だったようだ。
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