星の大地に沈む 2/2


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モンゴルの高原地帯にあるテレルジ国立公園に訪れたのは、ちょうど正午を回った頃だった。低くなだらかな山々に、どこまでも続く緑の絨毯が敷かれた大地。昔は乗馬やトレッキングを体力の限界まで楽しんだが、やはりあの頃とはもう違う。二人は草原に寝転がって、ただただ何もしない時間を満喫した。
ここではWi-Fiも通っておらず、スマホが使えない。それが思いのほか百合の心を軽くした。
仕事関係の電話やメッセージも多少気にしたが、それよりも隆弘を気にしなくていいことにホッとしたのだ。
隆弘の了解をもらってこの旅行に来たが、彼は本当は納得していない。彼からメッセージが入っていてもいなくても、それは百合の心を落ち着かなくさせる。
閉じていた両目を開けると、空は白い雲に覆われていた。雨が降りそうな様子ではないが、晴れ間を期待できるほどの質量の軽そうな雲にも見えなかった。


車を少し走らせた場所にあるリゾートホテル。今日から二日間はここで過ごす予定にしていた。ホテルとは言っても、客室の一棟一棟がモンゴルの移動式住居であるゲルとなっているコテージタイプのリゾートだ。
部屋の奥は一面が窓になっており、モンゴルの大草原が一望できる。大きな部屋の中央には花を散らした浴槽、ミニバーに座り心地の良さそうなソファ、ベッドには、昨日と同じように分厚い高級そうなマットレスが乗っている。
「すごい……百合ちゃん、ここ、高いんじゃないの?だってほら、お風呂にトイレもあるよ。ホームステイした時は、水は貴重だからって身体は水拭きするだけだったし、青空トイレだったよね」
「いや、まぁ金額はそんなでもなかったよ。それにしても、本当にリゾートね。不思議。別の国に来たみたい」
旅行の代金は、航空券や宿泊代はまとめて百合が予約するということで、初音から一括で預かった。もちろん、実際にかかった費用よりもかなり安く請求している。初音はそれを望まないだろうが、初音の身体に負担をかける旅をしたくはなかったし、百合自身がそうしてでもこの旅を実現したかった。
しかし、どうもしっくりこなかった。モンゴルの旅とは、こういうものだっただろうか?
初音も同じ様子だった。2人でゴロゴロしたりミニバーから瓶ビールを取り出して草原を見ながら飲んでみたりしたが、どうも落ち着かなかった。
懸念していた通り、夜空は分厚い雲のカーテンに覆われたままだった。今日は星を見ることはできそうもない。
「残念。明日は晴れるといいんだけど」
「そうだね。運が悪かったね。こうなると、ますますすることがないねぇ」
二人はベッドに寝ころんで天井を見上げていた。時刻は午後八時。寝るにはまだ少し早い。
本当は、酒を片手に本の続きを読んでもよかったし旅の日記をノートにしたためてもよかった。しかし、なぜかその気が起きない。
「この歳になってもこういう高級ホテルに慣れないなんて、何だか損してる気がする。どんだけ貧乏性なんだろう」
「いや、私も意外と楽しめてない。少なくとも、モンゴルは私達の中ではリゾート地ではなかったもんね。ごめん、選択間違ったね」
「違うよ百合ちゃん!そうじゃない。そうじゃなくて。……何だか、私色々と人生を間違えてきちゃったんじゃないかって、何だかそんな気持ちになっちゃって」
初音はぽつりと言った。
「会社勤めが合わないからって好き勝手に生きてきて、ろくに収入もないから同世代の友達がするような遊びも知らずにここまで来て。こんな高級なホテルに泊まっているのに心も動かないなんて情けないよ。私の人生、これで良かったのかな?どこかで間違ったからこういうことになったのかな?」
「……初音は、これまでの自分のこと後悔してるの?こんな生き方しなきゃよかったって思ってるの?」
「分からない。何だかもう分からないの。でも今、私には、自分の人生も周りの景色も全部がモノクロにしか見えないの。何だかこの先の人生を生きる気力がない。どうでもよくなっちゃった」
「初音……」
「ごめん、変なこと言ったね。別に死のうと思ったりしてないから、心配しないで。でも、お医者さんから治ると言われてもやっぱり思うの。ガンを宣告されて、私の人生何かが終わったなって。だから、百合ちゃんが羨ましいよ。素敵な旦那様もいて、仕事でも認められて」
初音は百合の方を見て空虚な笑みを浮かべる。
その時百合には――悲しみと同情と、かすかな怒りが沸き上がっていた。
「羨ましいの? だったら交換してあげたいよ。隆弘も私の仕事も。私だって――」
「……百合ちゃん? 何かあった?」
少し声を荒らげた百合に、初音が驚いて体を起こす。
「……ごめん、八つ当たりだったね。大丈夫、今ちょっと色々うまくいってないの、本当のところ」
初音の方は見れなかった。絞り出すような百合の告白を聞いて、初音がどんな表情をしているのかは分からない。
「……百合ちゃんはいつも悩み事は一人で解決してたけど、それでもいいと思うけど…私だって隣にいるんだから。たまには頼ってね。的確なアドバイスはできないかもしれないけどさ」
「……うん」
百合は悩みを人に打ち明けるのが苦手だった。初音の言う通り、今回も自分で解決するつもりだ。

翌朝、百合は思い切って言った。
「初音、もし間に合えばだけど、この宿は今日でチェックアウトして、昔みたいにホームステイさせてもらわない?」
初音は存外嬉しそうな顔を見せた。
「……いいの?」
「うん、というか私がそうしたいの。なんかこれ、私が思ってたような旅じゃない。きっと初音もそうでしょ?」
初音は遠慮がちにうなづいた。
リゾートホテルでの快適な滞在は、思ったよりもしっくりこなかった。というよりも、自分がそれほどそういった快適さを重視していなかったことに気付いた。
豊かでラグジュアリーな暮らし。どうして自分にはそれが必要だと思っていたのだろう?
百合は結婚にそれを求めていたからこそ、理想のパートナーと出会って望み通りの生活をしていたのではなかったか。高層階から見下ろす東京の港や街並み。今となっては、それが本当に手に入れたかったものなのか分からない。

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ホテルの日本語の通じるスタッフに事情を話し、ウランバートルのツアー会社に連絡を取る。通常、遊牧民の一般家庭のホームステイツアーは2泊3日を基本としている。しかし、百合達の熱意が通じたか、1泊だけの合流が認められた。
迎えの車に乗り込み、2時間ほど道のない大草原の中を走る。今日も天気は曇りだった。
やがて小さく点々とした影が見えてきて、運転手があれが目的地だと拙い英語で伝える。
だだっ広い場所にポツポツと距離を開けて点在する一般家庭のゲル。
ウランバートルからのツアー参加者は、既に一組ずつ受け入れ先の家庭に引き取られていた。
急遽参加することになった百合達を快く迎えたのは、四十歳くらいの夫婦と小学校低学年くらいの男児の家庭だった。
日焼けした赤い顔でニコニコと笑う夫婦。日本人と似ているようで、よく見ればやはりどこか異国の顔立ちだ。子供の方は人見知りをするのか、遠巻きに百合達のことをじっと見つめるばかりだった。
「こんにちは。急なことなのに、受け入れてくれてありがとうございます」
彼らには英語も日本語も通じない。
だから、精いっぱいの笑顔と身振り手振りで意思を示す。十三年前と全く一緒だった。あの時は老婆とティーンエイジャーの孫娘2人の家庭だった。あの二人は今どうしているだろうか。
今夜宿泊するゲルに荷物を置いてから、早速百合と初音には仕事があてがわれた。
一人は食事作りの手伝い、一人は乳しぼりだとジェスチャーで伝えられる。
「わ、初音、乳しぼりお願いできないかな? 私、あれ全然ダメだったから」
「そうだったね。いいよ、私けっこう得意だった!じゃあ百合ちゃんはご飯よろしくね!」
初音は放牧されている牛の元に向かっていった。
十三年前もここで二人は乳しぼりを経験したが、不器用な百合はうまく絞れずに牛の乳首に擦り傷を負わせてしまったのだった。
一人でゲルに戻って、奥さんと食事の準備をする。小麦粉を水で煉り合せたものを伸ばして餃子のような形にして揚げる。そんなシンプルな料理だ。ジェスチャーでやり方を指示され、二人で無言で作業する。何も考えずに無心で作業し、たまに女性と目を合わせて微笑みあう。料理は苦手だったが、意外と楽しいと思えた。隆弘へ出す料理を作っている時は、もっとピリピリしている。
『なに、この手抜き料理。俺せっかく夜遅くまで仕事してるんだから、もっとマシなもの食べさせてよ』
隆弘の言葉が頭の中に響く。
『うちの母さんは出来合いのものなんか出さなかったぜ?』
胃がきゅっとなるのを感じる。それなりに頑張っていたつもりだった。確かに時間がなくて一品補うために総菜を買うこともあった。しかし、きちんと一汁三菜を用意して言われる言葉がこれだ。
『俺の仕事と百合の仕事、どっちが尊いかなんて分かるだろ?俺は法律のプロだぞ』
そう言われてしまえば返す言葉もない。誇りを持っていたはずの仕事が、急に色あせたものに感じた。隆弘ほど重要度の高くない仕事でさえ最近ミスが多く、家庭もきちんと回せない。中途半端で価値のない自分。
「あっつ」
揚げ油がパチっと百合の腕にとんできて、ハッと意識が戻った。束の間ボーっとしてしまっていたようだ。
食事の用意ができたところで、一家の主人と息子と共に牛の乳を搾っていた初音を呼び寄せる。
一家と食卓を囲むと、彼らはモンゴル語で何ごとかを言った。恐らく、いただきますを意味する言葉だろう。百合と初音はジェスチャーでそれを示し、作った揚げ物と少量の干し肉、バター状の乳製品を黙って食べた。
十三年前の食事と全く変わらないメニュー、変わらない素朴な味。調味料を使ってないからこそ分かる自然な味が口の中いっぱいに広がる。
美味しかった。顔をほころばせると、正面に座る少年と目が合い、どちらからともなく微笑んだ。言葉が通じず無言でも、孤独ではない食卓。
食べるメニューが大事なのではない。誰かと食事を取るこの空気こそ、百合にとって必要なのだと感じた。
「この味、懐かしいね。ここに来ると、このシンプルな味が極上に感じるから不思議だね」
初音が嬉しそうに笑う。
「そうね。私の欲しかったものって本当はこんな些細なものなのかもしれないって、何だかそう思っちゃった」
食事を食べた後はそのまま昼寝をして、起きたらゆっくりと家畜の世話をしにまた草原へ出かける。気づけば、ところどころ空にかかっていた雲は全てどこかへ消えていた。終わればのんびりとまたゲルに戻ってきて、もう夕食だ。馬乳酒を飲みながら、一日の労をねぎらい、団らんする。
これが遊牧民である彼らのリアルな日常だ。
百合のように都会で知的生産活動をするわけではなく、初音のようにものづくりをするわけでもない。ただただ毎日を着実に暮らすために最低限働いて食べて寝る。恐らく、隆弘が最も嫌う人間のタイプだ。百合も、少し前まではそんな生き方をつまらないと断罪していただろう。
しかし、今は思う。
他人と比較することでしか自分を満たすことができない百合の生き方の方が、何倍もつまらなく浅ましいと。
高給取りの夫、都心の高級マンション、既婚者という肩書。他人から見た理想に踊らされ、それが自分の幸せだと何年も疑わなかった自分が恥ずかしい。


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すっかり陽が沈んだ。
ゲルの中にいても忍び寄る冷気に百合と初音は身を震わせる。
インナーを重ね着してセーターを着こみ、腰までの長さの防寒着を羽織って外に出る。
ひやっとした空気が頬を撫でた。湿度がない分、日中との寒暖差がより際立つ。ゲルから少し離れた小高い丘に二人で登る。ここからだと、ゲルの入り口に下げている灯りがかろうじて届く距離でちょうどよかった。
お互い、上を見ないようにしているのが分かった。まだだ。まだその時ではないのだ。
「せーの!」
丘のてっぺんで、二人で寝転がった。
「初音、ちゃんと目閉じてる? まだ開けちゃだめだよ」
「閉じてるよ!ドキドキするー! 百合ちゃんいくよ? せーので開けるからね」
まるで子供のような会話を繰り広げる。しかし、本人達は真剣そのものだ。
「せーの!」
声を合わせ、目をパッと開けると。
百合達は、宇宙にいた。
真っ黒な空間にをすきまなく埋め尽くすかのような、無数の星。宇宙に一番近い場所で見る星は、写真や絵で見るような、キラキラと煌く儚いものではないのだと知った。もっとむせかえるような、ゴツゴツして大きくてグロテスクで、暴力的な存在なのだ。それが、降ってくる。まさに眼前に迫ろうかというほどに。
あぁこれだ――。背中がゾワっとする感覚に襲われた。
「初音……覚えてる? 私達があの時みたのも、この景色だったよね」
「うん。うん」
初音は言葉少なに答え、ただうなずいている。初音の目は縫い付けられたように空に向けられていた。
落ちてくる惑星を見続けていると、体の感覚がどこかおかしくなる。ぴったりと背中をつけているはずの大地にずぶずぶと溶け込んでいくような、自分の輪郭が曖昧になるような、不思議な感覚だった。
人間の力ではどうにもできない数十億年の歴史が作り上げた景観の前に、百合は個体としての自分がどんどん小さくしぼんでいくような気がしていた。
急にバカバカしくなった。
これまで自分が大事に守ってきた体裁も、立場も、隆弘のことでさえも。
あんなに思い悩んできたあれもこれも、目の前の小宇宙が全て飲み込んでいく。今、自分もこれらの星の一つになったような気持ちだった。
私達は、本当はもっと自由なのではないか?
勝手に自分の限界や外枠を決めてきたけれど。大人になったらそうあるべきだと思っていたけれど。そんなこと、誰も命令してもいないし望んでもいない。そうすべきだと決めていたのは、他でもない自分自身だったのではないか――。
急に体に降りてきたその感覚を分かち合いたくて、隣の初音を見やる。
すると。初音は涙を流していた。
静かに音もたてず、ただ涙を目の中一杯に溜めて空を見続けている。きっと、海中にいるような気分のはずだ。
「初音」
「どうしよう。よく分からないけど。涙が止まらないの」
「うん、そうだね。分かるよ」
「う……うわあああああああん。うわあああああああ」
初音は声を上げて泣いた。子供のように大きな声で。こんな風に泣かなくなったのはいつからだろうか?一人でいる時でさえ、歯を食いしばって絞り出すように泣くようになったのはいつからだったか?
どんな風に泣こうが笑おうが、それすらもここでは自由だ。
私達は自由なのだ。
「ひぃぃぃぃぃぃん……ひぃぃぃぃぃぃぃ」
初音の隣で、百合も我慢せずに声を上げた。心の赴くままに。感情が流れるままに。
「うわああああああ」
「ひぃぃぃぃぃん」
しかし、2人のそんな大合唱ですら、誰の耳にも聞こえない。届かない。全て眼前の小宇宙が飲み込んでいく。

帰国の途についた百合と初音。日本に到着した瞬間から日常がまた始まる。
しかし、初音は晴れ晴れとした顔をしていた。
「百合ちゃん、本当にありがとう。私、頑張れる気がする」
「元気出た? よかった」
「うん。というかね、自分がいかに狭くて小さな世界にいたのかがよく分かったの。私が気にしていたことや価値観なんて、なんだかどうでも良くなった」
「初音…」
「なんかうまく言えないんだけど、昨日までとは景色が違って見えるんだ」
そう言って遠くを見つめる初音の目は、一体何を捉えているのだろうか。
旅の間、ずっと言葉少なに考え込んでいた初音は、ついに何かを見つけたらしい。
そして、百合自身も、一つの答えを見出していた。
初音のためと言って無理に企画した旅だったが、本当は気付いていた。百合自身にこそこの時間が必要だったことに。そして、決めたことがあった。飛行機の中でずっと考えていたことだ。
 


「ただいま」
自宅ドアのカギはかかっていなかった。土日はいつも外出する隆弘だったが、どうやら家にいるようだ。
「おかえり」
リビングからかけられる声。その声色だけで、隆弘の機嫌が悪いことが分かって内心百合はため息をついた。
隆弘は、リビングのソファに寝そべってテレビを見ていた。
「今日は出かけてなかったんだ?」
隆弘は返事をせずにテレビを見続ける。聞こえなかったわけではない。無視だ。自分の意に反して旅行に出かけたこと、週末に自分ひとりだったことをまだ根に持っているのだ。
百合の胸の辺りが重たくきゅうっとなるのを感じる。
部屋を見渡すと、恐ろしく荒れ果てていた。
カップラーメンや弁当がら、ビールの空き缶がダイニングテーブルに放置されている。洋服は脱ぎ散らかしたまま、床に散らばったりソファにひっかかったりしていた。
たった数日家を空けただけでこうもなるものだろうか?
「部屋、散らかってるね。出かけてないなら片づけておいてよ」
「はぁ?どうして俺が? 週末に勝手に旅行を楽しんで家事ができなかったのはお前だろ」
隆弘が起き上がって百合を睨む。
メガネの奥のナイフのような目つきに、瞬間的にごめんなさいという言葉が出そうになる。
しかし、思いとどまった。
決めたのだ。もう言いたいことを飲み込まない。隆弘の機嫌を取らない。百合は、自分の本当の望みに気付いたのだ。
「隆弘、おかしいよ。私は休日に自由に過ごしてはいけないの? 共働きなんだし、その時にできる方がやればいいじゃない。いつから私の役割だってことになったの?」
「お前の仕事とお前の仕事を一緒にするな! 俺は弁護士だぞ!? お前なんかのやってる誰でもできる仕事とは価値が違うんだよ。その分、お前が家事をして不足分を補うのが当然だろうが!」
「……どうして私の仕事があなたの仕事より劣るっていうの? そりゃ私は普通の民間企業勤務だけど、大好きな仕事なの。あなたの言う価値ってなんなの?」
「そんなこと、はっきり言わなきゃわかんないのかよ。年収、社会的な地位、何もかも違うだろうが!」
百合は少しの間目を閉じた。
「……うん、そうね。私も、そう思って疑わなかった。だから、あなたとの結婚は私の誇りだった。あなたと結婚したことで、私は理想の未来を手に入れたと思っていたのよ。でも、違った。こんなの私の幸せじゃない」
「なんだと?」
珍しくはっきりと言い切った百合に、隆弘は少し焦ったような表情を見せた。百合は、冷たく汗ばむ自身の手のひらをぎゅっと握って、意を決して言った。
「私は、あなたの従順な部下じゃない。これからは、私は自分に嘘をつかないで生きていきます」

明日から入院だと初音から連絡が入ったのは、帰国して一週間後のことだった。メッセージを見てすぐ初音に電話をかける。
「はい、百合ちゃんどうしたの?」
「ううん、ごめんね、明日からなんだって思って。病院は市民病院?」
「そうだよ。病院食は期待できないのが残念だけど」
「あのさ、もし今日忙しくなければ会えない?私、初音の家まで行くから」
「え、でも百合ちゃん家から遠いでしょ?」
「うん……私ね、今実家にいるの。だから丈夫なの」
「えっそうなの? 帰省?」
「ううん、違う。多分しばらくこっちにいると思う。その話、したいんだ。旅行中ずっと言えなかったけど、初音に聞いてほしい」
「……うん。分かった。会おう。何時でもいいよ。待ってるね」
電話を切って空を見上げた。
初音との旅に背中を押されて、百合は一歩を踏み出した。
本当は怖い。これからどんなことが起こるか、周りはどんな反応をするか。
実家に戻ってから幾度目かの弱気の虫が顔を出し、目を閉じた。こういう時は、目に焼き付けたあの星空を思い出したらいい。生きるということの力強さを見せてくれたあの星空を。
私も初音も大丈夫。私達の価値は何も変わっていないし、恐れることは何もない――。
百合は、既に懐かしい彼の地に思いを馳せ、よしっと小さく呟いた。


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