歴史的有名人のあの人は本当に偉人だったのか?
先日、テレビで米津玄師の『Lemon』に関する特集があった。
米津玄師さんのこともLemonもあんまり知らなくて大変恐縮だが、あの曲は愛する人との死別を歌った曲だとか?
なぜレモンだったかというと、米津さん本人が、
「理由は自分でも分からないが、どうしてもレモンではなければならなかった」
とその番組では言っていた。
それに対して街の人達にレモンである理由をインタビューして回っていたのだが……。
いや、理由は自分でも分からないって米津さん言うとるやんと思いつつ、インタビュー内容を聞いてみた。
20歳くらいの女性
「レモンって、『酸っぱい』と明らかに記憶に残る味わいの果物。他の果物ではそうはいかない。だから、死別の痛みとリンクしたのではないか?」
うん、確かに。痛みとリンクするような味覚の食べ物って早々ない。直感的にそれがレモンだった可能性はあるよね。
そしてもう1人、同じく20代の女性の回答が秀逸だった。
「私はアメリカで暮らしていたので知っているんですが、レモンって『欠陥品』という意味があるんです。大事な人を失った自分は欠陥品だ…と、そんな意味があるんじゃないかなぁ」
すごい!!!
自分の知識を考察に活かせるその豊かな想像力!!!
スタジオの加藤浩次も感心していた。
でもさ、米津さん、
理由は自分でも分からないって言ってたじゃん?
アーティストというものは、深い理由付けや解釈なんてしない生き物だと私は思っている。
そう感じたからそう表現した。
それが全てだと思うのだ。
でも、外野はとかく意味付けや作品の解釈に必死になる。
どの意見も尊重されるべき大事な一説だと思うが、
問題なのは、他人が考えたその一説が、まるで正解かのように独り歩きしてしまう可能性だ。
解釈をした本人にしてもそれを聞いた他人にしても、もっともらしい答えを聞いてしまえば、それが正しいのだと思ってしまうことはよくある話ではないだろうか?
例えば、私はフリーメイソンを研究したくてとある人の著書を読んだ。
それは、坂本龍馬がフリーメイソンであったのでは?という持論を説いた本だ。
私はそれを読んで、「なるほど!龍馬はフリーメイソンだったんだな!」と安易に信じたw 裏付けもそれっぽく示されていたし、何より著者の自信に溢れた物言いは、きっと真実なのであろうと読み手に思わせるパワーがあった。
でも、よくよく考えればそれだって、その著者のただの一つの解釈にしか過ぎない。しかも、今思えばファンタジーな妄想も少なからず入ってるような気がした。論拠となるデータだって、その人が見たいように解釈すればいくらでもそのように説明できる。
後に著者のことを調べたら、本業は個人投資家だったしw
歴史学者ですらなかったw
それでも、読んでその人の持論に触れてしまえば、そうなのかもしれない!と簡単に思ってしまうものだ。
こうやって、この世の中の物事は真実からどんどん逸れている可能性があるなぁとふと思ったのだ。
冒頭の米津玄師さんの話でいれば、彼は存命だし自分の口から真実を話すこともできるけど、歴史上の人物に関しては、二度と本人から真実を聞くことはできないからね。
ちなみに、私は大学時代にフランス文学を専攻しており、卒論でランボーという詩人を研究して発表した。
ランボーという詩人は、その少し後の時代のフランスの芸術家や思想家にものすごく評価されていた。
何が評価されていたのかというと、ランボーの持論として、
という、当時としては革命的な考えを持った人であり、それが彼を天才詩人と言わしめた。
私も、そんなメチャクチャな人が書く詩ってどんなのだろう?という興味からランボーを研究し、
ランボーの詩の中に見る狂気っていうようなテーマで卒論を書いたんだったか?もう20年近く前のことなので忘れてしまったが。
何が言いたいかというと、私も自分の好奇心やこうであったら面白いだろうという願望を研究の中に注いでしまい、ずいぶん独りよがりな分析をしたと思う。
ランボーの生い立ちから考えて彼はこんな性格で、こんなところで狂気性が発揮され、詩の中のこの一文が特にうんたらかんたらと…。
学生の卒論なんてそんなもんだと思うが、ランボーがそれを見てたらこう突っ込みを入れるんではないだろうか?
「いや、ちょw ごめん全然違うんだけど」
案外、本人に真実を語らせたら、
お酒飲んだノリでそれっぽいこと書いてみた(テヘ)
くらい軽いものなのかもしれないよね。
歴史的有名人を有名人にしたのはいつの時代だって外野である私たち。
だから、一般人の私たちが何か適当にでも作品を書いておけば、後世になぜかそれが評価されて教科書に載っちゃったりするかもしれない。
案外、そんなもんなのかもしれないと、米津玄師のLemonから思ったのだった。
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