星の大地に沈む 1/2

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日曜の午後三時。百合はソファの上に山積みになった洗濯物を一つずつ畳みながら、リモコンをテレビに向ける。
ゴルフ、競馬、昔のドラマの再放送。この時間の番組はどれもつまらない。軽くため息をついてテレビを消す。辺りは静寂に包まれた。
夫の隆弘は出かけている。友人の誘いで何かのセミナーに参加しているようだ。壺でも買わされないか少し心配したが、頭のいい彼に限ってそれはないだろう。
それにしても、まだ五月だというのに西日が真夏のように暑い。
タワーマンションの35階。南向きリビング。
ここを購入した時は、日差しのぬくもりに抱かれながらうたた寝する休日を夢見たが、実際はそんなにいいものではなかった。明るすぎるし暑すぎる。結局カーテンを閉めないと、とてもじゃないが午後を乗り切れない。
隆弘は5時には戻ってくるだろう。今日の夕飯は何にしよう。 
百合はスマホを手に取ってメニューを考えようとしたが、すぐにやめてソファにごろんと横になる。
面倒くさい。ただでさえやる気の出ない時間帯な上に、この暑さ。大体にして、百合は料理が好きではない。
何もかも投げ出したい衝動に駆られ、百合は目を閉じる。
ピコン。
ローテーブルの上のスマホが音を立てる。メッセージアプリの通知音だ。隆弘だろうか。
百合は手を伸ばしてスマホを確認し、思わずあれっと呟いた。
学生時代からの親友の初音からだった。
親友――百合は今でもそう思っているが、実際初音と最後に会ったのは五年前、百合の結婚式の時だ。メッセージのやりとりは年に数回、季節の挨拶がてら交わしていたが、それも最近は途絶えがちになっていた。
しかし、まぁ大人になった女性の友人関係などそんなものだろう。三十五歳。お互いに築いてきた世界があり、それぞれの生活がある。
その初音からのメッセージを一瞥し、百合は顔を曇らせた。
「二人で旅した色んな国の写真を見返しています。あの時はすごく楽しかったね」
送られてきたのは、たったこれだけのメッセージ。
しかし、百合は知っていた。精神的に脆いところのある初音が感傷に浸る時は、必ず何かを抱えている時だということに。
胸騒ぎを覚えた百合は、慌てて初音に電話をかける。三コール目で繋がった。
「……はい」
「初音? 久しぶり! 百合だよ」
スマホ越しの初音の声は、やはりどこか元気のない気がした。
「どうしたの?あんなメッセージを急に。……何かあった?」
「あぁ、ごめんね。写真をね、ちょうど整理してたところなの。あちこち行ったんだなぁって感慨に浸っちゃってつい。……幸せだったなぁ。私達の知らない広い世界がそこにあって、まるで魔法の国にでも連れていかれたような気分だった」
初音が何かを噛みしめるように呟く。
「……初音、何かあった?」
「……」
「もしかして恋愛の悩み!? ちょっと、聞かせてよー」
百合はあえて能天気な態度を取る。
「違うよ。恋愛は、今は特にいいや」
「じゃあ、仕事の悩み? 今何してるんだっけ?」
「ガンになった」
「え?」
「乳ガン。ステージ1だって。まだ初期の状態だけど、来月手術することになったの」
百合は口を開けたまま、言葉を失った。
まさか、そんな話が初音から出てくるとは少しも想像していなかった。
「まさかだよね。まだ三十代なのに、自分がガンになるなんて。ごめんね、久しぶりの連絡でこんな話をして。でも大丈夫。治ったらまた連絡するね」
初音はそう言うと一方的に電話を切った。呆然としたまま、 百合はスマホを耳に当てた手をゆるゆると下げる。
ガン。あの初音が。
おもむろに立ち上がって寝室へ行き、ウォークインクローゼットにある衣装ケースを一つ引っ張り出した。
独身時代の物が雑多に詰め込まれている。
マンガ、文庫本、卒業アルバム。そしてその中に、写真店でもらえる
無料のアルバムがいくつか収められていた。
ページをめくると、頬がパンと張り出した若かりし百合が満面の笑みを浮かべている。
大学二年生で周遊したヨーロッパ。次の年は中東。大学最後の夏休みのニューヨーク,卒業旅行にはアジア周遊。
あらゆる写真の百合の隣には、同じく笑顔の初音がいる。
写真を見るまでそんなことすら忘れていた。十数年の月日は、衰えるには早いけれども、昔の自分を忘れてしまうには十分だった。
感傷に浸りながらアルバムのページをめくり、あるページで手が止まった。
見渡す限り地平線が続く、緑と茶色が溶け合った大地の真ん中で大の字になって寝ころぶ二人。ここはどこだっけ?
ページをさらにめくり、大きな丸いテントの前で老婆と写った写真を見て思い出す。
――モンゴルだ。
一度思い出すと、その旅のシーンは走馬灯のように百合の頭に次々と現れる。世界中の若者と語り合ったウランバートル市内のドミトリー。食事に飽きて通った日本食のレストラン。心を通わせた遊牧民の家族。
そしてあの。あの息もできないくらいの、むせかえるほどの星空。
思い出すだけで眩暈がする。
あの時、空と自分の輪郭が曖昧になって、なにか神託のようなものを受けたような気がした。あれは一体なんだったか? あんなに深い感動を覚えた出来事だったのに、もう思い出せない。写真を見てもダメだ。あれは、その場で体感することでしか受け取ることのできないものだった。
もう一度行きたい。ふと心の中をよぎった。
今の初音に必要なのはこれだと、直感的に思った。百合はそのままの勢いでスマホを操作し、耳に当てる。
「――はい。どうしたの? 百合ちゃん?」
「初音。あのさ――」


成田空港のロビーで赤いスーツケースにもたれて待っている間、にわかに緊張している自分に気づいていた。
あれから電話やメッセージのやりとりで連絡は頻繁に取っていたが、会うのは五年前の百合の結婚式以来のことだ。
もしも、取り繕えないくらい人相が変わってしまっていたら?
もしも――。
「百合ちゃん?」
頭上から声をかけられてハッとする。
「初音!」
5年前と少しも変わらない初音がそこにいた。
白く、ふくふくした頬、緩いパーマをかけたボブヘア、Tシャツに麻のサロペットを着ている。不自然に痩せたり、顔色が悪かったりという所見は特になかった。
百合は内心でホッとする。
「久しぶり! 百合ちゃん全然変わってないね!結婚式以来だよね?」
「うん、そう。初音も全然変わってないね」
「だといいんだけど。あー、空港も久しぶり。昔を思い出すね。ワクワクしてきた!」
初音の目尻の下がった笑顔を見て百合も少しずつ気持ちが上向く。 
そうだった。まだ始まってもいない、終わってもいない、期待だけが存在する出発前の特別な時間。この時間が百合は一番好きだった。
日本からモンゴルまでは、直行便でおよそ五時間の道のりだ。
時差はちょうど一時間、ウランバートル到着は夕方の予定だった。
「もう十三年前か。あの時は夜行列車で中国から入国したんだよね?」
「そうそう、昼間暑かったのに、夜あんなに冷えるなんて知らなかったから、私本気で凍死するかと思ったよ」
「百合ちゃん、寝台ですごい縮こまってたよね。あの時は無茶な旅も楽しめたけど、悲しいかな、今はもうそんな体力ありませーん」
窓際席の初音はくすくすと笑って窓の外を見る。
既に地上を遠く離れ、眼下に見えるのは白くもやもやとした雲の海だった。
「百合ちゃん、忙しいのにお休み取るの大丈夫だった?」
「うん、平気。二日しか休んでないし、大したことないよ。むしろごめんね、もうちょっと長く休み取れればよかったんだけど」
土日を合わせてたった三泊四日の旅だ。
学生の頃だったら、最低一週間は滞在していたのに。
「ううん、そんな。ほら、もうあの頃とは違うから、あんまり長いこと旅行するのも疲れちゃうから」
「あ……そうだよね。初音、体調は大丈夫? 何か気を付けた方がいいことはある?」
「ううん、何にもないよ。まだ自覚症状も何もないくらいの小さなしこりだったから。ガンになるには若いから手術を急ぐけど、それまでは普段通りの生活をしていいし、入院も一週間くらいなんだよ」
あの電話の時と比べ、初音はずいぶんと元気を取り戻したように見えた。
「そうなんだ。なら安心したよ」
良かった――そう言おうとしたが、それはいささか無神経のように感じられた。
「初音、アルバイトしてるって言ってたよね? 何してるの?」
「うん、今ね、鎌倉の雑貨屋さんで働いてるんだけど、作ったアクセサリーを置いてもらってるの」
初音の顔がほころぶ。
「そうだ。初音アクセサリー作ってたよね。すごい、売ってるの?」
初音は昔から母親の影響で手芸全般が得意だった。
学生時代は縫物や編み物、社会人になってからは本格的になって、パールやスワロフスキーなどを使った、大人の女性が好みそうなデザインのアクセサリー作りにのめり込んでいた。
「まだまだ、売上は月に数万くらいなんだけどね。でも、もともとそんなに贅沢しないし、実家暮らしだから何とかなってるよ。……この先結婚するかどうかも分からないし、一人なら何とか生きていけるかな」
最後にボソッと初音が呟く。特に悲壮感を漂わせているわけではない。しかし、その言葉は百合を黙らせるだけの威力があった。
「百合ちゃん、今回の旅行は旦那さんは大丈夫だった?」
「ん? 全然平気!」
本当は、少し大変だった。 
隆弘は、百合が彼を置いて出かけることを嫌がる。週末は隆弘自身が仕事や用事で出かけてしまうことも多く、それに合わせて友人とでランチや買い物するくらいはできていたが、旅行はたとえ一泊であっても難しかった。結婚してから今まで、一人で実家に泊まったことすらない。
しかし、この旅行は百合にとってどうしても大事だった。だから、今回だけは諦めるつもりはなかったのだ。
「いいなぁ、愛されてるなー。お仕事と家庭の両立はどう? 私、結局会社員は脱落しちゃったけど、百合ちゃんには今でも憧れてるんだよ」
初音は新卒で働いていた電子機器メーカーの営業を二年で辞めて以降、フルタイムの会社員からは遠ざかっていた。
就活をしている時から違和感があったのだと言う。都会の無機質な高層ビルで働く自分の姿に。ありたい姿とのギャップに。
初音がすぐ会社を辞めたことに、百合は驚かなかった。都心まで二時間という神奈川県の郊外でのんびりと育った百合と初音。百合は東京への進学を機に都会の面白さに慣れたが、初音は一貫して地元にこだわった。初音の喜びは、自分が育った緑溢れる静かな街でゆっくり穏やかな生活をすることだった。百合が大学生になって初音に再会したのも、当時初音がアルバイトしていた地元のカフェだった。
いわゆるバリキャリ街道を歩む百合と、全く逆の暮らしを追い求める初音。
会社でボケっと長い爪を眺めている若い女子社員は軽蔑するが、同じくらいのんびりしている初音のことは尊重するし認めている。
「私なんて別に羨ましくもなんともないよ。ただ、ずっと同じ会社で働いているだけだもん」
「だけって。百合ちゃんは会社で評価されて、人望だって厚かったじゃない。大体、続けることだって、百合ちゃんが思っている以上に簡単なことじゃないんだよー」
初音の励まし言葉も、どこか心に響かない。今、仕事はそれほどうまくいっていなかった。
「ありがと。元気出た。これだけ長く働いていると、自分の存在意義がたまにわかんなくなっちゃうからさ」
会話が途切れる。
初音は再び窓の外に顔を向けた。昔の思い出に浸っているのかもしれないし、これからの自分の人生について考えているのかもしれなかった。初音のぼんやりとした表情から、何となく後者のように思えた。
初音には、気持ちを整理する時間が必要だ。
百合にしても、それは同じだった。
日常から離れ、社会や家庭からのしがらみから解放され、性別からも属性からも解放されて、ただ自然に野ざらしにされたい気分だった。

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チンギスハーン国際空港に着いたのは、現地時間午後四時前。
まだ屋内にいるにも関わらず、日本よりもぐっと気温が下がっているのを感じる。この分だと、大草原で迎える夜は氷点下近くまでいくのではないか。
空港内は人気もまばらで閑散としている。到着ロビーから出口を抜けてみると、すぐ目の前に高速バスが止まっていた。
バスの電光掲示板には英語での行き先が表示されていた。
ウランバートル市内行き。
建物がほとんどない平野ばかりの道程を経て、三十分ほどでバスは終点である市内のバスターミナルへたどり着いた。
市内の様子は十三年前に訪れた時とそれほど変化がない。乾いて埃っぽい空気に、古い建物群。以前よりは近代的な建物も増えたが、広い大地に高層ビルの類はまばらだ。少し遠くを見ればなだらかな山が四方を囲んでいる。ウランバートルは、モンゴルの広大な大地にぎゅっと凝縮された街なのだと分かる。
今日は市内の四つ星ホテルをあらかじめ予約していた。地図を見るまでもなく場所が分かる、大通り沿いの一際大きく新しい建物。
チンギスハーンの肖像画が大きく飾られた、大理石の床の輝くロビーが眩しい。
百合達の知っているモンゴルには似つかわしくない、都会の雰囲気だ。
「何だか落ち着かないけど、もう私達だってアラフォーなんだから、昔みたいにドミトリーに泊まるわけにもいかないじゃない? 」
部屋も豪奢だった。ふかふかの大きなベッドに、クラシックな調度品。部屋自体もそれなりに広めで快適に過ごせそうだった。
十三年前は、確か街外れの治安の良くない地域にある小さなドミトリーに宿泊した。二段ベッドが二つ置かれた相部屋で、リネン類が何となく湿って清潔でなかったのを覚えている。
「あの時のことを思いだすと、何だか戸惑っちゃうわね。同じ場所に来たとは思えない」
「本当にね」
いかにも金のない学生旅行者が泊まるような場所だったが、各国の若者とリビングで交流したのは良い思い出だった。
しばらく所在なげにしていた二人だったが、ホテルのレストランで食事を取り、シャワーを浴びてベッドに横になると、あっという間に眠りに落ちた。

翌日は雲一つない晴れ。とは言っても、モンゴルで雨が降るのは一年の中でもたった数日と言われている。
乾いた五月の空気は肌寒いくらい爽やかで、十分に睡眠を取った百合と初音の気分はすこぶる良かった。
百合はボーダーの長袖カットソーにデニム姿。初音はフードの付いたプルオーバーとデニムという軽装だ。
しかし、防寒着はしっかりと手荷物の中に入れている。今日は街を少し散策してからすぐに高原地帯に向かう予定だったからだ。
「うーん、街並みはあの頃と変わったような変わっていないような」
「高層ビルは多少増えたけどね。そんなに劇的に変わった感じもしないよね。あの時はスマホもなかったし、写真はデジカメで撮ってたからなぁ。比べられなくて残念」
街の様子は変わったようには見えないのに、テクノロジーは十数年の間にずいぶんと進化した。それは、百合達の心と身体を象徴しているように思えた。
気持ちは何一つ変わっていないのに、年を追うごとに成熟し、老化していく身体――。初音のガンは一体いつから始まっていたのだろうか。
「おばさん、元気? 初音の実家に最後にお邪魔したの、もう十年くらい前だよね」
高原地帯へ向かうためにチャーターした車中で、都市部を離れてすぐに見えてきた広大な平原に早々に飽き、百合は初音に尋ねた。
「うん、元気だよ。でも持病のヘルニアが少し悪化しててね。パートもできないし、日常生活もちょっと大変なの」
「えっそうだったの? そっか、それは大変だね」
「うん、まぁ命に関わるような病気じゃないからよかったけどね。お母さんが動けない分、私が家のことを結構やってるから、いい歳して実家暮らししてても肩身狭くないのもラッキーポイントだよ」
初音がいたずらっぽい笑顔で笑う。
「……病気のことは、家族には言ってるんだよね?」
「うん。さすがに入院手術があるから言わないわけにもいかなくて。言いたくなかったけどね。やっぱり悲しませちゃったよ」
「心配してるだけよ。それは悲しませるとは違う」
そう言ったものの、初音の気持ちは痛いほど分かる。
若くして大病をする。辛いのはもちろん自分だが、その事実が両親を大きく傷つけることが何より堪えるものだ。
「手術後は、すぐ日常生活に戻れるの?」
「うん、入院自体は一週間だから、体力がもとに戻ったら普通の生活をしていいって。術後はしばらく薬物治療になるけどね。百合ちゃん、ごめんね心配させちゃって。お医者さんからは、まだまだ初期で見つかってるから心配いらないって言われてるんだ。ちゃんと治療を続ければ普通の人と同じように長生きできるからって」
初音は唇を笑みの形にして言った。
良かった。その一言が言えなかった。初音はどう見ても笑っていない。
「……治療もね、本当に初期だから、乳房温存手術っていうのができるの。完全に全部なくなっちゃうのかと思ってたからホッとした。でも、やっぱり傷一つつかないってわけにはいかないって。やっぱり手術の痕は残ってしまうって。それから、薬物治療をしている間は妊娠はできないって。結婚もしてないし、そんなこと気にするのはおかしいかもしれないけど、私は子供を持つことができないかもしれないんだなぁって思ったら、なんか」
初音は言葉を切った。
泣いてはいなかったが、その表情はあまりに空虚だった。
「おかしくないよ。女性として生まれてきたんだもん。気になって当然のことよ」
「百合ちゃん、結婚ってどう?」
「え?」
突然投げかけられた言葉に、百合は言葉を詰まらせた。
「結婚。予定も全然なかったけど、憧れてはいるんだよ。誰かのために食事を作ったり、楽しいことも辛いことも共有して乗り越える。そういう相手が私もいつかほしかった。そんなにいいものじゃないよってみんな言うけど、それでも羨ましいんだ。百合ちゃんは結婚生活幸せ?」
幸せだと即答できない自分に、百合自身が驚愕した。
私、結婚して幸せ――?
幸せでないはずがない。
高収入の夫、東京湾が一望できる都心のタワーマンション、会社というもう一つの居場所、豊かな暮らし。
百合は自分の結婚生活を思い返した。
新婚の頃は楽しかった。毎週末二人でどこかに出かけたり、帰りの遅い隆弘のために食事を作って待つ日々も苦ではなかった。結婚生活とは、恋人関係の延長線上にあるものだと信じていた頃だ。
しかし、決してそれだけで終わらないのもまた結婚だ。
親族との関係、家庭のあるべき姿、妻としての立場、仕事との両立。そういったしがらみに煩わされることが年々増えて、辛くなることがあるのも事実だった。
「う……ん。そうね、確かに結婚はキレイごとじゃないとは思う。でも、いいものだと思うよ」
結婚をして安心できたことは多々ある。一人の女として認められたような、自分は無価値ではないという安心感。それは、三十歳を迎えたほとんどの女達にとって大きな関心事ではないだろうか。そこを早々にクリアできた百合は、結婚というイベントに十分満足をしている。
「そっか。いいなあ。子供は無理かもしれないけど、そんなパートナーが私にもできるかな」
「絶対できるよ。病気だってこんなに早く見つかったんだから。退院したら、これまでとほとんど同じように生活できるのよ。恋愛だってまたできる」
「うん、そうだね……。ありがとう」
初音は寂しそうに笑い、そのまま黙って窓の外に目線を移した。
今はどんなに言葉を尽くしても初音を元気づけることができない。
百合は無力感に目を伏せた。

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