夢幻鉄道 ~ワンダーランドへ愛を込めて~
お姉ちゃんがキライだ。
お姉ちゃんがいるから、私は不幸だ。
ピーピーという電子音だけが鳴る部屋で、私はベッドに横たわる青白い顔を無表情で見下ろす。
今日だってここになんか来たくなかったのに、イヤだと言う権利は私にはない。海外出張でいないお父さんのことが心底羨ましかった。
本当は、この人のことを姉だと思ったこともない。
だって、動かないし喋らないのだから。
今年で15のはずなのに、11才の私と同じくらいの大きさに見えるお姉ちゃん。
手も足も顔もぜんぶ白くて、筋肉がなくてひょろひょろしてる。
お姉ちゃんは、私が生まれる前からずっとここで眠っていて、それから一度も目覚めたことはない。もう10年になる。
それなのに、お母さんは毎週末ここに来ては、お姉ちゃんの手を握って話しかける。
「ナナ。あなたが好きだったお庭の紫陽花、とってもキレイに咲いているわよ。見せてあげたいなぁ。もうそろそろ起きてもいいんだよ」
私は、それをお姉ちゃんの反対隣から冷たく見つめる。
もういい加減諦めればいいのに――。
私はお姉ちゃんに話しかけたことは一度もない。
これからも絶対にすることはない。
◇◇◇◇
「お母さん、今年の夏休みは沖縄行こうよ!ユミちゃんち、GWで沖縄行ってすごくよかったって! いっつも近場ばかりだし、たまには遠くに行こう?」
「お姉ちゃんがいるから、あんまり遠くへは行けないでしょ? 夏休みはまたおばあちゃんのところへ行こう」
「えぇー? おばあちゃんのところはもう飽きたよ。それに、お姉ちゃんはずっと寝てるだけなんだから、別にしょっちゅう行かなくたっていいでしょ?」
「そんなこと言わないで。お姉ちゃんがかわいそうよ。一人ぼっちになっちゃうわ」
「……じゃあ、私はどうなるの? お父さんもお母さんもお姉ちゃんのことばっかり。私がひとりぼっちなのはどうでもいいの?」
「ミナ……。あのね、お姉ちゃんは4歳の頃からずっと寝たきりなの。楽しい思い出も作ってあげられなかったし、お母さんは……」
「もういい!」
「ミナ!」
◇◇◇◇
ただ呼吸をしているだけの人形みたいなお姉ちゃん。
そんなお姉ちゃんに与えられたバカみたいに高い病院の個室も、天井に貼られた能天気な青空と雲の絵も、何もかもが大キライ。
お母さんと担当の先生が、部屋の外で話しているのを盗み聞きする。
「容態は特に変わらず……今後目覚める可能性もないわけでは……菜々さんの生命力次第です……」
私はそれを鼻で笑って、お姉ちゃんの脇に置いてあるベッドサイドモニターを見る。
お姉ちゃんの心臓の鼓動を示す波形と音は、どこまでも規則正しい。
「お姉ちゃん。聴こえる? 聴こえないよね。もう、いいんじゃない?」
私はお姉ちゃんの耳元で悪魔のようにささやく。
「私はずっとお姉ちゃんのせいでガマンしてるんだよ。お父さんとお母さん、そろそろ私に返してよ」
そんな残酷なセリフを妹の私に吐かれてもなお、お姉ちゃんはピクリとも動かなかった。
夕方になり先に帰るように言われた私は、何となくまっすぐ帰宅する気になれなかった。
まだ外が明るいのをいいことに、病院の敷地を散歩する。
病院の裏手は森になっていて、初夏の今、視界いっぱいに広がる絵の具の原色みたいな緑色がキレイだ。ベンチに座ってぼーっとそれを眺めている人もいる。
すーっと鼻を通る爽やかな森の匂いに惹かれた私は、病院と森を隔てる柵を飛び超えて森の中へと入る。
西日が木々の間から差し込んでいて、まだそんなに暗くない。
迷わないように背後を気にしながら森の奥へ入っていくと、視界の向こうに何かが見えてきた。
木々の間に見える黒く長い――何だろう?
正体を掴みたくて、早歩きで近づく。
すると、目の前には不思議な光景が広がっていた。
不規則に生い茂る木々の中に、絵本で見たような黒い列車が静かに止まっていた。
もっと驚いたのは、列車の足元には線路が敷かれていて、これだけたくさん生えている木が線路の周りにだけは一本もないことだった。
おかげで、森の向こうに伸びている線路は一本の道のように見える。
これは一体何だろう? 何かイベントで使うもの? でもこんな場所で?
列車の扉は開いていたので、私は軽い気持ちで中に入った。
青い座席が何列も並んでいる車内。
もちろん、人は誰も乗っていない。やっぱり病院の催しか何かで使うのかもしれない。
私は誰も来ないのをいいことに、座席の一つに腰掛けてみる。
窓から見える森の緑をぼーっと眺め、気が付いたらうたた寝してしまっていたようだった。
「あ、いけない。早く帰らなきゃ……えっ!?」
私は慌てて飛び起きる。
列車が――動いている!?
カタンカタン……カタンカタン
線路を走る規則正しい音が車内に響き、私は焦った。
「す、すみません、降ります!あの!誰か!」
車内を走り回って車掌さんを探したけれど、先頭にも最後尾にも誰も見当たらない。今この列車に乗っているのは、私だけのようだった。
「どうしよう……この列車はどこに行くの?」
列車はひたすら森の中を走る。緑のトンネルをくぐっているみたいに、木々の間をどんどんすり抜けていく。
この森はこんなに大きかっただろうか?
いつまで経っても終わらない緑色の景色にイライラと焦りを感じていると、やがて目の前から強い光が差し込んでくる。
「わっ!」
あまりの眩しさに、私は思わず顔を両手で覆った。
列車は徐々にスピードを落とし、カタンカタンと列車が線路を踏む音も間隔が開いてきた。
キキィーーーーッ
完全に列車がストップしたのが分かると、私はゆっくり手をおろして顔を上げる。
『ワンダーランド前駅。ワンダーランド前駅。お降りの際は、足元にご注意ください』
確かに誰もいなかったと思ったのに、車内にはそんなアナウンスが流れてきた。
聞いたことのない駅名に、私は不安になって列車を降りる。
「え……?」
自分の目を疑った。
駅のホームと改札口だけの小さな駅に降り立って周りを見渡すと、確かにそこにはワンダーランドと呼べる光景が広がっていた。
おもちゃのようなお城に、カラフルな観覧車。コーヒーカップがくるくると回っている。あちこちにはキレイなお花が咲いた花壇があって、歩道の側に植えられている木はハートの形に整えられている。
驚いたことに、空がピンク色をしている。
水彩絵の具を薄く溶かしたみたいな薄ピンクの空がどこまでも広がっているのだ。これは一体なんだろう。
遊園地なんだろうけど、何だかとてもそうとは思えない、不思議な世界を見ている気分だ。
私は半分確信していた。あの列車に乗って、私はどこか遠い世界へ来てしまったのだと。
90%の不安と10%のワクワクを胸に、私は虹の形をしたワンダーランドと書かれた門をくぐる。
園内には陽気な音楽が流れ、アトラクションも動いているけれど、辺りに人影は見えなかった。
とにかく誰かに会って何かを聞きたかった私は(何を聞けばよいのかも分からないけれど……)、園内をどんどん進む。
ポッポーとかわいい音を立てるミニSL列車のコーナーを通り過ぎ、無人のクレープ屋を左に曲がると、キラキラに飾られたメリーゴーランドが見えてきた。
その時。
小さな子供が、そのメリーゴーランドからパッと姿を現して駆け出してきた。
そしてその勢いのまま、何かにつまづいたか派手に転ぶ。
「あっ!」
私は思わず子供に駆け寄って抱き起こした。
細くて柔らかい髪の毛を二つ結びにした女の子だった。まだ幼稚園児くらいだろう。
「大丈夫?」
「うん、だいじょうぶ。おねえちゃんはだぁれ?どうやってここに来たの?」
「えっと、列車に乗って……」
「へぇ。ここにきた人はじめてみたよ。ワンダーランドにはいつもあたしとお父さんとお母さんしかいなかったから」
「え? そうなの?」
「ナナ―!」
私が女の子と話していると、女の子の背後からこちらへ向かってくる2人の人影があった。男の人と女の人。この子の両親だろうか。ていうか、ナナって――。
「ナナ! ダメじゃない! 勝手にどこかへ行っちゃ! 」
ナナと呼ばれた女の子に話しかける女の人を見て、私は驚いた。
「「お母さん!」」
私と女の子の声がかぶる。
「えっ!?」
「おねえちゃん、これはナナのお母さんだよ!」
女の子はムッとした表情で言った。
でも、だって。
目の前で困った顔をしているパンダみたいなたれ目をした顔は、どう見たって私のお母さんだ。
じゃあ、ナナって呼ばれているこの子は――。
「……お姉ちゃんなの?」
恐る恐る言うと、女の子は今度はきょとんと不思議そうな顔をした。
「”おねえちゃん”なのはおねえちゃんでしょ?」
何だか言葉遊びみたいになってしまった。
「えっと……」
「ナナはまだ4さいだもん!おねえちゃんじゃないよ!」
4歳。すると、目の前のこの子は、私が生まれる前のお姉ちゃんの姿なのだろうか。
お父さんとお母さんも、私を不思議そうにただ見つめているだけだ。
そういえば、目の前にいるお母さんはよく見れば今よりもずいぶん若い。
一体ここはどこなのだろうか?
私は、あの列車に乗って過去に来てしまったのだろうか?
「ナナちゃん……はここで何をしているの?」
「お父さんさんとお母さんにゆうえんちにつれてきてもらったの!これからかんらんしゃに乗るー!」
お姉ちゃんは笑顔を全開にして飛び跳ねてはしゃぐ。
よっぽど楽しいようだ。
「ねぇ、おねえちゃんも一緒にあそぼうよ!」
「ええっ? 私も?」
「うん、だっておねえちゃんもひとりでいたってつまんないでしょ?」
「あー……。うん、そうだね」
「おねえちゃんのおなまえは?」
「ミナだよ。じゃあ、一緒に遊ぼうか、ナナちゃん」
私は少し考えて、お姉ちゃんの提案に乗ることにした。
年齢は逆転してるけれど、私は今初めて、お姉ちゃんと言葉を交わしているのだ。
「わー!やった! じゃあいこう!」
「ナナったら……。ごめんなさいね、いいの?」
お母さんは遠慮がちに私に聞いた。
「すまないね。疲れたらいつでも言ってくれ」
お父さんも、今よりも目尻のしわがないだけの変わらない笑顔で言う。
2人とも私を娘とは気づいていないから、どんなふうに振舞えばいいのか分からず、ただ小さくうなずくしかなかった。何だか照れくさかった。
お姉ちゃんは、本当に楽しそうに一人できゃーきゃーはしゃぎながら、園内を走り回る。
あれに乗ろうとせがまれて、2人乗りのゴーカートを走らせた。
ゴーカートは得意だ。
昔、私も遊園地に連れていってもらった時に何度も何度も繰り返し乗って、腕を磨いたのだ。
乗り物の好みはお姉ちゃんと似ているらしい。
お客は他にいないから、私達はぶつかることも気にせずドライブを楽しむ。
「ナナちゃん、ナナちゃんには妹はいないの?」
「いないよ?」
「そっか。ナナちゃんは今4歳なんだよね? 体の具合、悪くない? 頭が痛いとか」
お姉ちゃんが寝たきりになってしまったのは、脳にウイルスが入り込んで悪さしたからだとお母さんが言っていたのを思い出す。
「? んーん? ナナはげんきだよ」
「そっか……」
もし、私が過去の時代にいるのなら、お姉ちゃんを救うことができるのかも――。一瞬そんなことを思ってしまった。お姉ちゃんなんて大嫌いなのに。
「ミナちゃん、車うごかすのじょうずだね! ナナもうまくなりたいのに、いっつもほかの車にぶつかっちゃってできないの」
「私もたくさん練習したんだよ。ナナちゃんも、もうちょっと大きくなったら上手になるから大丈夫」
もうちょっと大きくなったら――。
私はハッと気づいて口を閉じる。
お姉ちゃんには普通の未来は来ない。私は遊園地へ連れていってもらえれば何度も何度もゴーカートを練習したけど、お姉ちゃんにその日は訪れない。
そう思ったら、何だかとてもいたたまれない気持ちになってきた。
「ミナちゃんは大人になったらなにになりたい? ナナはプリンセスー」
「うーん、何だろ。ピアノの先生かな。私のお母さんはピアノの先生なんだよ」
「えっ!? そうなの? ナナのお母さんもだよ。いっしょ!いっしょ!」
何がそんなに嬉しいのか、お姉ちゃんは目を丸くして一緒だと喜んでいる。
「ナナちゃん、お父さんとお母さんのこと好き?」
「うん、だいすきだよ! ナナのお父さんとお母さんはせかいいちやさしいんだよ!」
お姉ちゃんは何事にもおおげさにはしゃぐタイプの子供だったようだ。真っ白な顔でベッドで寝ている姿とは大違いで、私は何だか切なくなる。
「ミナちゃんのお父さんとお母さんは? どんな人?」
「……うん、優しいよ。そういえば、ナナちゃんみたいに遊園地にたくさん連れてきてもらった記憶がたくさんあるなぁ」
遠くへはなかなか連れていってもらえなかったし、土日はお姉ちゃんの病院に付き合わされてばかりだったけど。
「ナナちゃんは? 他にどんなところに行ったの?」
「うーん……」
お姉ちゃんは上を見て考え込むような仕草を見せた。
その時。
急に辺りの風景が白黒になった。
そして、カメラのシャッターを切ったみたいに、カシャッカシャっと私達のいる場所が一瞬で変わった。
どこかの小さな公園。動物園。おもちゃがたくさん置いてある部屋。そしてまた元の遊園地に戻る。
今のは一体何だったのだろう。
「ナナ、そろそろおねえさんも疲れちゃうから休憩にしない?」
「お母さん!」
お父さんとお母さんがゴーカートの乗り場まで迎えに来た。
お姉ちゃんは今起きた出来事に何の興味も示さず、2人の方へ駆け寄っていった。
4人でワンダーランドの真ん中にある芝生の広場でお弁当を食べた。
手作りのおにぎりに、からあげと卵焼き。
私の知っているお母さんの定番お弁当メニュー。
味も全く一緒だ。お母さんは、昔からお母さんだったんだ。
「ナナは、あまいたまごやきがすきー!」
お姉ちゃんは卵焼きを指したフォークをぶんぶん振り回して言った。
偶然だね、お姉ちゃん。私も、お母さんの甘い卵焼きが大好きなんだよ。
お弁当を食べてすぐ、お姉ちゃんはお母さんの膝枕で眠ってしまった。さすがにはしゃぎすぎて疲れたらしい。
「ナナと一緒に遊んでくれてありがとう。……ところで、ミナ、ちゃん? あなたは誰? どうやってここに来たの?」
寝ているお姉ちゃんの頭を撫でながら、お母さんが言った。
お父さんも私をじっと見ている。
「私は……森の中に止まっていた列車に乗って、そしたらここに来たの」
「列車?不思議なこともあるものだね。君は気付いていないかもしれないけど、ここはナナの夢の中だよ」
お父さんの言葉に、私は一瞬固まってしまった。
「……夢? 過去じゃなくて?」
「えぇ、夢よ。ナナはずっと夢を見ているの。多分、一番楽しかった思い出の夢。私達はナナの記憶や願いがまぜこぜになった夢の中の住人なの」
ファンタジーでも聞かされているかのような信じられない話に、私は何と返していいか分からなかった。でも、お父さんもお母さんも私にふざけて嘘を言ったりするような人達ではない。
「お姉……ナナちゃんは起きないの?」
「夢は一度も醒めたことがないの。どうしてこんなに長いこと夢を見ているのか、私達にも分からないのよ」
現実には考えられないようなことだけど、私には、何となくピンとくることもあった。
お姉ちゃんが10年間ずっと眠り続けているのと、この夢は何か関係がある――?
「さっき、不思議なことがあったの。急に周りの景色が白黒になって、いきなり違う場所に変わって」
お父さんがうなずいた。
「あぁ、僕達にも見えていたよ。あれは、ナナが頭の中で思い出している風景なんだ。時々僕達の前でもそうすることがある」
「あっ!」
そうだった。あの時、私が遊園地以外にどんなところへ行ったのかお姉ちゃんに聞いて、そしたらあれが起こった。
でも、だとしたら――。
お姉ちゃんが思い出していた光景は、あまりに少ないような気がした。
小さい時のことなんて覚えていないのもあるんだろうけれど、それでも、お姉ちゃんの思い出はとても少ない。当然なのかもしれない。4歳で寝たきりになってしまったのだから。
私はどうだろう。
遊園地には数えきれないほど行った。夏は海やプールにも行ったし、冬は家族でスキーもした。
そしてそんな一年を、10歳の今日まで繰り返し過ごしてきた。
遠くに旅行は行けなかったし、お母さんはいつもお姉ちゃんのことを気にしていたけれど、私は果たして本当に不幸だったのだろうか。
何だか、お母さんに反抗的な態度をとってきた自分がとても恥ずかしくなった。
「あの……」
「なぁに?」
「もしナナちゃんに妹ができたら、お父さんとお母さんは妹のことも好きになりますか? それともナナちゃんが一番ですか?」
私の質問の意味が分からなかったのだろう。
お父さんとお母さんは顔を見合わせて、でも茶化さないで答えてくれた。
「ナナにきょうだいはいないけど、もしも妹ができたら、その子も大切な子よ。どちらが一番なんてない。2人とも全力で愛してあげるわ」
「子供はみんなそれぞれ違う子だからね。順番なんてないんだよ」
お姉ちゃんが起きた。
少しの間眠ったら、だいぶすっきりした顔をしている。
「ミナちゃん! こんどはかんらんしゃ乗ろうよ!」
「ナナ」
お母さんが優しくお姉ちゃんを止めた。
「もうミナちゃんもお父さんとお母さんのところに帰らなくちゃ」
「えーー?」
「ミナちゃん。ナナの夢はこのまま醒めることはないでしょう。このままここにいたら、あなたも夢の中の住人として取り込まれてしまう。早くお帰りなさい」
お母さんの言葉に、私はすぐにうなずくことができなかった。
今、私が現実の世界へ帰ってしまったら、もう二度と動いているお姉ちゃんには会えなくなる気がしたからだ。
「せっかくミナちゃんとなかよくなったのにーー」
「お姉ちゃん……」
どうしよう。どうしたらいいのだろう。もう会えないからもしれないのに、私はこのまま帰ることしかできないの――?
するとその時。
ピンク色の空から、何か音が聞こえてきた。
マイクでしゃべったみたいにエコーがかかった音。というか、声だ。
私は耳を澄ます。
ナナ。ナナ。起きてもいいんだよ。ナナ。
かすかに空から響く声。
これは――病院でお姉ちゃんに話しかけるお母さんの声だ。
「ナナちゃん!聞こえる? この声!」
「んー?」
「ほら、上から声が聞こえるでしょ!ナナ。起きてって!分かる? これはお母さんの声だよ」
お姉ちゃんは困ったように私を見上げる。
「うん……でも、お母さんはそこにいるでしょ。だから、これはお母さんのこえじゃない。ニセモノだよ」
「ナナちゃん、それは……」
「それに、ナナはここでずっとあそんでいたいよ。お空のこえとおはなししちゃったら、ちがうところに行かなきゃいけないような気がするよ」
何てことだろう。
お姉ちゃんは気付いているのだ。
お母さんの声に応えてしまえば、10年の眠りから目が覚めること。
そして、お姉ちゃんはそれを拒否している――。
「ナナちゃんは、ずっとここにいたいの?」
「うん。だって、楽しいもん。お父さんとお母さんとずっといっしょで、たくさん乗りもの乗れるし」
「でも、違うところに行くの、楽しいと思わない? もっともっと色んな思い出が作れるんだよ。それに、私はもう帰らないといけないけど、ナナちゃんがここから出るって決めてくれたら、私達はまた会えるよ。今度こそずっと一緒にいられる」
「ほんとうに?」
お姉ちゃんは目を丸くする。
「うん、本当。だから、今度お空から声が聞こえたら、返事をしてほしいの」
「お父さんとお母さんはいっしょにいけるの?」
「今、ナナちゃんの隣にいるお父さんとお母さんは一緒には行けない。でも、ちゃんと二人ともいるから大丈夫。いつだってナナちゃんの側にいるから」
「やだよ、ひとりで行くのはこわいよ」
お姉ちゃんはなかなか首を縦に振ってくれない。
「……ナナちゃん、ナナちゃんは私のこと好き?」
「うん」
「じゃあ、私がナナちゃんを呼ぶ。それは絶対にニセモノなんかじゃないから。だから、私が呼んだら私に会いに来て。約束だよ?」
お姉ちゃんはまだ不安そうな顔をしていたけど、少し考えて、そしてやっと小さくうなずいた。
私はようやく少しホッとした。あとはお姉ちゃんを信じるだけ。
再び虹の形をしたワンダーランドの門を通り、外に出る。
列車は、あの小さな駅にまだ停車していた。
お姉ちゃんとお父さんとお母さんは、門の内側に留まったまま私を見送る。
「ミナちゃん、また会えるよね?」
「会えるよ。絶対に会えるから、私の声を忘れないでね」
私はお姉ちゃんの目を見つめる。私の願いがお姉ちゃんの心に届きますように。
お母さんが、一歩私の方へ足を踏み出した。
そして、ふわっと軽く私を抱きしめる。
「ミナちゃん。私達はあなたを知らない。でも、誰よりも知っているような気もするの。不思議ね」
「僕達が言ったこと、忘れないでくれ。子供への愛に順番はない。君のお父さんもお母さんも、それは絶対に同じだから」
二人の言葉に、鼻の奥がツンとする。
二人は夢の世界の人達だけど、それでもお父さんはお父さんだし、お母さんはお母さんだ。だから、信じてもいいんだよね――?
列車の警笛が鳴った。そろそろ出発するのだろうか。
「さ、行きなさい」
お母さんに促される。
「ナナちゃん、絶対だよ。約束、覚えててね!」
私は最後にそう言うと、手を振る三人を背に列車へ駆け込んだ。
相変わらず誰もいる気配のない列車は、私が乗り込んだ瞬間にドアが閉まり、カタンカタンと進み始める。
行きに感じていた不安はもうなかった。
それよりも、早く、早く戻りたい。
お姉ちゃんが私の声を忘れてしまう前に、早く。
列車はワンダーランドから遠ざかり、再び森の中を走る。
しばらく周りが緑の世界に包まれ、やがて速度を落として景色がはっきりとしてくる。
キキィ―ッ。耳に響く音を立てて列車は止まった。
外に出ると、そこは私が列車を見つけた森の中だった。
辺りは薄暗くなっていたけれど、まだ陽の光が少し木々の間から差し込んでいる。それほど時間は経っていないようだ。
私は一目散に走った。
早く、早く。
お姉ちゃんが私の声を忘れてしまう前に、早く。
病院へ大急ぎで向かう。
走っている途中、後ろを振り返ってみたら、さっきまでそこにあったはずの黒い列車は、もうどこにもなかった。
「ミナ! どうしたの? 帰ったんじゃなかったの?」
勢いよく個室のドアを開けた私を、お母さんは驚いた顔で見た。
今の今まで、お姉ちゃんに付き添って話しかけていたようだった。
お母さん。お母さんの声、ちゃんとお姉ちゃんに聞こえてたよ。
私もお母さんと反対隣に座り、お姉ちゃんの手を握る。
「お姉ちゃん。――ナナちゃん。聴こえる? ミナだよ。私の声忘れてないよね?」
お姉ちゃんに向かって語りかける私を、お母さんがさらに驚いた表情で見ているのが気配で分かった。
でも、今はそんなことに構っている暇はないの。
「お父さんとお母さんとナナちゃんと私。4人でたくさん楽しい思い出作ろう? 遊園地だけじゃなくて、もっと色んなところに行けるよ。もっと色んなことができるよ。だから、起きて。目を覚まして」
「ミナ……」
ベッドの上でぴくりともしないお姉ちゃんの手を強く握って、私は呼び続ける。
「ナナちゃん、聴こえる?私の声、忘れてないよね?」
お姉ちゃんの返事はない。
お願いお姉ちゃん。私の声に応えて。
いいことばっかり言っちゃったけど、確かに目が覚めたら大変なことも多いと思う。お姉ちゃんの失った月日は取り戻せないし、いきなり15歳の自分の身体を受け入れなければならない気持ちは、私には多分分からない。
でもね。でも。
それでもこっちには私がいる。私がお姉ちゃんを守ってあげられる。
夢の世界は嫌なことなんにもないけど、私はいないでしょう?
「ミナ。何かあったの? あなたがお姉ちゃんに話しかけるなんて、初めてよね?」
お母さんが不思議そうに、でもとても嬉しそうに私を見つめる。
「うん、私、お姉ちゃんに会ったよ。お姉ちゃんの夢の中で。お父さんとお母さんもいた」
「夢の中?」
お母さんは、私が突然おかしなことを言ったものだから、すぐに困った顔になる。
「うん。お姉ちゃんが今見ている夢。お姉ちゃんは病気になる前の4歳の姿で、ワンダーランドって遊園地でお父さんとお母さんと遊んでた」
「ワンダーランド……」
お母さんが何かを思い出そうとするように呟いた。
私は、言おうかどうか少し悩んだけれど、夢の中でお母さんに言われたことを話す。
「夢の中でね。お母さんに言われたよ。私とお姉ちゃん、どちらが一番なんてないって。2人とも全力で愛するんだって。お父さんもお母さんも今よりもずっと若かったし、何だかとっても不思議な世界だったけど、私は多分本当にお姉ちゃんの夢の中に行ってきたんだよ。信じられないかもしれないけど」
「信じるわ」
意外なことに、お母さんは即答した。
「え? 信じてくれるの?」
「ええ。ミナはそんな嘘つかないし、夢の中のお母さんが言ったこと、それは確かにお母さんの言葉だわ。お姉ちゃんとミナに順番なんてない。二人ともお母さんの大事な子よ」
お母さんは微笑む。
それにね、と加える。
「ワンダーランドは本当に行ったことがあるのよ。まだここに越してくる前に、ナナと3人で行ったの」
「お姉ちゃん、多分それがとても楽しかったんだと思う。だから今もずっとワンダーランドにいる」
お母さんはお姉ちゃんの髪の毛をゆっくり撫でて、それから私を見て微笑む。その目にキラキラと光るものがあるのは、涙だろうか。
「ミナはお姉ちゃんと夢の中でおしゃべりしたの?」
「したよ。一緒に遊んだ。お母さんがここで呼ぶ声も、お姉ちゃんにはちゃんと聞こえてる。お姉ちゃん、私に約束してくれたんだ。私がお姉ちゃんを呼ぶのが聞こえたら、目を覚ましてって。だから、これからは私もお姉ちゃんに話しかけるよ」
「ミナ……」
お母さんもお姉ちゃんの手を握った。
私は諦めない。今度の週末にはお父さんも呼んで、家族みんなでお姉ちゃんに話しかけよう。
お姉ちゃんの不安も、家族全員で力を合わせればきっと乗り越えられるから。
お姉ちゃんを挟んで、私はお母さんにあの森の中の列車の話や、夢の世界の出来事を夢中になって話した。お母さんも楽しげに相槌を打つ。
だから、二人とも気付かなかったんだ。
お姉ちゃんのまぶたが、今にも開こうとしていたことに――。
――完――
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