海のおわりは、山のはじまり
海のはじまりは、山のおわり
海のおわりは、山のはじまり
つい数日前、おもいれのあるカフェに、つくったものを置かせてもらっていた。
上の言葉は、カフェの壁にかけた絵の横に置いた言葉だった。
壁に絵をかけると、カフェのマスターに「タイトルは?」ときかれる。
絵に名前をつけていなかったので、うーん、とすこし悩んで、その日は家に帰る。
あくる日、家でさらに何時間か悩んで、思いついた言葉の欠片たちを、いくつかノートに散らかして、カフェに持って行った。
絵の前で、散らばった言葉を並べて、壊しては、もういちど並べて…うーん うーん…ともう数時間、悩んでやっと「これか。」と思えた。
名づけという行為は、けっこう不思議なことだと思う。
そこにすでにある存在に、その存在がこれまで、ともにしてこなかった意味を含んだ言葉が、与えられて、これから寄り添っていくことになる。
私は自分の名にあまり馴染めなくて、いつも名乗る場面で「◯◯、◯◯◯です。」と自分の名を、かなり緊張しながら口にしていた記憶がある。
私という存在と、私の名には、大きな距離がある気がする。
「◯◯ ◯◯◯」「みーちゃん」「みーたん」「◯◯み」「◯◯」「◯◯ちゃん」「◯◯さん」「み◯◯」
人が私を呼ぶときの、言葉だけ取り上げてみても、その多様さ。
「みんみんゼミ」(このあだ名で呼ばれたわけは不明だが、夏のある日だった)
「巨人のドシン」(身長が高いのと、ニンテンドーでこの名のゲームが発売されたことが組合わさった)
「モナリザ」(前髪が似ていたらしい)
「フローレン」(大学の最初だけ入っていたワンゲル部の先輩からワンゲルネームをもらった) などなど…おもしろいね。
絵に名づけたときの話が、点点と転がっていきますな。
ここでは、いろいろと、頭の中でころころ転がっていること、かたちに成りづらいけど一旦とどめておきたいこと、言葉にしてみたいことを、つれづれ書いてみたいと思います。
さいごに、noteをはじめようと思ったきっかけについて。
あまり自分の文章に自信はないし、躊躇して言葉にしないでおくことも多いし、文章を書くって疲れるし、マメでもないし、とこれまで思っていた。
一方、親しい人にあれもこれも話し出して止まらないことがあったり、最近やらないことを意識してみたらやりたいと思うことが以前よりも大幅に少なくなったりして。
そんなとき、私へ会いに、先のカフェをある友人が訪れてくれた。
友人が、カフェに置いていた私の文章を読み、「◯◯さんの言葉って、ブログとかあったら読みたい」と言ってくれる。
私は意外と「ああ、それいいかもなあ」と思って、そこから今日は5日が経つ。
友人と会った席の、すぐ横の、壁にかけていた絵の、隣りに置いていた言葉を、今日この記事の題にする。