先輩、あるいは天使の話
それは一目惚れだった。
見た瞬間、後頭部を強く叩かれたような、頭のてっぺんから雷が落ちてつま先まで抜けるような、衝撃的な─恋に落ちる音がした。
僕と、向こうとは何の接点もなかったが、初対面でなんて言えばいいか分からず、泣きながら「初めまして、好きです」と話しかけた。
おい!こんなのどう考えても頭のおかしい奴じゃないか!
先輩はあっけにとられたような顔で固まっていた。そりゃそうだよな。沈黙。この後の展開は予想できる。悲鳴。嫌悪。拒絶。
ああ、この沈黙が永遠に続けばいいのにな。一瞬が一生に感じられた。
「.....ははっ!君、面白いね」先輩はめちゃくちゃ笑ってくれた。俺に劣らず、先輩も割と頭のおかしい人間だった。
俺はより一層、先輩の事を好きになっていった。
それから毎日、「私の事好きなんでしょ?じゃあ私に協力してよ」としょっちゅう呼び出しを食らった。内容は生徒会の手伝いだったり買い物だったり一緒に帰ったり色々だった。
本当に毎日が輝いていた。
俺は笑って、先輩も笑って、なんだか醒めない夢を見ているようだった。
ある日の放課後、またいつものように教室に呼び出された。夕日に照らされた先輩は、いつもの何倍も眩しく見えたが、今日はなんだか曇って見えた。
突然、先輩がいつになく真剣な顔つきで話す。「あたしね、夢があるんだ。だから君とはもう一緒にいられない。ごめんね.....」
「え?どういう事っすか?卒業してこの町を出るとかそういう感じですか?あー、はは...それはちょっと寂しくなるかもですけど、でもまだ卒業まで半年もありますしそんな急な話じゃ」
早口。
不安を拭うように俺1人で喋り続ける。
もしかして、もしかして先輩は『いつか』ではなく『今』俺の前から───
「違うの!」
「違うの.....『今』じゃなきゃダメなんだよ。私の性格わかるでしょ?待ってられないの。1日だって半年だって私には同じなの。1秒だって無駄にはしたくないの。思い立ったらすぐやらなきゃ。やってしまった後悔はしても、やらなかった後悔はしたくないの。50年後に『あー、あの時こうしてればなー』って後悔したくないの。確かにこの町も、私に期待してくれる皆の事も、そして君のことも大好きだよ。でもそれは私にとって足枷でしかないの。この心地よい場所にずっと居たら、私はそのうち平凡な人間で終わってしまう。.....ねえ、私の言ってることわかるでしょ?君は私の事が大好きで、私のことはなんでも知ってるんだから.....」
俺はもう、なにも言えなかった。
いや!考えろ。何かなにかナニカ言わなければ、俺がここで正解を─美少女ゲームの選択肢のように、先輩を引き止めるための適切な言葉を選ばなければいけない!
考えろ!
ああでも俺がここで土下座でもなんでもしたとして先輩は止まるのか?そんなわけない。俺は先輩の事を誰よりもよく知っている。仮にそれが成功したとして、先輩の為になるのか?ああもうわからない。
俺には永遠とも思える─しかし実際は一瞬の沈黙の後、俺は涙でくしゃくしゃの顔で言った。
「.....わかりました。先輩は夢を追いかけてください。でも俺、絶対あなたを追いかけますんで」
多分、後半はまともな言葉になっていなかっただろう。溢れ出る感情を抑えられなかった。
最後くらいはカッコよく決めようと思ったのに、ダメダメだ。
「.....あははははっ!初めて会った時と同じじゃん!君は泣き虫だね」
幼い子供をあやすように、優しく頭を撫でられてしまった。
「でも、そんな君の弱いところが好き。君の弱さも、強さも、全部私が貰っていっちゃうね。じゃあね。」
ヒラヒラと手を振りながら、先輩は教室を出ていってしまった。
しかし、ふと立ち止まり
「ねえ!そんなに私の事が好きなら、私のこと、いつまでも追いかけてね.....またね!」
先輩は本当にいなくなってしまった。
教師も生徒も、生徒会の皆も、誰も先輩の事を覚えていなかった。
学校中の生徒、先輩と帰りに寄ったクレープ屋、CDショップ、公園、全ての人間が先輩のことを忘れていた。どういうことだ?
この世界は全部夢で、先輩と居たあの日々だけが現実なのか?
何も分からなくなった俺は、自分の頸動脈にナイフを当てて、切った。
なんだ、ちゃんと痛いし血の色は赤いじゃないか。これ、夢じゃないんだ.....薄れ行く意識の中、俺は絶望し、笑った。
気が付くと、俺は無機質な、白く、冷たく、生気の無い独房のような─病院のベッドに居た。どうやら『受験勉強のストレスからきた自殺未遂』として処理されたらしい。
担当医も、先輩のことは知らなかった。
治療を続けていくうちに、どうやらアレは俺の歪んだ妄想が生み出した想像上の存在だということが分かった。
なんのことは無い。世界がおかしいのではなく、俺の頭がおかしかっただけだったらしい。先輩も、あの夢のような時間も、全部嘘だったんだ。
先輩、本当にさようなら。もう、あなたを追いかけることはできません.....弱い俺を許してください。
独り、頭の中で謝り続けた。
そして数年後、まともになった俺は地元の工場に就職し平凡な毎日を送っていた。
職場の皆も優しく、決められた時間に決められた作業を行い賃金を得る。何も起こらない、ぬるま湯のような生活だ。
思えばあの日々は、俺自身の将来への不安だとか、モラトリアムが積もりに積もって爆発した結果だったのかもしれない。思春期とは爆発寸前の導火線のようなものだ。
今、なんだかんだで俺はこの生活が気に入っている。「.....何も起こらない毎日も、悪くないですよ。先輩。」
先輩に─過去の自分に言い聞かせるように独りごち、ホームで帰りの電車を待っていた。
「本当に?」
どこからか、声がした。
幻聴か?いや、違う。信じられない光景が、そこにあった。俺が誰よりも愛していたあの人が、悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見つめている。
ああ!やっぱり嘘なんかじゃなかったんだ!今の生活も、積み上げてきたものも、全部嘘だ。
あなただけが俺の現実だったんだ!先輩!また会えて嬉しいです!今そっちに行きます!
『まもなく電車が参ります。白線の内側にお下がりください.....』
俺は─現実を、この身体に積もった埃をかなぐり捨てるように─翔んだ。
後頭部を強く叩かれたような、頭のてっぺんから雷が落ちてつま先まで抜けるような─衝撃的な、恋に落ちる音がした。