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Ghost of Tsushima 聖地巡礼2023 - Day1


1日目 マップ

ドライブ行程付きGoogle Mapはこちら

拡大図

対馬へ

あらゆる支払いをクレジットカードで行ってマイルを貯め、行き帰りのJALの航空券に引き換えた。その活動の一環として近所のスーパーでポイント5倍や10倍の食料品を狙って買い込むため、めちゃくちゃ自炊している。体にも良い。

07:35-09:30 羽田-長崎 JAL
12:00-12:35 長崎-対馬 ANA

福岡経由でもっと早く着く組み合わせはあるのだが、去年それをやって乗り換え時間が短すぎて焦ったので、今回はゆったり行くことにした。

空から見た対馬。海の中に突然断崖絶壁が突き出ている

対馬ヤマネコ空港

空港にはヒトツバタゴの花とツシマヤマネコのイラスト

都々智神社


カーナビに地点登録されていなかったので、「対馬神社ガイドマップ」に掲載された住所を頼りに向かう。空港から30分程度で到着した。

都々智神社

この神社は浅茅湾の南側の浜の中にあり、大潮の時は参道が水没するらしい。右手の橋は高い位置にあるので大丈夫だと思うが、左手のコンクリートの渡り廊下のようなものは水没するのだろう。とはいえこの日は大潮ではなく、また干潮の時間が10:29、満潮が17:18であるうちの、13:30という中間の時間に到着したので、参道はちゃんと海面から露出しており上を歩けた。

漂着物と思われる骨のような白い枝を、誰かが美しく積み上げていた


文永の役の激戦地を巡る

Map拡大図

14:30に小茂田浜海浜公園の駐車場でガイドさんと待ち合わせて、元寇古戦場ツアーが始まった。これから2時間ほどで、小茂田浜周辺に散在する「文永の役」の史跡スポットを案内していただく。

今回ガイドをしていただいたのは「合同会社 of Tsushima」さん。

名前の読みが「ゴ……オブツシマ」なのは、Ghost of Tsushimaのファンの方々が立ち上げた会社だから。今のところ日本語のみ対応とのことだったが、映画化したら世界中から観光客が来るだろうから、英語対応はお願いしたいところだ。
私は「対馬ブック2023」の裏表紙に書いてあった電話番号から申し込んだが、後で調べたら「じゃらん」にも申し込みページがあった。このサムネイル写真のように、牢人の服や侍の鎧を撮影用にレンタルしてくれる。

担当してくださったSさんは典雄が好きで、「Ghost of Tsushimaの映画化の際に日本人が抜擢されるなら典雄役に立候補したい😤」とおっしゃっていた。また2024年には仲間と共に民泊を開業するらしい。完成したらぜひ行ってみたい。

小茂田濱神社[C]

まずは神社にお参り。
だが緊張していて写真を撮り忘れてしまったので、代わりに前年の7月に訪れた時の写真を。

小茂田濱神社

宗助国公騎馬像

小茂田濱神社の参道に、文永の役で戦死した宗助国公の銅像がある。

宗 助国(そう すけくに)は、鎌倉時代中期の武将。対馬国の地頭代(守護代でもある)。文永の役の戦端が開かれた蒙古軍の対馬侵攻において、大軍を相手に少数の兵で立ち向かい、討ち死にした。(wikipediaより)

この像の台座には「元寇750年」と書かれている。文永の役は1274年なので750年後は2024年である。
しかしこの像自体は2020年8月には完成していた。コロナ禍がなければ、アンゴルモアやゴーストオブツシマのファンの間では話題になり、訪れる人も多かったのではないかと思う。
特にゴーストオブツシマは日本だけでも100万本、全世界で973万本も売れたのだから、世界中からファンが聖地巡礼に訪れたに違いない。

小茂田浜神社では、毎年11月第二日曜に元寇の故事にちなんで大祭が行われているそうだ。2024年11月の750周年の小茂田浜神社のお祭りはどのような賑わいを見せるだろうか。ぜひ行ってみたい。


宗 重尚について

宗 重尚は宗 助国の父である。
一説には、壇ノ浦で戦死した平知盛の子「知宗」を惟宗氏が匿い育て、やがて知宗には「重尚」「助国」をはじめとした数人の子ができた。そして重尚は助国を養子として家督を継がせた。つまり重尚と助国は元は兄弟だったという。
そのころ対馬は、北九州地方の守護大名少弐氏の守護領国であったが、平安時代後期から実質的な対馬の支配者であった阿比留氏が幕府に従わなかったため、少弐氏は惟宗氏に阿比留氏を討伐するよう命を下した。
その時に惟宗氏の名代として阿比留氏討伐に向かったのが、すでに壮年となっていた重尚で、討伐軍として弟らも引き連れていったと思われる。そして対馬を平定後、重尚は阿比留氏の代わりに対馬を治めるようになったと。

また一説には、重尚は阿比留氏を討伐した際、祖母の姓である惟宗氏から姓をとったとの言い伝えもある。さらにその後「惟宗」を大陸風にあらためて「宗」一字としたのではないかとの事である。

自分が思うに、「平家の末裔」というのは無数に居るし、言ったもん勝ちという気がしなくもないが、惟宗氏の家系というのは現実的な線だと思う。惟宗氏の娘が嫁いだ名もなき武士の家で、やがて武芸や知略に秀でた孫が生まれた。、重尚はその武芸知略で一族の中で有名になっただろう。そのとき主人の少弐氏から「対馬を平定せよ」という無理ゲーな命令を受けた惟宗氏の頭領が、一族郎党の中から重尚に白羽の矢を立て絶望的な戦に送り込んだ。だが重尚は討伐に成功してしまい、本土には帰らずに弟達と共に生きていくことを決めて新たな家を興した、と考えると面白い。あるいは、大将は惟宗氏であったが戦死してしまい、最終的に阿比留氏に勝利した重尚や助国が対馬に残って「惟宗氏」の名前を継いだとも憶測できる。

ではここで、重尚の年齢を考えてみよう。
重尚が助国より5歳程度年上だったと考えると1202年ごろ生まれで、対馬平定に赴いた時には43歳位と考えられる。大将を務めるには妥当な歳だ。

1184年 父・知宗 誕生
1185年 壇ノ浦の戦い (祖父・平 知盛 35歳?で戦死)
1207年 弟・助国 誕生 (知宗 23歳時?)
1245年 重尚、対馬に入島 (重尚= 43歳くらい、助国=38歳くらい)
1246年 重尚、阿比留氏平定(重尚= 44歳くらい)
1274年 助国、文永の役で戦死 (67歳くらい)

だが資料上重尚の実在は証明されていない。


ひじきだん[D]

文永の役では見張りを配置したと言われる丘。小茂田浜を一望できる。
見張りの兵はあの海に900隻の船が迫ってくるのを見たのだろう。
赤い斜線の部分は近年行われた埋め立て地とのこと。今は漁港と畑になっている。埋め立てた理由は防風のため。入江が深いと海水が強風で巻き上げられて民家に叩きつけられ、建物を劣化させてしまうからだという。


ここからの眺めは、ゴーストオブツシマの冒頭で志村と仁が馬で並ぶシーンにとてもよく似ている。

持参した写真と一緒に撮影するオタク丸出しの行為
ゲーム内のシーン

宗助国公の手足塚(かいなづか)[E]

宗助国公の亡骸のうち、手足を葬ったと言われる塚。敵に場所を悟られないように亡骸を数ヶ所に分けて埋葬したという説もあるが、宗助国公への畏敬の念が非常に強かったためにいくつもの塚が生まれたと見る説もある。

宗助国公の手足塚は若神子神社の中にある
格子の手前の石積みの段が手足塚
ガイドさん。お話しがめちゃうまい

塚のまわりは猪避けの柵が張り巡らされている。対馬は野生の猪が多く、農作物に対する被害を避けるため高い柵を設けている。紐でガッチリ止められていて、猪がぶつかっても開かないようしっかり閉められている。
中に人が住んでいるところもあり、開けたり閉めたりは必要に応じて行って良いのだが、観光客が一人でこういった柵の中には行きづらいし、戻す時ちゃんと紐を結べなかったら猪が出てしまい迷惑をかけてしまう。ガイドさんがそれらの紐や関貫を手際よく開けて通してくれたのがありがたかった。

宗助国公のお太刀塚

お太刀塚は銀山神社の境内にある
石を積み上げた塚

宗助国公のお胴塚[F]

お胴塚は法清寺の庭にある


塚の前には元寇で犠牲となった方へのお供物が置かれている

塚の前に置かれた三角形の石は仏塔の意味。(おにぎりではない)
その前に並べられた12枚の四角い木の板は、戦場に赴く武士に捧げた飯の皿を模しており、二本づつ束ねた木の棒は箸。また、自分がお参りした時はカゴの中身は空だったが、お供えの握り飯を入れてあったそうだ。

宗助国公のお首塚[G]


お太刀塚とは別の銀山神社、
とても雰囲気ある….。
夜は怖くて絶対に入れない
塚にはお胴塚と同じく仏塔の頭の部分と
12枚の木の板とお箸がお供えされていた

蒙古軍がなぜ小茂田を狙ったかの理由に銀山の存在が挙げられるそうだ。
西暦674年にはじめて銀が採掘され朝廷に献上されてから、厳原町樫根は銀の産出地となった。このことは交易を通じて高麗にも知れ渡っていたと思われ、ゆえに高麗が元に支配された時にクビライ・ハーンの政権に対馬の銀山の情報がもたらされたはずだ。


対馬勢の陣があった場所はどこ?[H][I]


ガイドさんに教えていただいた説だと、元の900艘の船団のうち高麗の兵1000人が上陸して、現在の金田(かんだ)小学校のあたりに布陣した。
一方の対馬勢は、対岸の小高い丘に布陣したと想像される。歴史書にある「80人」というのが騎馬武者の数だとすると郎党が2人づつ付いたら総勢240人。
当時この辺りは内陸に深く入り込んだ湾であり、戦場は石や泥が堆積した湿地帯、あるいは削れた堆積岩がゴロゴロ転がり潮が満ちると水に浸かるような土地で、どっちにしろ馬が歩けるような場所ではなく、徒士での戦いを強いられた事だろう。

今は埋め立てられて河原になってるが当時は湾の奥


小茂田浜海浜公園

小茂田浜に戻って牢人の衣装を着付けてもらい写真をとる。

小茂田浜
小茂田浜

刀は偽物だがけっこう重い。抜刀って大変なんだな。家で竹刀を素振りしてトレーニングしているが、自在に扱えるようになるにはもっと練習しなければ。
自分は超絶方向音痴なので、短時間で迷いなく見て回るためガイドさんを依頼した。知識が豊富でいろいろ教えてくださり有り難かったのと、こういう衣装レンタルもしてくれ、特別な体験になった。仕事で辛い時とかこの写真や動画をみて永久にニヨニヨできる。

最後に、沈む夕陽をバックにfunko popの写真を撮る。長い一日だった。

funko popを二種類持参した。一つより二つの方が断然和むのはなんでなんだろう

宿泊

小茂田浜 IL SOGNO[J]

小茂田浜に1軒だけある民泊の「イル・ソーニョ」に投宿。

奥さんの定年退職に伴いご夫婦で立ち上げた宿で、内装がとても丁寧でしっかりしている。2部屋分を宿泊客に割り当てており、合計5〜6人まで泊まれると思う。
小茂田浜から歩いていける距離。食事のおいしさが口コミで広がっている。料理は主に旦那さんが作るとのこと。

クエ鍋。幻の高級魚
豚シャブサラダと鳥焼き。縮尺がバグっている
白身魚のカルパッチョ。一切れ一切れがでかい
お刺身を甘いお醤油でいただくのが最高

このあとデザートに「かすまき」も出してくれた。普段の自分なら2日分の食料だろう。全部美味しかった。

海外からのお客さんもよく来るとのこと。韓国はもとより、欧州、米国など。どうやってコミュニケーションしてるのか聞いたら、スマホの翻訳アプリを使うのだそうだ。ご夫婦はガジェットを使いこなして世界に繋がっている。

割り当てられた部屋はとても暖かかった。炬燵にあたって翌日の予定を確認したあと、早めに就寝した。

(1日目、ここまで)

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3日目へ(作成中)
4日目へ(作成中)



メモ:行ったところリスト

対馬ヤマネコ空港 緯度経度は
都々智神社
小茂田濱神社
ひじきだん
宗助国公のお手足塚
宗助国公のお胴塚
宗助国公のお太刀塚
宗助国公のお首塚
佐須ライスセンター
対馬勢陣地
金田(かんだ)小学校
小茂田浜海浜公園
小茂田浜 IL SOGNO

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