戦後「住宅産業」論のなにが西山夘三を苛立たせたのか
「住宅産業」というコトバは、今ではなんの違和感もなく使われるようになりましたが、戦後、しかも1960年代に入って少しずつ意識されはじめたといいます。
ズバリ、「住宅産業」と名指されて一大流行語になったのは、1968年。通産省官僚・内田元亨(1925-1996)の論考「住宅産業-経済成長の新しい主役」(中央公論、1968.3月特大号)によってでした。
それゆえ、1968年は「住宅産業元年」とも呼ばれます、というのが教科書的な記述です。
そんな「住宅産業論ブーム」のキッカケとなった内田論文のインパクトを建築学者・巽和夫(1929-2012)は次のように書いています。
この論文に盛られている技術的な提案それ自体は、建築技術の側からみてさほど新しいものというわけではないが、それが生産工学的および産業的観点からの裏づけをもってなされていたところにかなりの説得力を持っていた。住宅の産業化はそれまでにある程度進んでいたし、その方向への技術上の努力も払われていた。しかしわれわれ建築家や建築技術者は、これを「産業化」の視点でとらえるのではなく、より狭く、生産の「工業化」という範囲でとらえていたといえる。
(巽和夫「住宅生産・供給システムの検討」1974)
ところで、あまり触れられることはありませんが、そもそも「住宅産業」というコトバ自体の初出は、さらにさかのぼること24年前、建築学者・西山夘三(1911-1994)の著書『国民住居論攷』(伊藤書店、1944)になります。
この事実は、西山を知る人にとっては、ちょっとばかりオドロキの事実ではないでしょうか。なぜって、西山はことあるごとに、住宅産業に対して舌鋒鋭く批判を繰り広げたことで知られる人物でもあるのですから。「住宅産業」批判の第一人者ともいえる西山が、実は「住宅産業」概念の生みの親とは、一体どういうことなのでしょう。
内田元亨の「住宅産業」論
本間義人『住宅:産業の昭和社会史』(日本経済評論社、1987)は、定義が曖昧な「住宅産業」を解説するあたり、「わが国で初めて「住宅産業」という言葉をマスメディアに登場させたのは内田元亨「住宅産業-経済成長の新しい主役」だと思う」と書いています。
いわゆる「住宅産業元年」と呼ばれることになる1968年のこの論文を書いた内田元亨は、当時、通商産業省の官僚でした。内田は、日本経済を牽引していた自動車産業がいずれは衰退するという予測(当たらなかったけど)のもと、それに変わる「新しい主役」として「全く新しいタイプの住宅を、安価に大量に供給する産業」として「住宅産業」を位置づけたのです。
そこで内田はどんな住宅産業像を描いたのか。たとえば次のように説明しています。
まず住宅の建築を大きく分けて二種類の技術によって行うものとする。第一は住宅を入れる棚をつくる技術であり、第二は住宅という箱をつくる技術である。棚は約二〇階程度の鉄骨で組み上げた人工土地のようなものと考えればよく、箱はちょうどマッチ箱のように単純な四角形をしており、引出しのようにこの鉄骨の骨組の中におさめられるようにする。
(内田元亨「住宅産業-経済成長の新しい主役」1968)
そこで提案されている住宅像は、今で言うところのスケルトン・インフィルによる大規模集合住宅でした。そんな提案を含む内田の論文が起爆剤となり、住宅産業論ブームが到来したわけですが、そこで主軸となった住宅は、あくまで低層戸建て住宅であったことを思うと、内田の論考は、「住宅産業」というネーミングの妙ゆえに、言葉だけが一人歩きしたようにも思えます。
もちろん、巽和夫を驚かせたように、住宅「工業化」ではなく「産業化」へと視点を広げてみせたという点が何よりも大きなインパクトとして、戦後日本社会に影響を及ぼしていきました。
また、内田論文をキッカケに住宅産業について論じた図書や雑誌論考がどんどん登場しました。そんな住宅産業論たちを並べてみますと・・・。
蒲池紀生『離陸する住宅産業-未来産業への先発隊』(1969)
経済市場調査研究所『わが国住宅産業の全貌』(1969)
『新建築』「住宅産業シリーズ連載」(1969.11~1970.9)
日下公人『デベロッパー-住宅から都市産業へ』(1970)
水田喜一朗『住宅産業-システム産業シリーズ』(1970)
竹中一雄編『住宅産業―未来産業6』(1970)
科学技術センター『住宅産業講座(全3巻)』(1970)
ミサワホーム総合研究所編『10年後の住宅産業』(1975)
並木信義編『日本の住宅産業:その成長力を探る』(1977)
通産省『住宅産業の長期ビジョン』(1982)
鈴木一『住宅産業界』(1985) などなど
西山夘三の「住宅産業」論
「住宅産業」というコトバを初めて流行らせたのが内田元亨だとすると、その用語の初出とみられるのが、先に紹介した建築学者・西山夘三です。西山は著書『国民住居論攷』の第五編を「住宅産業」と名付け、住宅産業の再組織や建築単位、基準寸法といった問題について論じています。
本論は、かかる情勢の下に当時建築界の重要問題の一つであった建築工の養成に関して万能工か単能工かという問いを提出しつつ現段階の建築技術が図面技術に止まり得べからざるを説き、新しき技術形態を示唆し、更に住宅産業の全建設産業および国家経済における独自の位置を確立すべきことを主張しつつあらゆる改革がこの線に沿って行われるべきことを、走り書き的に略述せるものである。
(西山夘三『国民住居論攷』1944)
なんだか西山の文章を読んでみても「ことばの意味はよくわからんがとにかくすごい自信だ」的ですので、戦後に書かれた彼自身の説明を聞いてみましょう。
「住宅産業」という言葉をはじめて使ったのは、私ではないかと思う。(中略)このとき、住宅の生産をあつかう篇の名として「住宅産業」という言葉をつかった。かねて建築を研究するには、その生産体制(生産方法、生産技術、生産関係など)をとりあげねばならないと考えていたので、この篇を設けた。
(西山夘三「「住宅産業」とはなにか-その動向と問題点」1983)
戦争は容赦なく住まいを奪う半面、別のかたちで住まいを与えもします。総力戦は社会のなかで分散・潜在していた動きを統合・加速させる。労働力も居住空間も、ともに稀少な財として再発見され、合理化・科学化・計画化・システム化へ向けた千載一遇のチャンスと見なされたわけです。
当然に、西山もそうした時流に乗っかるかたちで、自らの「住宅産業」に託したロマンを実現しようと画策したことでしょう。それは、国家・国民のために全てを計画・統制し尽くしたいという技術者の夢であり、それゆえ「戦争協力」へと飲み込まれていく「転向」の過程でもあります。
西山夘三を苛立たせたもの
「住宅産業」というコトバを初めて使ったという自負、そして、そんな「住宅産業」でもって住宅がつくられる仕組みを転換させようと試みたロマンゆえに、戦後に展開した内田元亨的な「住宅産業」に苛立ちを抑えることができなかったように思われます。たとえば、西山は戦後の「住宅産業」について次のように書きつけます。
「住宅産業」とは住宅を目当てに(これを手段として)展開するさまざまな資本主義的企業の活動-建設業、プレハブ会社、材料工業、宅地造成や再開発をやるデベロッパー、土地経営、建売業者、貸家業、管理会社、コンピューターをつかう全国的なものから、巷の不動産屋までをふくむ土地・建物仲介業・・・・・・といったすべてを包括してさすといえる。それらの個々の企業活動をうごかしている動機は「金もうけ」である。ただ、その手段に「住宅」をとりあげられているにすぎない。
(西山夘三「「住宅産業」とはなにか-その動向と問題点」1983)
「住宅産業」は「金もうけ」だと喝破する西山。さらに「一見、国民の住要求にこたえる活動をしているようだが、その本質は人間らしい住居を国民に提供するためではなくて、金もうけのための資本主義的企業である」とまで言うのです。
「金もうけ」へと走る「資本的企業」内で行われる仕事の共同化・集約化・分業化も「経済の論理」で動かされ、「住み手と生産者とのつながり」も失われる。「売れるもの」や「コストのかからぬもの」が重視される。こうして「キャッチフレーズだけは氾濫するが、欠陥だらけの住宅や、それを土台とする歪曲された「住生活」が展開する」と批判しています。
さらには、政府が進めた持ち家政策によって「ニセ持ち家層」が形成されたと言います。「ニセ持ち家層」とは本来、資金的に持ち家を持てない(持つべきではない)層にまで狭小で劣悪な持ち家を取得している事態を指しています。こうして、西山の「住宅産業」批判は、持ち家政策を推し進める自民党批判へとつながっていきます。
戦争が垣間見せた西山的「住宅産業」
戦後、西山は、家族構成に応じて住まいを替えていく「住みかえシステム」「住宅の社会的管理」の実現を夢想しました。
住宅は人々の生活の本拠ではあるが、もともと土地と同じく個人の私有物であるべき筋合いは毫もない。(中略)個人が自分の責任で住宅をつくり、私有物としてしがみついているなどということはバカげたことである。(中略)いずれ国民の住宅を全国土的規模で合理的に社会的に整備し管理するシステムがつくられることになるだろう。
(西山夘三『住み方の記[増補新版]』1978)
ここまできて見えてくるのは、西山が徹底して社会主義的「住宅産業」を模索し、それゆえに、内田元亨に代表される、いわば資本主義的「住宅産業」を攻撃したのでした。実は、国家が全てを統制し、社会が平準化される「戦時体制」は、西山が夢想した社会主義的「住宅産業」が実現するかに見えた瞬間だったのでは中廊下、と思えてきます。
その究極ともいえる「住宅産業」像が、『国民住宅論攷』には登場します。米軍による都市への爆撃が激化するなか、防火帯確保のための「建物疎開」という名の建物の除去、そして、疎開地での新たな住宅の建設が課題となるなか、解体した住宅の部材を再加工することで、規格化住宅を生産するというプランを提示しているのです。
建設物の大量的移動においては、そのままの移築は不可能である。その大量的処理の方法は、全除却建築を要素的構成資材に分解し、これを種類と寸法によって仕分けし、それぞれの部材を最もよく生かす工作設計のもとに分類加工し、これをもって規格化住宅を大量に建設するという方法を最も有利とする。
(西山夘三『国民住居論攷』1944)
こうして、金持ちの大邸宅も貧乏人のボロ屋も全てをミックスし、ガラガラポン!と同一の規格化住宅へと再加工・大量生産する。そして、その運用にあたり「住宅の国家管理」を実現する。西山の主張する社会主義的「住宅産業」の到達点がここにあります。
いま私たちが耳にするステレオタイプな「住宅産業」批判は、その源流を西山ら左派の主張を源流に持つのだということにも、また気づくのでした。
(おわり)
参考文献
1)西山夘三『国民住居論攷』、伊藤書店、1944
2)西山夘三『住み方の記:増補新版』、筑摩書房、1978
3)西山夘三「「住宅産業」とはなにか-その動向と問題点」、新住宅、1983
4)内田元亨「住宅産業-経済成長の新しい主役」、中央公論、1968.3
5)巽和夫「住宅生産・供給システムの検討」、京大西山研究室編『現代の生活空間論・上』、勁草書房、1974
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