ミサワホーム「フリーサイズ」のなにが西山夘三を苛立たせたのか
有名なスケッチ魔でもあった建築学者・西山夘三(1911-1994)が描いた一枚のイラスト。風変わりな外観の住宅が7つ並び、それぞれ西暦が順番に振られています(図1)。
素朴な西山のタッチ、そして建物に寄りそうように書き込まれた「UZO」のサインから受ける印象は「西山夘三は愛を込めて住まいの姿を描いたのだろうなぁ」といったものですが、実はそうではありません。
ここに描かれた住宅外観は、すべて大手ハウスメーカー・ミサワホームによるもの。上から順に次のような商品名がつけられたプレハブ住宅です。
もとになった資料は、日本建築学会建築計画委員会による学会大会協議会資料『工業生産住宅における設計プロセス』に収録された図版です(図2)。
西山夘三はなぜこのスケッチを描いたのでしょうか。そこには戦後日本の家づくりを担う新勢力として絶大な影響を及ぼしはじめた住宅産業に対する西山の苛立ちが見え隠れします。
ミサワホームによるプレハブ住宅「フリーサイズ」のなにが西山夘三を苛立たせたのでしょうか。
ミサワホームと「フリーサイズ」
そもそもミサワホームは、創業者・三澤千代治(1938-)が発想した「木質パネル接着工法」による住宅販売・施工を手がける会社として1960年にスタートしました。創業時は三澤の実父・三澤二郎が経営する長野県の三澤木材に間借りし、竹馬の友・山本幸男(1938-1985)とともに住宅のロマンを夢見たプレハブ住宅事業部でした。
病弱だった三澤は日大建築学科の学生時代、病床に伏してモンモンとするなか「なぜ建物には柱や梁があるのだろうか?」という疑問を持ちます。これが軸組ではなく6面体のパネルで住宅をつくるという発想へとつながっていきました。大学時代に師事した日大理工学部の佐藤稔教授の協力のもと、「木質パネル接着工法」として建築基準法第三十八条に基づく認可にこぎ着けます。
その後、1967年には三澤木材プレハブ住宅事業部はミサワホームとして設立(この段階でも社長は父で、三澤千代治は副社長でした)。南極昭和基地の部材製作や完全プレハブ住宅「ホームコア」の開発へと邁進し、その後のミサワホーム快進撃が続くことに。
ここで取り上げる「フリーサイズ」は、そんなミサワホームの創業から設立直後の主力を担った商品住宅(図3)。ただし、「フリーサイズ」と名付けられたのは規格型商品「マイホーム」と区別するためで、もともとはズバリ「ミサワホーム」という商品名でした。
ミサワホームの「フリーサイズ」の特徴を『ミサワホーム技術開発史【木質編】』(2007)は次のように紹介しています。
実際、ミサワホームが住宅産業界に登場した1960年代前半は、まだ市民権を得ないプレハブ住宅がその画一性や安普請感から敬遠されていく時期にあたります。それを受けて、1960年代後半になるとメーカー各社は「イージーオーダー」、つまりは、お客さまのニーズに応じた自由設計が可能であることをアピールしはじめます。プレハブ住宅はプレハブ住宅っぽさを薄めることで社会に受容されようとしたわけです。
そんな情勢のなか、競合他社が採用する軽量鉄骨系プレハブではない「木質パネル接着工法」のミサワホームは、独自の「イージーオーダー」路線、つまりは「フリーサイズ」を展開していきます。「先進のデザイン」を自負する「新製品」を「次々と発表」する戦略を突き進みます。
西山夘三の住宅産業批判
さて、冒頭に紹介した西山夘三のスケッチは『日本のすまい・弐』(勁草書房、1976)の「Ⅷ部:邸宅 17章:プレハブ住宅」に掲載されたものです。キャプションには「ミサワホームのフリーサイズの外観、毎年新型がつくられる」とあります。
さらに本文中で、西山はミサワホームの特徴を以下のように指摘します。
「毎年新型がつくられる」ような家づくり。スケッチのもとになった資料集『工業生産住宅における設計プロセス』でも、「〈フリー・サイズ〉は、モデルチェンジが自由なので、他社とは異なり、毎年新しいデザインを発表できた」とあります。西山夘三はハウスメーカーの家づくり、そして、持ち家指向自体にも批判的な眼差しを向けていました。
「三種の神器や新三種につづく、その延長線上に住宅も使いすての耐久消費財であるといった考え方を基礎にして、安易な住宅革新が追求されようとしている」と書き、辛辣な住宅産業批判を展開していきます。
住宅産業批判の刃は、切って返して建築家へも向けられていきます。
西山にとって戦後日本における住宅産業は「必ずしも必要でない生活革新・住宅改善をすすめようとする」だけでなく、「本当に必要な革新・改善が放棄され、とりのこされ、全体として住生活の様式や国民の住意識がひずめられてゆく危険」をもたらす存在でした。
一方で、建築家たちは「建築家に設計をたのむような御仁の特殊な「一品作品」や「大邸宅」」を手がけるのみ。「そんな形でしか国民の住宅に職能人を人びとは「建築家」と呼べるのだろうか」と疑問を呈しています。
戦時下の日本において国家社会主義的な「住宅産業」を夢想した西山夘三(『国民住居論攷』1944)にとって、1970年前後を席捲する独占資本主義的な「住宅産業」の蔓延はガマンがならなかったものだと想像できます。
そして、そんな西山にとって、ミサワホームが「フリーサイズ」の特徴だと高らかに謳う「新製品を次々と発表するたびに、住宅ユーザーだけでなく住宅業界からも熱いまなざしを集め、いうなればミサワホームの「先進のデザイン」が注目の的」になるなどという特徴が、どんなに苛立たしいものに見えていたのか。そう思うと、あの西山のイラストはまた違った意味での迫力を持ち始めます。
フリーサイズがもたらしたもの
毎年外観を変えると西山が皮肉ったミサワホーム「フリーサイズ」は、西山の意に反して、そして、西山の予想どおりヒット商品となります。
画一的なプランへの不満解消という点では他のハウスメーカーと同様の動きなのですが、ミサワホームが売り出した自由設計商品「フリーサイズ」が他社に比べて卓越していたのは、ド派手なまでの「やりすぎ外観」にあります。
積水ハウスにせよ、大和ハウス工業にせよ、ナショナル住宅にせよ、1960年代半ばのプレハブ住宅は、どれも似たり寄ったりのようなデザインでした。1960年当初の近未来的なデザインは客を選ぶため抑制されていました。そこに三澤千代治は、ある意味、日本的な発想な「○○尽くし」的に「屋根尽くし」を打ち出します。
西山夘三にしてみれば何ら本質的でない「屋根尽くし」。「切妻屋根はもとより招き屋根・片流れ屋根・越屋根・大屋根などが思いのままに出来る上、室内も吹き抜けの居間や舟底天井の和室などのほか、当時のプレハブ住宅の常識を越えたデザイン」を付与した三澤千代治の「発想力」。この「屋根尽くし」は、1960年代後半から70年代にかけて、大手プレハブメーカーが「自由設計(というセミオーダー)」をアピールする常套手段となります。
そもそも、戦後に到来した持ち家社会は、自分自身の持ち家を「検討する」という不慣れな判断を庶民に強いることになりました。そんなとき、住宅購入に際しての「選びやすさ・検討しやすさ」を「ド派手な外観バリエーションからご自由にお選び下さい」という売り方で解決した三澤千代治の着眼点は驚きに値します。
そんな三澤のやり方を西山は「必ずしも必要でない生活革新・住宅改善をすすめようとする」と批判したのですが、残念ながら庶民はそんな「生活革新・住宅改善」なんぞ求めてはいなかったのでした。
それは庶民が、ハウスメーカーに洗脳されたからでもなければ、建築家に騙されたのでもなく、そもそも庶民はそんなことなんぞ気にしないから。そもそも「本当に必要な革新・改善」は「放棄」どころか「取得」されたこともなく、当然に「選択肢」にすらなく、また、歪められる「住生活の様式や国民の住意識」など存在しない。それが圧倒的多数を占める「庶民の住宅」の現実なのでした。
以後、西山夘三やその門下たちは、ありもしないことが判明した「住生活の様式や国民の住意識」を構築するべく、「住教育」研究へと展開していきます。さらにその延長線上に「住民主体のまちづくり」が課題として浮上していくのでした。
そしてその頃、三澤千代治は「ド派手な外観バリエーションからご自由にお選び下さい」という各種定食主義から「こんな家に住めばあなたの人生はこう変わる」というオススメランチ主義へと舵を切る判断を下します。ミサワホームO型(1976)。いわゆる「企画住宅」の時代です。住宅はここに「商品」として完成するのでした。
(おわり)
参考文献
1)池田昭三編『標準住宅プラン210集』、梧桐書院、1971
2)主婦の友社編『フリーサイズのプレハブ住宅:その知識とデザイン』、主婦の友社、1971
3)高木純二『ミサワホーム 三澤千代治にみる発想・戦略・経営』、はる出版、1987
4)ミサワホーム編『ミサワホーム技術開発史【木質編】』、ミサワホーム、2007
5)ミサワホーム編『LEGACY:ミサワホーム50年誌』、ミサワホーム、2017
6)松村秀一監修『工業化住宅考:これからのプレハブ住宅』、学芸出版社、1987
7)日本建築学会建築計画委員会『工業生産住宅における設計プロセス:日本建築学会大会協議会資料』、日本建築学会、1972
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