セキスイハウスB型|工業化住宅の大量販売を下支えした「お客様第一主義」
建築家・前川國男(1905-1986)について、前川建築事務所で働いたキャリアを持つ建築家・大高正人は、こう証言しています。この証言は、戦後日本を代表する建築家・前川の設計による木質パネル量産住宅「プレモス」がなぜ売れなかったのかを語る場面での言葉です。精魂込めて日本の復興を託し設計した「プレモス」は、100万人の住まいをめざした高いクオリティを持ちながら、惜しいことに「売ること」へ関心が及ばず、広く普及することはなかったと語るもの。
同じくプレモスに関わった建築家・田中誠も、次のように証言します。
この「売ること」への目配せの甘さは、近代建築家に共通するものだそうで、松村秀一は著書のなかで次のように記しています。
「大量販売についてはまったく無関心」という問題。「新しい時代の生産方式として、T型フォードに代表される大衆向けマス・プロダクションを強く意識し、これをハウジングに結びつけようとした」近代建築家たちが次々に陥った落とし穴だったのだそう。歴史上、たびたび優れた住宅のプロトタイプが提案されながらも、大量生産の軌道に乗りきれずに消えていきました。その「大量販売」の仕組みをつくりあげ、大量生産・大量販売の夢を「成功」させたのが、積水ハウスや大和ハウス工業、ミサワホームといった日本を代表する家づくり企業=大手ハウスメーカーでした。
大手ハウスメーカーが牽引し、そして地場の大工さんや工務店が主に手掛けていた木造在来工法の住宅も変化させていった日本の住宅産業。その存在感は「成功」に値しますが、ただ、ここではカッコにくくった「成功」と表記しておきます。はたして大量生産・大量販売の美酒を飲むべきだったのかどうかはまた別問題なわけで、少なくともその後の日本の住文化を考えると、なんとも複雑な思いになります。
ハウスメーカーの「成功」、プレモスの「失敗」といったとき、それは「建築家がダメでハウスメーカーが良い」なんていう雑な話でないのは言うまでもありません。でも、この「成功」と「失敗」の構図は、戦後日本の住宅、そして日本人にとっての住宅を考えるときに、とても大切な切口だとも思うのです。
ハウスメーカー大国・ニッポン
日本ほどハウスメーカーが「成功」した国はないといいます。というか、そもそもハウスメーカー(house maker)という言葉自体が和製英語で日本人にしか通じないという事実はなんとも興味深いなぁ、と思います。wiki先生に聞くと「ハウスメーカーは、日本国内全域又は広範囲の規模で展開する住宅建設会社に対する呼称」という暫定的な定義を教えてくれます。とりあえず、先にも挙げた積水ハウスや大和ハウス、ミサワホームといった会社が当てはまるのは異論のないところかと。
広範囲な規模で展開するためには、当然に「大量生産」が基本ですし、そのためには先ほど述べたように「大量販売」が必須となる。じゃあ、「大量販売」のためには何が必要なの?そこはやはり「大量販売」で成功したハウスメーカー界ナンバーワン・積水ハウスが秘密を握るのは言うまでもありません。
「大量販売」には何が必要かを考える際に、「いいのをつくれば売れる」のではないことは田中誠の証言からもわかります。たぶん売れなかった理由は大高正人や田中誠が指摘する販売体制が構築できなかったこととあわせて、もう一つの理由は、前川國男が社会を善導しようとしたインテリだったこと。大衆の欲望に迎合するのではなく、あるべき日本社会の在り方を住宅とそこに営まれるであろう生活に託した。その誇るべき提案が、それゆえに「失敗」に至る皮肉があったように思われます。
敗戦を経て焦土と化した日本国民のために、安く早く旨い、もとい、住みよい住宅を供給したいと願った前川の試みは、この「住みよい」の部分でつまずいたのでは中廊下と思うのです。そこに前川はモダンリビングというこれからの住まい方と、工業化・合理化という技術者のロマンを入れ込んだのです。でもそれは、あるべき「住みよい」であって、大衆の「住みたい」ではなかった。
そうしてプレモスは「失敗」します。戦後日本の家づくりのリーディングカンパニーとなった積水ハウスの「成功」は、いわば前川の逆張りだと思うと分かりやすい。積水ハウスは工業化の力で未来の住宅を作ろうとスタートしつつも、大衆の欲望に迎合していくことで、見事なまでに変節したのです。いわばお客様第一主義な「節操のなさ」が「大量販売」への道を切り開いた。それを象徴するのが積水ハウス草創期の商品住宅「セキスイハウスB型」(1961)(図1・2)です。
セキスイハウスB型の「革新性」
積水ハウスの歴史は水回りも備えた「家族が暮らせる一戸建て」として日本初の「国産工業化住宅」販売から始まります(大和ハウス工業の「ミゼットハウス」(1959)は水回りのない勉強部屋だった)。その住宅とはプレハブ住宅初の有形文化財(建造物)に指定される伝説の「セキスイハウスA型」(1960)(図3)。
ただ、この「A型」は積水ハウス史の第1頁を飾るものの、販売実績としては失敗でした。商業ベースでの成功はその翌1961年の「B型」まで待つことになります。では、「B型」はどんな意味で「節操がない」のか。
旧・日窒コンツェルンに連なる積水化学工業が、これまでプラスチック建材にとどまっていた商品展開を住宅自体へと押し広げる野望をスタートさせたとき、そのモデルは米国モンサント社によるオールプラスチック住宅「House of the Future」(ディズニーランド内に実験住宅を建設)でした。積水化学工業社長・上野次郎男は業績低迷にあえぐプラスチック事業の販路拡大に多大な期待を寄せます。
ここでまず、第一の「節操のなさ」が発揮されます。住宅開発班は早々に「オールプラスチックは無理っス!」と見切りをつけるのです。そもそもモデルとした「House of the Future」とて実際は大量生産に向かないハンドメイドな住宅でした。ならば、なるべくたくさんのプラスチックを使った住宅を開発しよう。そうして完成したのが「A型」なのでした。
謳い文句は「鉄とアルミとプラスチックがガッチリとスクラム組んだ新しい住宅」。従来の「木と紙と土」でつくられた家から「鉄とアルミとプラスチック」の家へ(図4)。この大転換は、総合化学メーカーである積水化学工業のプラスチック需要拡大といった思惑だけでなく、上野社長はともかく開発を担った須田一男らにとっては、新時代の新住宅を新技術による新素材で実現するという使命感もあったはずです。
でも、売れない「A型」への反省から「B型」では内装に合板を積極的に使用する方向に大転換してしまいます(図5・6)。
これが第二の「節操のなさ」。
オールプラスチックは無理→じゃあ、なるべくたくさんのプラスチックを→むしろ合板じゃね?という展開。新時代の住宅、プレハブ、工業化といったロマン溢れる世界に踏み込みながら、次々と初心も創業精神も見直される「節操のなさ」が「セキスイハウスB型」のいわば「革新性」だったのです。
コンサルティング・ハウジングへ
「セキスイハウスA型」の失敗について、建築学者・西山夘三(1911-1994)は積水ハウスの30年史のなかで次のように記しています。
積水化学工業のなかに即席で設けられたプラスチックハウス開発班は建築現場未経験でした。そんな技術者集団が発揮しえた新時代の住宅開発は、「伝統的な普請感覚で、古い因襲にとらわれる既成の建築技術者よりも、従来の常識に左右されない自由な発想で開発が進められるという思わざるメリットもあった」(積水ハウス『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』)ものの、結果として市場が求める家らしさからの逸脱へつながります。
「A型」発表の翌年に積水ハウスが投入した「B型」(1961)は、ユーザーからの要望を全面的に取り入れたものの、何というか、なんら大和ハウス工業と違わない外観の「フツーのプレハブ」になります。要は「未来感が皆無」だったのです。「プレハブ住宅はどうも安普請感があってダメだ」ということで実大実験棟を建てて性能実験を行います。結果、これがまた高い性能が立証される。ただ、そこで立証されたのは「性能が優れていることは販売には直結しない」=「いいものをつくれば売れる、とはいえない」ということでした。
では、どうやったら売れるか? その模索は、先に挙げた合板の積極使用のほか、その後の積水ハウスに代々引き継がれていく架構方式「ユニバーサルフレームシステム」の導入に至ります。これは、建坪や間取りの自由性(結果として凡庸に)を高めるための路線変更。これにより部材が小型化されます。つまりは現場での作業率増大=プレハブ度合いの低下に直結します。さらに内装面でも従来の木造住宅との差異をなるべく少なく見せる努力を進めるのです。こうした変更(変節)は「プレハブ工法という考え方からすれば、A型ハウスに比べ逆に一歩も二歩も後退したものになった」(『ヒューマンスペースへの挑戦』)ものでした。
さらにさらに、在来木造に比べて「B型」のお値段が高いという点が問題視されると、ウリだったはずの「業界初のアルミサッシ・アルミパネル屋根」をあっさり手放し、木製サッシ・スレート瓦バージョンも販売する節操のなさぶりを発揮。「B型」が建ち並ぶ建売住宅でも、各戸の内装をあれこれ種類を変えて、バリエーションの豊富さで売り抜けます(図7)。
こうしたお客様の要望に徹底して寄り添った「節操のなさ」の研鑽を経て「B型」はその後の積水ハウスを業界ナンバーワンの地位へと押し上げていきます。創業時に胸に抱いた「House of the Future」への憧れも、「プラスチックの夢」もすっかり薄らいだ「セキスイハウスB型」は、なによりも市場ニーズに沿った住宅となったのでした。
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積水ハウス創業30周年を記念する『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』の巻頭には、わが国の建築工業化に対しても多大な貢献をなした建築家・建築学者である内田祥哉(1925-)が文章「創業30周年によせて」を寄稿しています。短い文章ながら興味深い指摘をいくつか行っていて、そのうちの一つが日本の家づくりは、住宅金融公庫を頼りに国民各世帯がマイホームを自力建設したという指摘。それゆえ「製品は、一戸ごとに顧客の要望に応えるものとなり、工業製品としては、異例の一品生産に近いサービスが必要とされた」と。
この問題は、後に積水ハウスが直接販売・責任施工システムを導入する要因となります。車のように代理店販売するものと想われていたプレハブ住宅の売り方革命がここに起こります。内田はさらに次のように指摘します。
「在来構法の影響」。日本の住文化を担ってきた「木造住宅」の存在が、工業化住宅を変質させた。大工棟梁との家づくりしかレファレンスできなかった日本の大衆。その消費者気質に応える努力の過程が、積水ハウス創業半世紀の歴史といえます。現在、積水ハウスは「コンサルティング・ハウジング」を掲げ、顧客に寄り添う「お客様第一主義」家づくりを標榜しています。こうした努力が、他国に見ないハウスメーカーの「成功」へとつながっているのでしょう。でも、それは「ハウスメーカーの成功」であって「工業化住宅の成功」ではないというのがミソ。そして、日本の家づくり文化にとって益ある「成功」だったのかどうか。。。
別の言い方をすると、日本の住宅産業が工業化のメリットを手放してまでも木造住宅を模倣した家づくりに走ったのは、マイホーム自力建設という住宅政策と、上流階級のための普請文化に自分たちも連なると誤解した大工・職人と、一般大衆の邸宅をモデルとする住宅観・家づくり観がその根っこにあるということ。ここにみられる「誤解」が近代建築家の試みをことごとく「失敗」させてしまった。それと同時に、この「誤解」なくしてハウスメーカーの「成長」はなかった。この「誤解」を丁番にした「失敗」と「成功」を踏まえた上で、これからのあるべき住宅像を探っていかなければなりません。
(おわり)
関連記事
1)前川國男とプレモス
2)セキスイハウスA型
参考文献
1)積水ハウス『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』積水ハウス、2010
2)積水ハウス『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』、積水ハウス、1990
3)野田経済研究所『ヒューマンスペースへの挑戦:積水ハウス急成長の秘密』、野田経済研究所、1973
4)松村秀一ほか『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』、彰国社、2013
5)松村秀一監修『工業化住宅・考:これからのプレハブ住宅』、学芸出版社、1987
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