木造建築を科学化せよ!|〈創造的代用〉としての新興木構造【2】
戦時下の日本では木造建築も戦争に動員されました。
「飛行機格納庫は物置みたいなもんで戦勝に貢献しないんだから、そんなものに鉄やコンクリートを使うな」と軍部から命令が下ったことを受けて、戦時下の日本では、格納庫や工場、講堂といった大空間建築を木造で、しかも国産の細小材で造る技術が研究開発されました。それが「新興木構造」。
前回の投稿では、大蔵省営繕管財局に勤める建築学者・竹山謙三郎(1908-1986)たちが、ドイツの「Freitregende Holz bautem」を参考にして、日本においても木構造の大空間建築「新興木構造」を実現した経緯を追ってみました。
あわせて、それが戦時下の資材統制を乗り切る苦肉の策だったにもかかわらず、これからの木造建築の可能性を切り拓くチャンス=〈創造的代用〉と見なされたことをご紹介しました。
「新興木構造」をめぐる当時の語られ方を見ていくと、①未だ前近代化的な木造建築を科学化せよ!という側面と、さらに突っ込んで、②科学技術を日本精神化せよ!という展開が観察できます。
今回はそのうち「木造建築の科学化」について見てみたいと思います。
「大工の木造」と「エリートの木造」
戦争は近代構造の代用として大スパンを構成することを要求し、このため木構造は当然の結果として接合部の解決に発展の岐路を開いた。第一次世界大戦とそれにつづく国内経済の貧窮がドイツの木構造の発達を促したと同様に、わが国においてもまた戦争が木構造の発展を促した。そして先進ドイツの影響を強く受けたのである。
(杉山英男「木構造はこれからだ」国際建築、1955.4)
昭和期に入ると、ドイツの影響のもと「木材を構造用材としてとらえはじめ、また構造を力学的検討をもって裏づけはじめる」。木構造技術の近代化です。幻に終わった1940年の万博施設設計も構造力学の進展に寄与したりして、その流れを受けて、「新興木構造」が登場してくるのでした(図1・2)。
図1 新興木構造の接合部
図2 新興木構造の設計例
たとえば建築学会誌『建築雑誌』に掲載された「新興木構造の話」(1939.5)は、その冒頭、「新興木構造は従来の経験的な木構造法に科学的検討を加え新たに構造理論を導入して産まれたものである」と語ります。
全30頁におよぶ内容を見ていくと、「新興木構造」がどのような観点から木構造の科学化を図っていたかがうかがわれます。冒頭、「新興木構造」を概観し、「建築用木材の力学的性質と許容応力度」、「部材の設計」、「接合部の計算原則」、「接合法の種類及計算」を説明し、最後に設計例、施工について解説しています。
「科学的検討」を加えないとダメな「従来の経験的な木構造法」については、たとえば、『高等建築学・第8巻:木構造』(常磐書房、1936)で次のように書かれています。
木構造は古来わが国において極めてよく発達した建築構造ではあるが、この発達は主として美術的技巧的方面の発達であって、力学的見地からこれを見れば寧ろ幼稚であった。その多くは習慣、経験、目の子に基礎を置いたものである。元来構造力学に基礎を置いて居ない構造物は、構造物の最重要な要素である安全性を確保し難いのみならず、又時には材料の不経済な使用を免れない。
(森徹『高等建築学・第8巻:木構造』)
乱暴に言ってしまうと、これまでの大工たちが造ってきた木造建築は「美術的技巧的方面」はいいかもしれないけれど、「力学的見地」としてはダメダメというのが「新興木構造」の立場。だから技術者・研究者である自分たちがこれを矯正し啓蒙しなければ!というもの。
鉄骨・RC研究から木造研究へやむを得ず転向をキメた建築技術者・研究者たちは、非科学的の代名詞な大工・職人たちの領域をロックオンしたのです。
そんな反・大工的姿勢は、建築学者・田辺平学(1898-1954)がよく使ったキメ台詞、「大工の手より鑿を奪え!」に端的に表現されています。昭和初期、田辺は木造建築の科学化を提唱しますが、戦後になるとそもそも木造建築自体を否定するに至ります。いわゆる「木造亡国」論です。
この木造格差とでも呼べそうな状況を、杉山英男は「大工の木造」と「エリートの木造」と上手く表現しています(杉山英男『地震と木造住宅』丸善、1996)。この両者の溝は結局、戦後になっても埋められることなく両者間の罵り・蔑みに終始していきます。
接合部の解決-ジベル鋲
国産木材の、しかも細小材を長い材木の「代用」とするためには、つないで組み立てることが必須となります。そこで登場するのが膠着接着剤のほか、ジベル鋲とよばれる金物(図3)。
図3 コマジベル
このあたりの経緯を、前回も登場いただいた竹山謙三郎の回想から。
このころ営繕局の先任技手の故堀重蔵氏が、第一次大戦後のドイツで同じ事情から短小木材をつなぎ合せる目的で作られたDübelにヒントを得て、日本式木材継手金物の「コマジベル」を考案した。このジベルを筆者(竹山)がとりあげて接手試験をしたところ、予想外に性能が良かったので、これを用いて張り間三十メートル、戦闘機ぐらいの木製格納庫なら何とか設計する見通しがついた。
(竹山謙三郎『物語・日本建築構造百年史』鹿島出版社、1982)
〈創造的代用〉が求められる戦時下、金物はジベル鋲(トラスばり)だけでなく、ボルト(アーチトラス)、くぎ打ち、ジベル鋲と十字型ジベル等バラエティーに富んでいました。ジベル鋲も圧入式ジベル、内務省型ジベル、噛合せジベル、トラジベル、O式ジベル、輪型ジベルなどなどさまざまに工夫され、いわば「考案ブーム」の様相を呈していたといいます(杉山英男ほか『木質構造建築読本』井上書院、1988)。
この金物による解決については、2点興味深い側面があります。
ひとつは「鉄の信仰」という問題。明治期には、希少価値のある鉄にある種の魔力が感じられていたことを村松貞次郎は指摘していて(『やわらかいものへの視点』岩波書店、1994)、接合金物にはそんな信仰の残滓があったのでは中廊下、と思えます。
ふたつめは、ジベル鋲等の金物の信頼性の問題。建築学者・狩野春一は、戦後の建築学会創立70周年記念座談会で戦時の木造建築開発について、次のように証言しています。
私の関係した海軍の木造建築ではジベルがよく使われました。生木を使って合せ貼りをする。あとからみると、中で遊んでいる。ああいうことを平気でやりました。
(狩野春一「材料・施工:創立70周年記念特集」、建築雑誌、1956.4)
生木がやせて金物が効かなくなるという証言は他の出席者からもチラホラ。不具合ありつつも進しかないのが戦時下。机上の「科学化」が木材という生木に浸食されていく様がそこには見られます。
というか、そもそも「科学化」といえば聞こえはいいですが、計算しなければ建てられない構造物を木造でやらなきゃダメな状況に追い込まれた、が実状だったわけですが。
横溢する数字表・計算図表
当時たくさんの「新興木構造」関連論文・雑誌記事が登場しましたが、建築学者・堀口甚吉は「新興木構造」に関する著書を出版しています。題して『新興木構造学』(竹原文泉社、1941)(図4)。
図4 堀口甚吉『新興木構造学』
堀口は執筆に際し、のっぴきならない時局に対応し「簡明、実用を旨とし、数字表、計算図表」を多用することで、「如何なる多忙な人でも、本書によれば直ちに所期の設計、計算が出来得る」ことをアピールしています。
大工の口伝ではなく、科学技術としての木造建築は、確たるデータやマニュアルに則って建築設計・施工が進められることを求めます。計算図表を重視する姿勢は、当時、ベストセラーとなった小倉金之助の『計算図表』(1940) や、さらには、戦時下に刊行がスタートした『建築設計資料集成1』(1942)などと並行した動きでしょう。建築専門の各雑誌でも「新興木構造」の紹介がつづき、特集も組まれます。
『建築と社会』 木造建築の将来特集 (1930.7)
『建築世界』 大張間架構特輯 (1938.1)
『新建築』 木構造特輯 (1939.7)
『建築雑誌』 新興木構造の話 (1939.5)
『新建築』 新形式木構造特輯 (1943.2)
『建築世界』 特殊木構造特輯 (1944.4)
そこでは技術的なお話しだけでなく、文化・歴史・思想と木構造が関連づけて語られたりしますが、そんな文系な論考と理系な技術資料の配分は次第に後者が増大していきます。その顕著な例が終戦間近の雑誌『建築世界』。「特殊木構造特輯」(1944.4)と題する誌面は、施工写真と図表で埋め尽くされています(図5)。
図5 埋め尽くされる図表
もはや戦時の非常時局は「役に立たない」理屈や講釈に誌面や時間を割いてなどいられない状況にあったのでした。そして敗戦を迎えます。この頃、すでに戦勝に貢献するはずの特攻兵器ですら、ベニヤ板で「代用」された小型モーターボートだったのです。
(つづく)
図版出典
図1~3 『新建築』新形式木構造特輯、1943.2
図4 堀口甚吉『新興木構造学』竹原文泉社、1941
図5 『建築世界』特殊木構造特輯、1944.4
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