増沢洵「最小限住居」からの昭和・平成・令和|なごや建築祭・建前LIVE
先週末、娘ふたりをつれて名古屋へ。考えてみれば3人で電車移動するのは人生初でした。向かうは若宮大通高架下、「建前LIVE」の会場です(図1)。
図1 なごや建築祭・建前LIVE
このイベントは、「新しく迎える令和の時代に、何を伝えていくか?」をテーマに開催される、愛知建築士会名古屋6支部30周年記念事業「なごや建築祭」の一環。木造軸組を原寸大で組み上げたり、上棟餅まきや子どもが組み立てる木製ジャングルジムなどを皆で楽しんだりしようというワークショップです。しかも組み上げた木造軸組の解体ショー付き。
お昼前に会場に着くと、さっそく娘ふたりは組立式のジャングルジム「くむんだー」に大興奮で、皆で組んでバラして、また組んでと合計3回も取り組んでいました。「くむんだー」とはこんなやつ。
さてさて、わたくしのお目当ては、もちろんメインディッシュの「最小限住居(増沢洵)の建前」です。
建坪が9坪という「戦後小住宅」の代表で、俗称「9坪ハウス」。興味深いことに「建前」のLIVEが当初予定していた時間よりずっと早く組み上がり、そして解体できてしまったこと。これは大工さんたちの手際よさはもちろんのこと、「最小限住居」が持つ「デザインの正直さ、単純さ、直截さ、経済性」の威力でもあるんだろうな。
そんな「最小限住居」あるいは「9坪ハウス」について、ちょっと連想・妄想こもごも書きとめておこうと思います。
9坪ハウスの昭和・平成・令和
さて、「最小限住居・自邸」と名付けられた住宅は、1952年に竣工しました。設計者は当時、アントニン・レーモンド建築事務所のスタッフだった建築家・増沢洵(1925-1990)。彼のデビュー作であり、かつ伝説の戦後住宅として知られます。
この「最小限住居・自邸」の木造軸組といえば、現在40歳超えの方々にとっては、リビングデザインセンターOZONEで開催された「柱」展でも再現されたことを思い出されるのではないでしょうか。
「柱」展で「最小限住居・自邸」の軸組が再現されたのが1999年。ちょうど20年前になります。展覧会を企画した萩原修氏は、その木造軸組の美しさに惚れこみ、会期後に引き取って、自邸「スミレアオイハウス」として転生させたわけですが、それから今年でちょうど20周年になります。
ちなみに、20年の節目に「スミレアオイハウス」は住宅としての役割を終えて、一棟貸の宿として生まれ変わるそう。展示物から家族の住まいへと転生し、そして今後は宿泊施設へと生まれ変わるなんてステキなお話です。
そして20年後の2019年、ふたたびというか三度目の「最小限住居・自邸」が「なごや建築祭」で組み上げられました。それは昭和・平成・令和の各時代に対応しています。
昭和の9坪ハウス →「最小限住居・自邸」(1952)
平成の9坪ハウス →「スミレアオイハウス」(1999)
令和の9坪ハウス →「なごや建築祭・建前LIVE」(2019)
「昭和の9坪ハウス」の時代
昭和・平成・令和、それぞれの「9坪ハウス」は各々に時代背景も込められた意味も大きく異なりつつも、ある面ではまた共通しているようにも思います。そんな共通性と差異性に着目しつつ妄想してみるのも楽しいです。
「昭和の9坪ハウス」こと「最小限住居・自邸」は、1951年の秋に設計し、翌1952年に竣工しました。増沢自身、当時の社会背景をこう記しています。
1951年といえば、日米安全保障条約が調印され、前年に始まった朝鮮動乱と相まって社会全体が騒然としていた年であった。その頃、建築の分野では、1952年にレーモンドさんのリーダーズ・ダイジェスト東京支社、村野さんの志摩観光ホテル、坂倉さんの鎌倉近代美術館、1952年には前川さんの日本相互銀行が完成し、住宅では1950年にレーモンドさんのフラットルーフの住宅、坂倉さんの加納邸、前川さんのプレモスNo.72、池辺さんの立体最小限住居、1951年に清家さんの森邸が発表され、1952年には山口さんのローコストハウスが新制作展に出品されるなど、さまざまな動きが展開されていた。
(増沢洵『建築入門』、1980年)
「社会全体が騒然」とするなか、住宅は坂倉準三や前川國男らによる組立住宅、池辺陽の最小限住居といった試みがなされていました。増沢の試みも、こうした動向に刺激され、並走してなされたものです。「最小限住居・自邸」の大きさは1階9坪+2階6坪の合計15坪という延床面積。
敗戦直後の1947年、臨時建築等制限規則が施行され新築住宅は12坪までに制限、1948年には15坪までに緩和、1950年には廃止され建築基準法へとバトンタッチされました。
1939年 木造建築物統制規則
1943年 工作物築造規則、住宅は15坪が限度に
1947年 臨時建築等制限規則、住宅は12坪が限度に
指定生産資材割当規則
1948年 臨時建築制限規則改正、15坪まで制限緩和
1949年 建設業法
1950年 住宅規模制限全面解除
住宅金融公庫法・建築基準法・建築士法
この「15坪以下」という与条件を踏まえ、いかに良質かつ低廉な住宅をつくるかが新生日本の建築家にとって使命となったわけです。
「昭和の9坪ハウス」が建てられた1952年には、戦時中から続いた住宅の坪数制限は撤廃されていましたが、新築にあたり利用した住宅金融公庫(当時は融資を受けるためには抽選に通らなければいけなかった)から受けられる資金から逆算して15坪になったそう。
昭和22年に大学を卒業して23年に結婚して26年になったら前から申し込んであった金融公庫にたまたま当たったんです。(中略)ご覧の通り敷地はかなりありますから(約600㎡)どうにでも建てられる。だけど収入が少ないから公庫から借りられる金に限度がある。
(松永安光「増沢洵:不変の肖像」、1980年)
さらにこう続く。
どういう敷地にあっても建てられるプロトタイプみたいなものをつくってみようかと思ったんです。住宅を考えると奥行きはどうしても3間が最小限になる。2間じゃ駄目だし、2間半でも狭い。それで3間角の総2階を考えたら18坪になる。でも当時の僕の月給だと15坪が融資の限度なんです。そこで3坪の吹き抜けができたわけです。
(松永安光「増沢洵:不変の肖像」、1980年)
建築士がつくる住宅のはじまり
先立つこと2年前の1950年は、建築基準法・建築士法・住宅金融公庫法が立て続けに施行された年。「昭和の9坪ハウス」は、建築基準法に基づき、建築士でもある建築家・増沢洵により、住宅金融公庫の融資を受けて実現した。言い換えるならば、建築士が住宅をつくり社会をつくる仕組みのスタートを象徴しているのです。
今回、「あいち建築祭」を主催する愛知建築士会も、建築士法のスタートにあわせてつくられた団体です。会のホームページにはこうあります。
(公社)愛知建築士会は、昭和25年に制定された建築士法に基づき、建築を通して社会に貢献し、建築文化の発展に寄与する事を目的として、昭和26年に設立された唯一の建築士資格者の団体です。
(愛知建築士会HP)
戦時、そして戦後復興期の混乱を超えて、ようやく一定の質をともなった住宅をつくる恒久的な枠組みが整備された節目が1950年なのでした(さらに言えば前年の建設業法も)。
ただし、1952年の公庫融資住宅は、広く庶民の住宅であったとは言い難い、恵まれた人々の住まいだったことも見逃せませんし、同時にそんな公庫融資住宅が目指すべき庶民の住宅と目されていった歴史も、いま住宅が直面している問題を俯瞰するために重要な前提知識になります。
15坪という、この住宅の小ささが持つ原因(あと、そこから生まれた可能性と誤算)は、当然に当時の「住宅難」によるもの。敗戦直後の「住宅難」は「戦争住宅難」とも呼ばれました。建築学者・西山夘三は「昭和の9坪ハウス」が生まれたのと同じ年に出版された『日本の住宅問題』(岩波新書、1952)でこう記しています。
戦争が特別の住宅難をもたらしたのではない。ただ従来存在した住宅難を大量の破壊を契機とする住宅不足により一層幅広く、勤労階級から比較的上位の小市民層までをまきこみ、『深刻』にしたにすぎない。つまりその深さと広さが、戦争住宅難を特徴づけているにすぎない。住宅難は決して戦争だけが引き起こしたものではない。それは実に現在の資本主義社会の構造から必然的に生まれてくるなやみであったのである。
(西山夘三『日本の住宅問題』、1952年)
戦争によって住宅難が生まれたのではなく、戦争が住宅難を生む社会の構造をあぶりだした。この「なやみ」の解決をも建築士たちは目指したのでした。
さて、この西山による指摘は、実はバブル崩壊後の「平成の9坪ハウス」、そしてハウジングプアと空き家問題が並行して深刻化する「令和の9坪ハウス」にもあてはまります。
経済や政治の不況が「持ち家社会」自体がはらんでいたひずみをあぶりだしている。ふたたび規格住宅が注目される昨今に、増沢の「最小限住居・自邸」が象徴し、あぶりだすものがあるわけです。
9坪ハウスが体現する「商品性」
この「昭和の9坪ハウス」が建つ敷地は200坪と広い。狭小地住宅ではなく、あくまで狭小住宅。土地はあるけれども大きな建物が建てられなかったため、敷地にポツンと建っているように見えます。増沢洵自身、先にも「どういう敷地にあっても建てられるプロトタイプ」と語っていましたが、竣工した年に掲載された『新建築』においてもこう言っています。
建築の使い方が大衆生産的なものに変化して居る現在特に住居は任意の敷地に敷地条件に余り左右されることなくその実現を可能ならしめるものとしたい。
(増沢洵「新建築」1952年7月号)
さらにはこう語ります。
敷地に対してどう解決するかということよりもむしろ逆に、どんな処にでも建てられる家といったものを(物干も含めて)目標にして、その方向へそれまで学んできたことを集注した。その結果、建物そのものには時間をかけて設計したが、その反面、周囲の環境とか、敷地をゆっくり眺める余裕を失い、この大切な過程を深く考えずに終ったので、道からのアプローチとか、積極的な土地の利用といった点は曖昧になってしまった。
(増沢洵「新建築」1957年3月号)
この「どんな処にでも建てられる家」という性質は、戦後の資材・資金難を受けての住宅の小ささという消極的条件と、戦後民主主義を象徴する「格式から生活へ」に注力した「大衆生産的なもの」の実現といった積極的な意味合いまで含むもので、その性質はその後に隆盛する住宅の「商品化」を先取りしています。
「昭和の9坪ハウス」が孕んでいた「商品性」は、「平成の9坪ハウス」にも継承され、そして、まさに商品住宅として販売されることになりました。当時、ネットを活用したユーザー参加型の家づくりを研究していた岡崎泰之が「スミレアオイハウス」のオープンハウスを訪れた際のエピソードが本に記されています。
岡崎は「この家を売りたいんですけど」と施主・荻原修に話しかけます。
その冗談とも本気とも区別のつかない申し出にちゅうちょしてその場は別れた。そのときの岡崎さんの心境は、はかりかねるけど、あとから聞いた話だと、「実物を目の前にして、なんとなく手にとって買えそうな気がしたんです。ネットショップで購入ボタンを押すと家が買えることをイメージしてました」という。
(萩原修『9坪の家:つくって住んだ、こんなに快適!』、2010年)
この着想は現実のものとなり、ウェブサイト「Boo-Hoo-Woo」にて2002年に販売されました。よくある「商品住宅」を超えて、家具・雑貨と同じようにネットで販売される、まさに平成の「商品住宅」として「最小限住居・自邸」は再生したのでした。
このように、昭和の、そして平成の「9坪ハウス」は、総じて高い「商品性」をまとっているのでは中廊下と思われるのです。それでは「令和の9坪ハウス」はどうなのでしょうか。
聞いたところによると、今回の「建前LIVE」で組み立てられ、そして解体された軸組は、遠く海外にて活用されることが決まっているのだそう。「9坪ハウス」海を渡る。
はたしてそこでどんな活用されるのかはわかりませんが、海の向こうでいろいろな「9坪ハウス」がつくられていくのも、「建築の使い方が大衆生産的なものに変化して居る現在」の令和版と思えてワクワクします。
「令和の9坪ハウス」から
「新しく迎える令和の時代に、何を伝えていくか?」をテーマに開催された「なごや建築祭」。そこで「建前LIVE」として、増沢洵の「最小限住居・自邸」が召喚されたわけですが、この、いわば「令和の9坪ハウス」は何を指し示してくれるのでしょうか。
その答えを指し示すにはヘッポコすぎる知見しかもたない自分なので、「昭和の9坪ハウス」が指し示したものを振り返って、思索のための足場つくりにしたいと思います。
「昭和の9坪ハウス」は、戦後復興を目指して、より安く、かつ早く、しかも文化的であることが求められました。そして新しい生活様式(畳中心から椅子座へ)や家族形態(夫婦中心の家族構成へ)への対応も求められました。
こうした戦後社会の動きを受けて、建築家たちはそれぞれに住まいの提案を打ち出していったのでした。その実現のために、合理主義や機能主義に拠った住宅平面の検討がなされたり、住宅建築の工業化も積極的に採用されたりしました。
ところが、建築家が率先して庶民のあるべき住まいを考え、そしてその実現のために工業化の手法も取り入れていった時代も長くは続かず、その後、庶民の住まいは日本住宅公団や公営住宅、さらには民間デベロッパーが扱う領域へ変わっていき、工業化も大手プレハブメーカーが得意とする分野となっていきました。
あわせて、そうした動きへのオルタナティブとして打ち出されたセルフビルドや地域工務店といった動きが、結果的に建築家とハウスメーカーの間に過度なまでの「断絶」をもたらしてしまいました。かつて両者は対立するものではなく、むしろ協働関係にすらあったのに。
令和へと時代は変わり、戦後の昭和とはまた異なった生活様式・家族構成への対応が求められています。また、大工・職人不足はもちろん、大工・職人の世界で働く人材も、以前のような職能観や労働観とは異なってきているともいいます。かつての「断絶」も少しずつ溝が埋まりつつある動きがあちこちでみられます。
また、住むことや家をもつことが考え直され、戦後復興期とはまた違った文脈で、小屋ブームや平屋ブームといった小さな住まいへの注目も高まってきました。
たとえば、無印良品の「陽の家」とか。
建築は時代と共に歩む。したがって建築を見れば、その時代の文化と人間のありようが読みとれる。近いところで例を挙げれば、終戦を挟んでのバラック時代、やや落ちつきをもどした頃の小住宅時代、高度経済成長期を迎えての量の時代、その後の質への時代等々、建築はまさに時代を映す鏡といえよう。
(増沢洵『建築入門』、1980年)
「令和の9坪ハウス」は、ふたたび大きく変わりつつある「時代の文化と人間のありよう」を指し示してくれます。
(おわり)
参考文献
増沢洵『建築入門:建築現場実務大系』井上書院、1980年
萩原修『9坪の家』廣済堂出版、2000年
萩原修『9坪の家:つくって住んだ、こんなに快適!』廣済堂出版、2010年
松永安光「増沢洵:不変の肖像」、新建築1980年12月臨時増刊「住宅設計の手法」、新建築社、1980年
大橋竜太「最小限住宅の遺産」、新建築1995年12月臨時増刊「現代建築の軌跡」、新建築社、1995年
平良敬一編『住まいの探究:増沢洵1952‐1989』、建築資料研究社、1992年
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