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「建築文化」のこころ|彰国社と戦後日本、住まいの復興

祝・#彰国社 創業90周年! 1932年6月1日に始まった建築出版の老舗、彰国社。今日で創業してより丸90年がたちました。おめでとうございます。『建築学大系』そして『新建築学大系』を世に出した彰国社は、建築出版のあゆみのなかで重要な位置を占める出版社です。

そんな歴史ある彰国社ですが、敗戦直後には田辺泰、服部勝吉といった同社ゆかりの人々が編んだ住宅図集はじめ住宅関連図集をいくつも出版したことでも知られます。下記リンク先はPDFで『彰国社創立五十周年』所収の同社刊行図書等年譜が公開されています。

https://www.shokokusha.co.jp/pdf/50th.pdf

戦後復興期の彰国社住宅図集

戦後復興期の彰国社住宅図集

たとえば、同社刊行の「図集」をざっとラインナップするとこんなカンジ。

田辺泰編『小住宅図集』1946
服部勝吉・吉村孝義『十坪住宅図集』1947
蔵田周忠『商店建築図集』1947
農林省編『農村小住宅図集』1947
服部勝吉・関新五郎『和風小住宅図集』1949
田辺泰編『洋風住宅図集』1950
田辺泰編『新時代住宅図集』1950
都市建築研究所編『コンクリート住宅図集』1950
日本建築士会編『コンクリート造アパート図集』1950
中井太一郎・西川驍『住宅室内図集』1950
中善寺登喜次『店舗設計図集』1951
れんさく編『図集すまいの設計』1951
日本建築学会関東支部『一戸建住宅設計図集』1952
北尾春道『数寄屋住宅図集』1952

などなど。しかもこれら図集はけっこうな割合で、国立国会図書館デジタルコレクションで自宅に居ながら閲覧できてしまいます。うれしいやらおそろしいやら(閲覧できると実物がより欲しくなるのでキケンです)。

刊行当時の雰囲気を知るために、ためしに1946年刊行『小住宅図集』の「はしがき」をみてみましょう。

この度の戦争で全国的に喪失した住宅の数は、二百数十万戸に達した。この禍を福とし、わが国が平和的文化国家の樹立をめざすためには、この復興に極力邁進することこそ、現下の急務であらねばならぬ。然し色々今日の国家的情勢から、その事業が遅々として進捗しないのは、まことに遺憾であるが、やがて復興さるべき明日の住宅は、新時代の理想的住生活をめざすもので、新日本文化の象徴とするに足るものでなければならぬ。

田辺泰「はしがき」、『小住宅図集』1946年

「新日本復興のため」に「今後建設さるべき住宅の指針」を「図集」としてまとめたのでした。寄せられた住宅案は、吉阪隆正や飯塚五郎蔵、安東勝男、谷資信など戦後日本を代表する建築家たちでした。

あるいは翌、1947年刊行の『十坪住宅図集』はどうでしょう。服部勝吉が書いたであろう「まえがき」は2段組、9頁におよんで、日本国憲法が公布されたことの意味から、日本住宅の歴史的展開と問題点、そして図集に収録された住宅案の要点を丁寧に記しています。

昭和二十一年十一月三日、芽出度くもこの日、新憲法が公布された。新生日本のあゆみは、公式にこの日から始まったのである。七千万の国民は、各自にそれぞれその分に応じてその職にしたがって、心からこれを喜び、且つ切実な感慨にふけるひと時を持ったことであろう。そうしてその新生の努力を誓う厳粛な興奮にじっと身をまかせながら、久し振りに遠く旭日昇る東の空を仰ぎ見る晴晴とした、心強い衝動にかられたことと思う。兎に角終戦後一ヶ年の間、吾々の生活の上に覆いかぶさっていた暗澹たる空が、その一端から破れて、秋日清爽の今日、始めて新生の曙光を望み見る心地よさを味わい得たのである。

「まえがき」、『十坪住宅図集』1947年

「図集」と銘打っていない住宅関連本も、田辺泰『住宅雑爼』(1946)や太田博太郎『日本の住宅』(1948)などたくさん。宇治山田市(現・伊勢市)と日本建築学会が共催した「復興住宅懸賞設計図案募集」の入選作を収録した『住宅設計作品集:懸賞当選』も1949年に刊行しています。彰国社は戦争で焼け野原となった日本の生活復興を下支えするために、出版業の建て直しを進めたのでした。

日本建築による文化復興

創業50周年を記念して刊行された『彰国社創立五十周年』(彰国社、1982)には、創業から戦後にかけて彰国社があゆんだ歴史を、当事者たちの言葉でもって知ることができる貴重な資料です。

たとえば「彰国社創立五十周年記念座談会:半世紀の歩みを振り返って」では、服部勝吉、太田博太郎、下出源七、清水英男がざっくばらんに思い出話に花をさかせていて興味深いです。

また、稲垣栄三、関野克、武基雄、渡辺忠志などなどが寄稿していて、それぞれに引用したくなるのですががまんして、ここでは服部勝吉の文章を少し引用します。

さて敗戦後の、あらゆる出版物資の不自由な中に、彰国社は改めて独立・復帰、再度の旗挙げを敢行したのである。そうして何冊かの薄い住宅図集を出したのは、彰国社の立場を理解した同人と言ってもよい三、四人の人たちの協力であった。

服部勝吉「想起」『彰国社創立五十周年』所収

彰国社社長・下出源七と懇意だった田辺・服部コンビは1946年に研究所を立ち上げ建築専門誌を創刊します。その雑誌の名は「建築文化」。1946年4月の創刊当初、雑誌の表紙には五重塔があしらわれていました。

雑誌「建築文化」の第一号、第二号

そして一号の口絵は名古屋城。天守、金鯱、御殿対面所、対面所障壁などが収録されているのです。なぜ名古屋城なのか。それは言うまでもなく、さきの空襲で焼失してしまったから。服部勝吉は「名古屋城の追憶」と題した小文を寄せています。

間違った戦争の酬とは云え、敢無くもこの名城を烏有に帰して了ったことは、誠に残念至極のことに思う。誰を怨もう術もないとは云え、名古屋城の貴さを知れば知るほどその憾は一層深いものがある。

服部勝吉「名古屋城の追憶」建築文化、第一号、1946年4月号

依然として出版事情きびしいなか、毎号32頁という薄いに民主主義日本の住宅像、住宅復興の道筋、そして日本建築史関連記事がならんでいます。たとえば、第一号・第二号の目次を抜き出してみると。。。

第一号目次
新住居建設への前提条件(今和次郎)
新世代の建築文化(藤島亥治郎)
敗戦から都市再建へ(小坂秀雄)
禅宗建築伝来の時期(太田博太郎)
西芳寺庭園に関する資料と考察(一)(吉永義信)
台徳院霊廟(田辺泰)
名古屋城の追憶(服部勝吉)

第二号目次
民主主義の建築文化(新居格)
日本人の住宅観(田辺泰)
復興住宅への試案(安東勝男)
日本住宅建具の歴史的意義(関野克)
舟屋形遺構(一)(服部勝吉)
西芳寺庭園に関する資料と考察(二)(吉永義信)
失われた国宝建造物(編集部)
日本遺蹟遺物発明発見史話

彰国社刊「建築文化」第一号、第二号より

日本の建築文化に目を向けた同誌の編集方針を、一号の「あとがき」からうかがえます。そこにはこう書かれているのです。

日本には、古く美しい愛すべき文化があつた。日本は古い芸術の美しい国である。誠に芸術的に高い技術を示した嘗ての吾々であった。(中略)全てに失敗した今、吾々が強く再起するには、先ずかうしたところにいささかの自尊と自主の心をうち樹てるのが最も捷径であり、必要なのであろう。

建築文化、第一号「あとがき」(H生=服部勝吉)

皆が自信も自尊心も失っていた敗戦日本にあって「本当の日本国民のよさを正視し把持して、そこに少しでも平和な国民、正しい人間としての自信を持ち、生活の上に心の余裕と自主的な拠り所を発見する機会」をもたらす「古く美しい愛すべき文化」を論じること。「建築文化」という誌名にはそんな思いが込められていたのでした。

(おわり)

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