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若者よ大きな夢と意欲で世界に冠たる日本人になれ!|坂倉準三「小供の計画」のひみつ


日本の歴史上いまほど若者たちの大きな夢やパワフルな意欲が求められる時代はない。でも、いまほどそんな夢や意欲を冷笑する大人たちにあふれた時代もない・・・。

そんな出だしで若い世代に期待と共感を寄せるメッセージが、いまからもう70年以上も前の建築雑誌『新建築』(1941年4月号)に掲載されています。なんだかこの時代認識は、まんま今の時代にも当てはまるような気がしますが、案外といつの時代もそうなのかもしれません。

1941年という戦時下の日本にあって、若者の夢と意欲を称えるそのメッセージは、いったいどんな内容だったのでしょうか。じっくり読み進めていくと、先行き不透明な時代に人々を鼓舞する独特な「語り方」が見えてきます。

若者たちへのメッセージ

このメッセージを書いたのは戦後日本を代表する建築家・坂倉準三(1901-1969)(図1)。

図1 坂倉準三

坂倉がエールを贈った先は、東京都市改造計画「新しき都市」(1941)(図2)を共同提案した内田祥文(1913-1946)たち若き日大チームでした。

図2 新しき都市

メッセージ冒頭をさきほどの意訳でなく、原文でみると。。。

日本の歴史に於いて今日ほど若き世代の大いなる夢と逞しき意欲とを要求することの切なる時代はない。そしてまた、今日ほど矮小化された日本人によって、この逞しき夢と意欲とのゆがめられ蔑まれている時代はない。大いなる世界日本人の真の姿としての汚れざる小児の逞しき夢は、彼等矮小化された所謂専門家にはまことに笑殺すべき非現実的な計画として映ずることであろう。しかし遠大なる建設の計画は、人々がその計画を笑殺するときにこそ樹てられなければならないことは、過去の歴史がはっきりと実証している。
(坂倉準三「小供の計画」1941)

内田祥文のほか、市川清志(1917-1986)や濱田美穂(1915-1988、のちの浜口ミホ)たちは、当時まだ20代の若者たち。彼らが共同で設計提案した「新しき都市-東京都市計画の一試案」は、東京銀座の紀伊國屋で展覧されたあと、『新建築』誌(1941.4)まるごと一冊「新しき都市特集号」と題して収録されます(図3)。

図3 新しき都市特集号

そんな「新しき都市特集号」には、当時の建築界でビッグネームだった内田祥三(1885-1972)の「大都市の改造」、前川國男(1905-1986)による「埋もれた伽藍」、そして坂倉準三の「小供の計画」が寄稿されています。

冒頭に紹介したのは、この坂倉準三による寄稿文「小供の計画」。これがまた他の二人の文章と比べても、とっても厳めしく煽りのキツイ文体なのです。

当時、パリのル・コルビュジエの事務所勤めから帰国した坂倉のもとには、「まだ東大の学生だった丹下健三、浜口隆一、内田祥文、あるいは、芸大の柳宗理などが集まって、その仕事に協力し、新しい運動の拠点としての雰囲気を、胚胎させていた」のだそう(川添登『建築家・人と作品(下)』井上書店、1969)。坂倉が若者たちへ寄せたメッセージは、こうしたサークルで共有された空気ともつながっているのだと思われます。

そんな坂倉の文章はわずか1300字程度。内田祥文たちの提案について「いま内田君たち若き世代の建築家たちが、抑えられない意欲と国を憂うるの真情とを「東京都市計画試案」に盛って、その第一回展をあえて世に問うたこと」は「現在の国土経営、都市経営の計画の矮小化に対する一つの反撃として意味あること」だと高く評価しています。

そのうえで、坂倉は彼等の提案を「小供の計画」と名付けます。「日本の歴史において今日ほど若き世代の大いなる夢と逞しき意欲とを要求すること切なる時代はない」。そんな時代に「大いなる世界日本人の真の姿としての汚れざる小児の逞しき夢」を描くことがいかにスバラシイことかを熱くアジったのです。

坂倉の文章を読んでいくと、「世界日本人」と「矮小日本人」という対比だったり、「大人」と「小供」あるいは「小児」といった対比がみられます。また、「必然性と可能性」だとか「大いなる夢」、「伝統復興」、「世界史的創造」といった語句もたびたび用いられています。これって、なんなんでしょう。

〈大人〉と〈小供〉

坂倉は文中で何度も〈大人〉と〈小供(あるいは小児)〉を対比的に用いています。この場合「小供」という表現は貶下的なニュアンスはなく、むしろ称えられるものとして用いられているのに注意が必要です。

いわゆる現実的にして、しかも見透しのない点で最も抽象的なる計画、歪められ、汚された矮小日本人のいわゆる大人の計画を反撃し、必然性と可能性との汚れざる見透しの上に基かれた小供の夢の計画を絶叫するのである。
(坂倉準三「小供の計画」1941)

〈大人〉と〈小供(あるいは小兒)〉の対比を整理するとこんなかんじ。

《大人=矮小日本人(汚れ・所謂抽象的)→大人の計畫》
《小供=世界日本人(純眞・大いなる夢)→小供の計畫》

そういえば「小児」を称えるのって、坂倉がシャルロット・ペリアン(1903-1999)と共著で出版した『選択・伝統・創造:日本芸術との接触』(1941) でも「豊かな想像の力は、社会がその人を打ちたたかない前にはすべての人の中にあるものであることを小児が証明している」と表現しているように「創造する力」が未だ妨げられていない状態として使われてました。

〈伝統復興〉と〈世界史的創造〉

「小供」たちによる「逞しい夢」や「大いなる夢」によって、「世界史的創造の段階」へと移行していくのだ。そう坂倉は言います。「世界史的創造の段階」って???ですが、坂倉はこう続けます。

今や我が日本が近代欧米の植民地侵略によって、全く蹂躙せられ荒廃したアジア、太平洋圏の上に再び東洋の偉大なる伝統を復興し、新たなる世界史的創造の段階に進まんとする。
(坂倉準三「小供の計画」1941)

「世界史的創造」だとか「日本世界史」といったボキャブラリーに、哲学者・高山岩男(1905-1993)の『世界史の哲学』(1942)に代表される京都学派の影響をみてとることもできなくもない。でも、どうやら坂倉準三の場合はそうじゃなくって、坂倉の協働者としても知られる哲学者・小島威彦(1903-1997)たちによる日本世界主義、より具体的には「スメラ学塾」の言論からの影響といえそうです。

その動かぬ証拠が、小島威彦らが主導する「スメラ学塾」の設立趣意書です。講義録『スメラ学塾講座』(全4期、1940-42)の巻頭に収録された「スメラ学塾趣意」には次のような文章があります。

茲に我が日本は、近代欧米の植民地侵略によって、全く蹂躙せられ荒廃したるアジア、太平洋圏の上に、再び東洋の偉大なる伝統を復興し、新たなる世界史的創造の段階に進まんとする。
(「スメラ学塾趣意」)

そうです。全く同じ文面なんです。

スメラ学塾と坂倉準三

突然でてきた「スメラ学塾」を説明する前に、戦時中の坂倉準三について少し触れておきます。複数の人物が口を揃えて、あの頃の坂倉はおかしかったと証言しているのです。

たとえば、義父・西村伊作(1884-1963)は坂倉の取り巻き連中のなかに「中(ママ)小路という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった」と言っています(『我に益あり・西村伊作自伝』紀元社、1960)。

また、建築評論家・浜口隆一(1916-1995)は「あの当時の坂倉さんも精神的にはすこしおかしかったと思います」と回想し(「創立70周年記念座談会・デザイン」建築雑誌1956.4)、建築家・丹下健三(1913-2005)は「坂倉邸の居間で夜更けまでル・コルビュジエの話などに興じているさなか、突如、坂倉は、天をにらんで祝詞のような叫び声を上げることがあった」と証言しています(藤森照信『丹下健三』新建築社、2002)。

西村伊作の言う「中小路」とは哲学者・仲小路彰(1901-1984)。彼に寄り添うように小島威彦がおり、そして坂倉準三がいて、洋行帰りの知識人・文化人の文化サロンを形成していたのでした。その団体名が「クラブ・シュメール」。政治団体が「スメラ学塾」。

スメラ学塾の思想で最も度肝を抜かれるのが、「日本・シュメール起源説」です。シュメール文明がはるか日本へ流れ込み国家を建設した。それが神武天皇だというもの。これは転じて、日本が世界を統治する「正統性」を担保する証拠とみなされます。「シュメール」と「スメラミコト」は似てますよね、という。

「小供の計画」を書いた翌年に坂倉が展示設計を行った「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(1942)(図4)は、小島威彦らを中心としたスメラ学塾の世界観を提示する内容でした。

図4 アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展

そこでは「アジア復興」と「世界維新」がつなげられていて、坂倉が「小供の計画」でも語った「東洋の偉大なる伝統を復興」だとか「新たなる世界史的創造」の源泉としてのイタリア・ルネサンスが紹介されたのです。

若き内田祥文らが描いた都市提案「新しき都市」の時代は、太平洋戦争勃発前夜。坂倉は、「日本が次に来るべき世界史を統一するにふさわしい必然性と可能性とがいかにあるかということを、はっきり明瞭に把握」しないとダメだと言います。その背後には、ルネサンスと世界維新や伝統復興をつなぐアクロバティックな思想があるのでした。

『新建築』の特集号には、扉絵にロダンの彫刻やミケランジェロの絵画が掲載されています(図5)。

図5 扉に掲載されたミケランジェロ

それは、単に分析考察=「考える人」と建築創造=「アダムの創造」に対応したディレッタンティズムじゃなく、また、丹下健三の論考「ミケランジェロ頌」に刺激されたわけでもなく、ルネサンスと世界維新や伝統復興をつないでみせる「日本世界主義=スメラ学塾」的な世界観への応答として選ばれたと見なせるのでは中廊下、と思うのです。

日本の歴史上いまほど若者たちの大きな夢やパワフルな意欲が求められる時代はない。でも、いまほどそんな夢や意欲を冷笑する大人たちにあふれた時代もない・・・。

そんな状況下、人々の心を鼓舞し前進する勇気をもたらすロジックとして、日本世界主義=スメラ学塾は機能したのかもしれません。坂倉や小島といったスメラ学塾のメンバーは、総じて海外遊学の経験を持つエリートたちでした。遊学先で親交のあった岡本太郎が縄文にハマったのも実は同じ構図。

西洋文明の圧倒的優位を目の当たりにした彼等が、日本に帰国してから大きく右に旋回したのは、西洋文明への反発というよりは、西洋文明を突き抜けた先にありもしない日本のオリジンを見つけたから。

いってみれば、真正なる「建築」(=ル・コルビュジエ)を建てる資格を有するのは我ら「世界日本人」であり、「日本的世界秩序」とはル・コルビュジエが東京に舞い降りることなのだと。西洋文明への劣等感を一気に挽回できるウルトラC(死語か・・・)が「日本世界主義」なのでした。

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異なるもの同士をつなぐ。それはアイデア発想の大原則だし、あらたな時代を切り拓く大切な思考力でしょう。ただ、似ているものをつなぐという発想は「混ぜたらキケン」なこともある。

法隆寺の柱にパルテノン神殿のエンタシスを見るのなんて比でないその勇ましさは、少なくとも坂倉の建築創造を鼓舞し、下支えしたわけで、その「ありもしない日本のオリジン」を夢想した「来るべき世界日本人」への時間はきっと戦後の華々しい活躍の下地になったのでしょう。

(おわり)


※「小供の計画」の引用にあたっては、読みやすさを優先するため、新字新仮名遣いに改めたほか、一部漢字をひらがな表記にし、適宜、句読点を加えました。

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