ひとつひとつの材木にも心を配る家づくりを|坂倉準三「一日本小住居」を読む
いまでは月刊化されている『新建築住宅特集』ですが、昔は散発的に組まれる『新建築』の特集号としてありました。1942年1月号もそうした「住宅特集」の一冊です(図1)。
図1 新建築 1942年1月 住宅特集号
その内容はといいますと、30坪小住居特集と題して、坂倉準三「一日本小住居」、吉田五十八「岡田氏邸」のほか、三菱地所建築課「磯氏邸」、竹中工務店「某邸」、そして住宅営団「パネル式組立住宅」が掲載された豪華内容。で、坂倉準三の「一日本小住居」って何?となるわけです。
掲載されているのは「飯箸邸」(1941)(図2)。一時は取り壊しの危機に直面しながらも、2007年、フレンチレストラン「ドメイヌ・ドゥ・ミクニ」として生まれ変わったことが話題となりました。
図2 坂倉準三「飯箸邸」
そんな「飯箸邸」を掲載する誌面に、坂倉は自ら文章を寄せています。題して「国民住居」、そして「神々の復活」のふたつ。
「一日本小住居」に寄せた「国民住居」と「神々の復活」と題した不思議な短い文章は、その内容もまた不思議。そこには、戦時下という不思議な時間が流れていることに気づくとともに、戦争犯罪とかトンデモとか簡単に切り捨ててしまってはならない、近代の歩みの一端、わたしたち自身の今にもつながる問題があるように思えるのです。
以下の文章は、戦時の坂倉準三を非難することを意図したものではありません。当時たしかに共有されていた異なる価値観に想像力を及ばせつつ、坂倉準三が時代の最前線で建築創作に立ち向かったからこそ垣間見えてしまった景色を、辿ってみたいと思います。
坂倉準三「国民住居」の意味
『新建築』に坂倉が寄せた文章「国民住居」について、建築史家・松隈洋氏はこう言います。
1940年、近衛内閣による新体制運動の機運のなかで活発化した「国民住居」論議、そして、ペリアン来日に刺激された日本の伝統への関心。それが坂倉の文章の背景にあると松隈は指摘しています。
そんな坂倉の文章「国民住居」。冒頭、陶芸家・濱田庄司を訪問した際に彼が語ったセリフからはじまります。以下ちょっと長いですが引用してみます。
使われてるボキャブラリがどう考えても濱田庄司というより坂倉準三では中廊下って疑念は置いておくとして、そのあと、濱田は民屋の新築に際しては、自ら山に入って材木を選び、どの木をどの部分に使うか吟味したり、工事中は各種祝宴を盛大に行ったりするのが本来だと語ります。
こうした日本古来の「我が家を新しく建てる」ことへの伝統的態度、そして、それが失われている現状への批判。これらをもって、松隈は建築学会等の「国民住居」論議への批判や、ペリアンを介した伝統理解を読み取るのです。でも、本当にそうでしょうか。
坂倉は濱田のセリフを一通り引用したあと、戦時中ならではの煽りが登場します。
ここまで読んできて気づくのは、坂倉の小文の背景には、建築学会等が進める住宅基準への批判や、ペリアンを介した日本伝統への関心というよりは(それはそれであるだろうけれども)、むしろ、ナチスドイツの国民住居=Volkswohnungに対応させたものだと思われます。
また、「矮小化した日本人」だとか「大皇国」といった表現からは、小島威彦・仲小路彰らが主催し、坂倉も主要メンバーであった思想団体「スメラ学塾」のボキャブラリの影響を読み取るのが自然でしょう。
その推測は、坂倉が「国民住居」とともに寄せた文章「神々の復活」を読むと確信に変わります。
坂倉準三「神々の復活」の意味
坂倉の「飯箸邸」が掲載された『新建築』特集号が刊行された1942年1月は、日本が真珠湾攻撃を仕掛け太平洋戦争へと突入した翌月にあたります。その興奮冷めやらぬ思いが、「飯箸邸」を紹介する誌面のなか唐突にあらわれます。
もう「飯箸邸」はどこへ行っちゃったのよ?な内容だけれども、坂倉は本気かつ正気です。さらに坂倉は拳をきかせます。
「日本人は再び日本を中心とするアジア、太平洋圏に神々として復活するであろう」といった表現は、平成も終わろうとしている今の視点から見ると、意味不明にみえます。これは、シュメール文明とスメラミコトをリンクさせるスメラ学塾的コンテクストでいうところの「ムー大陸」云々な話とつながっています。戦時期とはそういう時代でした。が、ちょっと深入りは止めときましょう。
当時、坂倉準三は日本生活科学会・国民標準住宅分科会で、まさに「植民地的奴隷的矮小陋屋」(スゴイなこの表現・・・)にかかわる住宅基準策定を分担しながらも、会議を欠席ばかりしていました。それは仕方がないことだったのかもしれません。坂倉が設計したいのは、「日本世界建設」の上に建つ真の「国民住居」だったのですから。
アジア復興レオナルド・ダ・ヴインチ展
さて、1942年1月の「住宅特集」をみてきましたが、同年8月に『新建築』は「アジア復興レオナルド・ダ・ヴインチ展」特集号を組んでいます(図3)。今の感覚からすると、「アジア復興」と「レオナルド」がくっついてるのが意味不明かもしれません。
図3 新建築 1942年8月号 レオナルド特集号
このレオナルド・ダ・ヴィンチの展覧会はもともとイタリア、そしてアメリカで開催されたもので、日本へはアメリカとの開戦前に展示物が輸送され、東京上野池の端産業館で、1942年夏から秋にかけて開催されました。ちなみに会場設計は坂倉準三。
開催主旨の末尾は、これまた戦時の煽り構文が続きます。以下引用してみます。
美術から機械工学、都市計画、戦争兵器にまでおよぶレオナルドのマルチな才能ぶりを、いまでは「発明の父」といった呼び方をしますが、当時はむしろ「総力戦の父」みたいなとらえ方がされたようです。
そんな展覧会について『新建築』は坂倉の会場設計のみならず、展示内容も詳細に掲載しています。そもそも本号の企画・編集は坂倉の事務所が担っていました。
さすがに日本展で特に付け加えられた「世界歴史大壁画」というナゾの展示物については、『新建築』では見出しのみ記しています。とはいえ、その見出しだけ見ても、なかなかの意味不明ぶりなのですが。
この見出しにそって大壁画が展示されたのです。実はこの展覧会の解説書が出版されています(図4)。
図4 アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展解説
それを読むと、特にナゾな「日本世界文化復興」なる展示内容が次のような要旨であったことがわかります。
この展覧会の主催は財団法人・日本世界文化復興会。実質的には小島威彦や仲小路彰といった、坂倉も参加する文化サロン、スメラ学塾が関与したもので、そこで示されてる世界観も完全にそのスメラ学塾的ボキャブラリで埋め尽くされています。
坂倉が『新建築』掲載の「飯箸邸」へ寄せた文章「国民住居」と「神々の復活」は、同じく『新建築』に掲載された「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展」とつなげて読んでみることで、そこで語られる内容や、そもそもの語りっぷりが理解できるのです。
洋行帰りの知識人はなぜ誇大妄想狂となったのか
坂倉準三の義父である教育者(同時に建築家でもあった)西村伊作(1884-1963)は、戦時中の坂倉について「連中の中に中(ママ)小路という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった」(『我に益あり・西村伊作自伝』、紀元社、1960)と証言しています。
東京帝国大学の文学部美術史学科を卒業後、フランスで建築家ル・コルビュジエに師事、パリ万博日本館で高い評価を得た知識人でありお坊ちゃまであった坂倉準三は、そして同じような境遇であった彼の取り巻きは、なぜこぞって「日本世界維新」なんぞを唱える「誇大妄想狂」となったのでしょうか。
その原因を評論家・渡邉一民は「フランスへの幻滅」にもとめています。
1940年、パリがナチスの手に陥落したという衝撃がフランスへの幻滅へとつながり、さらにはフランスを深く愛していたからこその反動として、猛烈な日本回帰をもたらした。「西欧のそれにかわる新しい世界にかかわる思想」が、坂倉たちの場合は「スメラ学塾」だったのでしょう。
ただ、重要なことは、そんな「誇大妄想狂」に取り憑かれた思想でもって生み出された「飯箸邸」は傑作だという揺るぎない事実です。少なくとも「スメラ学塾」という「新しい世界にかかわる思想」は、坂倉の建築創造を大いに鼓舞したはずです。その結果、木造モダニズム建築の傑作として称えられ、あの前川國男自邸にも影響を与える住宅が生み出されました。
それは、建築家が建築を創造するにあたって、自らを鼓舞する思想が重要でありながらも、その思想は生み出された実作とはさしたる関係がないということ。今と価値観からはウンコな煽り構文から建築の傑作は生み出しうるし、透徹した思想が凡庸な建築を生むこともある。でも、いずれにせよその思想なくして、その建築は生まれなかったであろうという矛盾。
同時にそれは、よく似た建築があったとしても、その創作のもとになった思想もまた同じだなんて保証は全くないことも教えてくれます。実際、坂倉自身、スメラ学塾的=日本世界主義的な思想に転向しつつも、依然としてル・コルビュジエの建築は理想像だったのだから。
そしてまた皮肉なことに、坂倉が「国民住居」で否定的に紹介した「民家を買って移し建てる人達が増えた」というエピソードをなぞるかのように、「飯箸邸」存続の危機は、世田谷から軽井沢への移築、さらには住居からレストランへの転生として回避されたのでした。
にもかかわらず、というか、やはり「旧飯箸邸=ドメイヌ・ドゥ・ミクニ」が傑作であることは揺るぎません。何度も言いますが、これは坂倉準三を21世紀の視点から非難するのではありません。戦争の時代に、その最前線で建築創作に立ち向かったからこそ垣間見えてしまった景色から何を学べるか。それを探るキッカケになれば幸いです。たまたま坂倉準三は突っ走りましたが、まさに当時はそういう時代だったのですから。
(おわり)
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