父娘問答【1】シンデレラ編
好みが完全に男児だった娘も4歳頃からようやくディズニー・プリンセスに興味を持つ女の子らしい路線を解せるようになってきました。絵本もビデオもディズニーの『白雪姫』や『シンデレラ』の頻度が高まる今日この頃。
父「最近『白雪姫』や『シンデレラ』が好きだねぇ」
娘「そうなの。でも好きなのは魔女や継母なの」
父「笑。だからいつも毒リンゴ作ってる場面や、お姉さんたちにドレスを引き裂かれてるところばっかり再生するのか~泣。でもあいつら悪い人たちだよ。白雪姫やシンデレラをいじめるでしょ?」
娘「ブッブー。なにその表面的な見方。むしろあの人たちは物語を成立させるために悪役を割り当てられた可哀想な人たちなのでは中廊下」
父「だから中廊下はパパの持ちネタなんでブッブー。わかったわかった。白雪姫やシンデレラがやさしくて思いやりのある主人公であるってことを際だたせるために、極端な悪役が必要ってことね?」
娘「だからブッブーって言ってるし。そんなの読解浅すぎだし(~だし、が最近のキメ台詞)」
父「えー。じゃあどういうことよ。ディズニーアニメと違って原作のグリム童話では話が違ってるってこと?」
娘「ブッブー。むしろグリム童話ではもっと激しく悪を演じてるの。だって原作では白雪姫は毒リンゴの前に2度殺害されかかってるし、しかも最後は白雪姫たちに報復として殺害されるし」
父「まぁ、ディズニーは大胆に原作を改変してるからねぇ。それこそ白雪姫はまだ受動的だけど、シンデレラなんかやたら積極的に自己主張するからね。あれって太平洋戦争で社会進出が進んだアメリカ人女性の姿が反映されてるらしいね」
娘「ふーん。どうでもいいけど、グリム童話のソースを辿ると神話にたどり着くの。神話のテーマって「失われたつながりを回復する物語を紡ぐこと」でしょ。だから〈陰と陽〉とか〈天と地〉とか両極端の世界の対称性が重視される。つまりは『白雪姫』の物語は白雪姫と魔女がダブル主演ってことなの」
父「なるほどなるほど。『マクベス』にでてくる魔女も言ってる「綺麗は汚い、汚いは綺麗」なんか典型的だけど、両極端のものが一致する神話論理だね」
娘「そうそう。神話からグリム童話、そしてディズニーアニメと改変されてく過程で、大事な構図が骨抜きにされてるし。最も低い身分の者と最も高貴な身分の者が結ばれる。魔女に殺された姫が生き返って魔女に復讐する。そのことで対称性が確保されるっていうエッセンスが、単なるアメリカンな恋愛サクセスストーリーになっててダメだし、カツオだし」
父「おやじギャグはスルーして・・・。その改変のせいで『シンデレラ』も、どうして小鳥やねずみとシンデレラが一緒にいるのかよく分からなくなってるよね。王子と結婚する身であるシンデレラは高貴、小動物は賤しい。この両者がつながってる」
娘「シンデレラはサンドリヨン、灰かぶり姫。カマドのお世話担当だから。「灰尻っ子」って娼婦を罵る言葉。ここでも最も高いものと最も低いものの仲介がテーマだし」
父「なるほどー。しかもカマドって民俗学的には生者と死者をつなぐ装置だよね。真逆のものを仲介する神話論理に溢れてるってことか。じゃあディズニーアニメだとつまらないねぇ」
娘「ブッブー!つまらないって思うのは、その対象自体がつまらないんじゃなくって、パパの思いつく切り口がつまらないの」
父「ええーっ、そんな。切り口か~。『白雪姫』は1937年公開だから、ちょうどニューディール政策が失調した頃だよね。『三匹の子ぶた』(1933)が謳歌したような勤勉至上主義はもう過ぎてた。毒リンゴ(=経済不況)に倒れても、ふたたび生き返るアメリカン・マインドって読めなくもないな」
娘「75点。あと『シンデレラ』が公開された1950年は第二次大戦も収束した後の冷戦時代。ちょうどトルーマン・ドクトリンの時代でしょ。主体性と積極性に富んだシンデレラはアメリカの象徴だし」
父「ということは、シンデレラのよき子分である小鳥やネズミはトルコとギリシャか。だから敵対する継母トレメイン夫人は赤いドレスを着てる共産主義者なのか笑。ブルーノとルシファーの犬猫対決って米ソ代理戦争だよね」
娘「そうやって思うと「信じていれば夢はかなうもの、夢を見続けていれば必ずいつかかなう♪」なんていう狂信的なアメリカン・ドリームを胸に『シンデレラ』公開の1950年、朝鮮戦争へと突入していったのは象徴的な出来事なの」
父「こわいこと言うわ~・・・」
(おわり)
サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。