地方都市へ飛んだモダニズム建築の種|小原建設とアール・アイ・エー(パイロット版)
(注:書きかけです。すみません。)
名鉄東岡崎駅北口から少し歩いたところにお寺の門がありまして、どんなお寺かしらとのぞき見たら、これがなんともモダーンな鉄筋コンクリート寺院。調べてみると、お寺の名前は「是の字寺龍海院」(1971)。設計したのは建築綜合研究所、現在のアール・アイ・エーではあ~りませんか。
欧米ルーツのモダニズム建築は、戦前から戦後にかけて日本(の大都市圏)へ〈散種〉され、そこからさらに地方都市へと再〈散種〉されていきました。地方都市を歩いていると、そんな〈散種〉の痕跡がおもむろにあらわれることがあってドキッとする。
ちなみに「是の字寺龍海院」の施工を担当したのは、明治39年創業の老舗であり岡崎市を代表する建設会社・小原建設です。そもそもこのお寺自体が小原建設本社のお隣りにあります(図1)。
図1 是の字寺龍海院と小原建設本社(google)
小原守と山口文象
岡崎空襲(1945)で消失した伽藍の復興再建を小原建設に依頼しました。その際に社長・小原守(1917-2000)が住職に引き合わせたのが設計者である建築家・山口文象(1902-1978、建築綜合研究所代表)でした。そのあたりの経緯は元所員の都市計画家・伊達美徳さんのHPが詳しいです。
山口文象はベルリンでヴァルター・グロピウスの薫陶を受け、戦後は谷口吉郎、前川国男、丹下健三等とともに新制作協会建築部を設立、設計集団RIAを率いるなど日本近代建築を代表する建築家として知られる人物(『坂倉準三 山口文象とRIA:現代日本建築家全集11』1976)。
そんな山口が設計した「是の字寺龍海院」は鉄筋コンクリート造なうえに、いわゆる寺院とはとても違った形です。戦後の伽藍復興に際して鉄筋コンクリート造かつ近代式(横山秀哉『コンクリート造の寺院建築』1977)が採用される例は多くみられますが、岡崎市内では最初のケースだったでしょう。
またモダーンすぎる設計に住職もやや逡巡したともいうので、住職と山口文象とを仲介した小原守の存在なくしては実現しなかった名建築といってよいかと思われます。
小原建設との協働
岡崎への大いなる〈散種〉を仲介した小原守=小原建設という出来事。当の小原建設社史など(『小原建設作品集』『70年の歩み』(ともに1976)『莫如樹人:小原グループを支えた人々』(1992))には一切出てきません。モッタイナイ。
両社(者)の関係については、改めてアール・アイ・エーと小原建設それぞれの作品リストを照合しないと正確には分からないのですが、とりあえず「是の字寺龍海院」に先行する接点として「名古屋紳士服縫製団地自家工場」(1964)や「岡崎スポーツガーデン」(第1期1967、第2期1968)が確認できます。
その後も「岡崎女子高等学校増築」(1974)「岡崎女子高等学校白井こう記念館」(1979)「岡崎女子高等学校寄宿舎」(1981)と岡崎家政学園(後の岡崎学園)関連の建築工事で立て続けに協働していますが、これらは全て小原建設の紹介による仕事だといいます。
そして何よりも「岡崎市本町康生西市街地再開発第2街区」、いわゆる「西三河総合ビル」(1973、名鉄百貨店岡崎店や岡崎名鉄グランドホテルが入居)。アール・アイ・エーが設計し、小原建設等が施工にあたった、まさに両社協働のハイライト。都市再開発法の適用第一号館かつ県下初の地域冷暖房方式など三河地区最大最新の建築として注目されたといいます。
これらの協働は1960年代後半から70年代に集中しており、それは建築家・山口文象の円熟期(そして没年まで)とも重なっています。
グロピウス仕込みのモダニズム建築が山口文象を介して日本へ〈散種〉され、山口を信頼する小原守社長によって岡崎へとさらに〈散種〉された。その経緯を知ると、両者による〈散種〉が三河の建設・建築史においてもつ意義をちゃんと見定めてみたくなります。
小原建設の躍進
同時期の小原建設は「名古屋大学教養部施設群」(1964-75)「岡崎市市庁舎」(1971)「岡崎信用金庫本店」(1975、そのほか同支店多数)などなど大きな信用と建設技術を求められる仕事を数多く手がけていきます。
あの科学特捜隊や地球防衛軍の基地と張り合える「小原建設本社社屋」(1970)もころ頃の建築。社史においても「さらなる飛躍・拡大」の時期として刻まれた時代。
1970年代の岡崎市は(現・内田市長の父である)内田喜久市長時代とほぼイコールといえます。内田市長が都市計画的視野をもった人物であったことが、都市としての岡崎市の発展に寄与したといえます。ところが1970年代が終わると同時に、中根鎮夫市政へ移行します。その契機は汚職事件による市長失脚。この事件に小原建設も連座しています。
その後、20年にわたり中根市政は続きますが、いかんせん箱物には非熱心(葵博、中央総合公園等)だったものの、都市計画的な視点は弱かったそう。その後、市長職は現職の内田康弘市長となりますが、現市長は内田喜久の実子。父とは違う手法でもって、岡崎市をまちづくり的な視点で変革しようと試みているようです。
そうした流れのなかで、あの場所にこの建築が建っていると思うと、また違った感慨を得ることができます。どんな建物であってもそこに至る経緯があるわけで、どんな建築も一冊の本を書くに値するネタが詰まっています。
(おわり)
サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。