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ライフハックを駆使した住まいの新スタイル|「戦時下の住ひ方」の世界
1943年6月、「戦時生活用品規正展覧会」と題した催し物が心斎橋そごうにて開催されました。
展示企画の担当には、住宅営団、商工省工芸指導所、厚生省生活局住宅課などが参画していて、戦時下にふさわしい住宅=戦時日本標準規格二号型(住宅営団)とそれにかかわる住生活用品全般を展示した企画だったことがわかります。
さて、この展覧会にちなんで「戦時下の住ひ方:附戦時生活用品規正展覧会出品目録」なる小冊子がつくられました(図1)。
図1 展覧会出品目録
この小冊子を手掛かりに、1943年にモデルとされた「住ひ方」をちょっとばかり観察してみたいと思います。
国民住宅をめざして
1940年、大政翼賛会の設立、そして国家総力戦体制へ向けた「新体制運動」が活発化するなか、物資生活の標準化、そして国民統合を図るべく「国民住宅」の議論が活発化します。
この議論を受けるかたちで、1941年2月27日、建築家・堀口捨己は日本庭園協会の会員へ向けて「日本庭園の伝統と国民住宅」と題した講演を行いました。その講演録が協会機関誌『庭園』1941年3月号に掲載されています。
もともと協会からは「日本庭園の伝統と現代住宅」という演題を依頼されながらも、堀口は時間の都合上という理由で、「現代住宅」を「国民住宅」へと変更して話しています。
目下、国も学会も総力を挙げて「国民住宅」が模索されるなか、堀口も建築学会住宅問題委員会の委員として「庶民住宅の技術的研究」をまとめつつある時期にあったのでした。
今日問題になっております国民住宅に対して庭園家の立場から充分な意見を提出し、興亜の大業に差し支えない長期建設の国民住宅を片輪なものにしないようにこの際皆様各自が検討して頂きたいのであります。またそれを総合して、庭園協会において指導的意見なり、具体的試案を提出するようにしていただきたいのであります。
(堀口捨己「日本庭園の伝統と国民住宅」1941)
堀口は日本庭園の伝統を高く評価しつつ、その素晴らしさを国民住宅へどう反映させるか協会員にも知恵を絞って欲しいと語りかけるのですが、なんだかとってつけたような話にも聞こえます。
そもそも、当時議論されていた「国民住宅」の中身自体がなんとも曖昧で、戦時下という状況に応じた現実路線なのか、大東亜の盟主としてあるべき理想路線なのか、ゴチャゴチャに提案される始末。
さらには現実路線であったはずが、事態の悪化に伴って、去年の現実すら今年には理想になってしまうなんて状況に。そんなすったもんだの延長線上に、この「戦時下の住い方」が登場してくるのです。
戦時生活用具規正展覧会
「戦時生活用品規正展覧会」は、大阪府、大阪市、大政翼賛会大阪府支部、そして代用品協会大阪支部の計4団体が主催となり開催されました。後援は商工省。展示期間は1943年6月11日から20日。
展覧会が実施されるに至った背景が以下のように書かれています。
大東亜戦争の現段階において対処し戦争の完遂を確固不抜ならしむるためには国民生活の消費を極力規正し皇国の総合戦力増強に必要なる部門に転活用することは刻下緊急の要請である。
従って国民生活の具たる生活用品もまた規正合理化し、実用簡素にして最小の資材をもって最大の機能を果たし、しかも洗練されたる美を保有し物質的にも精神的にも間然なき用具を生産供給することは戦時経済体制の上よりも国民生活の確保の見地よりも極めて重要なことである。
戦争によって否応なく求められる転活用。合理化や効率化、実用簡素であることによって洗練される美。戦時下の美意識が垣間見えます。
続いて展覧会の趣旨が次のように語られます。
本展覧会はかかる主旨のもとに研究試作されたる戦時標準規格品ならびに規格住宅を展示紹介し一般大衆に対しては超非常時下生活用具の正しき認識を与うると共に関係業者に対してはその動向と進路を明示し併せて同工業の健全なる発達を図らんとする次第なり。
こうした趣旨でもって、住宅営団、商工省工芸指導所、厚生省生活住宅課、中央物価統制協力会議、日本家具統制協会、日本漆器統制協会、日本陶磁器工業組合連合会が協力しながら展示企画を練り上げたのでした。
規格住宅 戦時下の住い方
この展覧会には、住宅営団によって戦時規格住宅の現物模型が展示されたといいます(図2)。
図2 規格住宅 戦時下の住い方
解説文は次のように説明しています。
戦時下、国民の「住ひ方」は、どうあるべきか?いま、住宅営団十八年度実施予定の戦時規格住宅四種類のうち、最も数多く建てられる最小型の建坪七坪半の住宅をここに現示し、戦時住い方の手本を試みました。この狭屋を、なるべく間に合わせと、切り詰めた家具什器によって、いかに住みよい家にすることができるか?さあ次に住い方工夫を見ていただきましょう。
次に掲げられるのが、「戦時「住い方」心得」です。
一、神棚、仏壇を正しく祀る事
二、部屋の使いみちを明確にする事
三、整理、整頓、清掃に努める事
四、家具は配置を適正に、使いよい物を数少なく持つ事
五、遊んでいる空間を充分利用する事
六、防空、待避の備えを怠らぬ事
七、家庭工作を心懸けて、なるべく自製、修繕に努める事
八、簡素美と床しい嗜みを忘れぬ事
掲げられた心得ひとつひとつは、いまでも通用するシンプルな生活かと。それを挟む「一、神棚、仏壇を正しく祀る事」と「八、簡素美と床しい嗜みを忘れぬ事」が精神性につながるためか、やや違和感かと。
ただ、むしろ心得二~七と一、八が併存している点が興味深い。いや、じっと眺めていると、そもそも二~七の心得はそうした精神性をもとにした実践行為としてみると、この心得一~八は一体のものだと理解できます。合理性・計画性と精神性・宗教性とが並存している。
むしろ精神性が合理性を覆っているのではなく、合理性が精神性を帯びているのだとみなせるのでは中廊下と思うのです。
生活の豊かさと喜び
「狭屋を、なるべく間に合わせと、切り詰めた家具什器によって、いかに住みよい家にすることができるか」。そのための「住い方工夫」の実践へ向けて、「戦時間に合わせ工夫集」も紹介されています。什器、家具、燃料、節電、衣服料、洗濯など、日常生活の細部に至るまで、ライフハックが示されていくのです。
なお、このパンフレットの締めくくりは以下のような文章になってます。質素と豊かさが結びつけられる点にも「倫理性」のマジックが認められます。
この展覧会を御覧になった皆さん
我々の住宅も最小限の戦時規格型になり、家具を始め飲食器・台所用品その他家庭用品も全般にわたり規格化が行われ、最小の数と実質的なものになって来ていることがよくおわかりのことと思います。たとえ我々の衣食住がどんなに素朴なものになろうとも、そこに生活の豊かさと喜びを見出し、大東亜共栄圏確立の日まで戦時生活を勝ち抜こうではありませんか!
我々の衣食住がどんなに素朴なものになろうとも、そこに生活の豊かさと喜びを見出す。でも、この展覧会の翌年には、規格住宅はさらに小さくなり、住宅営団決戦型豆住宅(六坪)なんてのも出てくることになります(図3)。戦争の現実は国民の「工夫」の限度をもはや軽々と超えていったのでした。
図3 決戦型豆住宅
堀口捨己の国民住宅、その後
さて、後日談。
敗戦から10年半あまりを経過した1956年3月、建築学会は創立70周年にちなんで、建築各分野の20年間を回顧する座談会企画を実施しました。その「デザイン」の分野に、戦時下に建物を壊して防火帯をつくった「建物疎開」の話題が登場します。
建物疎開と言うとなんだかモワッとした感じですが、要は空襲による延焼を避けるため、強制的に建物を解体除去するわけで、なんとも悲惨なお話し。座談会参加者のなかには、自分の家が建物疎開で壊されたという人もいました。
「学生が来て網をつけて自分の住んでいた家を倒すのはたまりませんでしたね」とシンミリ語るのは、冒頭、日本庭園協会で国民住宅について熱く語った建築家・堀口捨己、その人です。
1944年、サイパン陥落を受けて、堀口は戦争に負けたら日本語が話せなくなると思い、茶道文化の「ノアの箱船」的に茶道文化連盟を結成、「日本文化が禁じられても、その中で温存して回復しなければならない」と決意したと言います。「次々と空襲で焼かれていくという感じは、これまあ虚脱状態に陥ってしまう恐ろしさですね」。
決戦型豆住宅までは、狭くともまだ建物は存在していました。でも最後には、決戦に向けた建物疎開=防火帯をつくるために既存建物を壊すなんて事態にまで発展するのでした。住みよい家へ向けた工夫は、家を建てない境地へとたどり着くのです。
そして、敗戦。もはや家ではない洞窟、土管、汽車、軍艦などなどのシロモノを家へと転活用する、さらなる「工夫」が求められていったのでした。
(おわり)
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