セキスイハウスF型|1965年、プレハブ住宅は高級化路線に舵を切った
いまではすっかり高級路線あたりまえになったプレハブ住宅。もともとの理念は高品質・低価格でした。でも、1960年代前半に続々と登場したプレハブ住宅に庶民が突き付けた評価は「安普請で画一的」。
マイナスイメージの克服へ向け、あれこれ努力した結果が「むしろ木造住宅より高いプレハブ住宅」。そして、それを象徴する商品が「セキスイハウスF型」です(図1)。
図1 セキスイハウスF型
そんな「セキスイハウスF型」について、そして販売された1960年代を少しばかり振り返ってみたいと思います。
存在感を増すプレハブ住宅
ヤフヲクで入手した世界文化社版『カラー図鑑百科』。出版されたのは大阪万博の前年、1969年。全部で24巻あるこの百科は、小・中学生のほぼすべての科目を網羅しつつ、動物、昆虫、魚貝といった定番の図鑑メニューもカバーした内容です(図2)。
図2 カラー百科図鑑
第21巻は家政学者で日本女子大学名誉教授・氏家寿子(1898-1985)編集による「家庭科」。小・中学校で学習することとなる内容が単元対照表で整理されています。①食べもの、②きもの、③すまい、④家庭生活、⑤家庭科の研究の5部構成。もちろんお目当ては「すまい」のパートです。
さっそく中身をみてみると、さすが1969年刊行とあって、「家のしくみ」の項目には木造在来工法の説明に次いで「プレハブ住宅(組立住宅)のできるまで」があります(図3)。
図3 プレハブ住宅のできるまで
プレハブ住宅で、家が建てられる順序を追ってみよう。1,2週間ででき上る組立のすまいでも、基礎づくりからはじまって、骨組み、かべ、やねと建設の順序やしくみはふつうの住宅建設と同じようなものである。ただプレハブ住宅にも、コンクリート、鉄骨・パネル(鏡板といって、わくがこみにした板)、木質、アルミニウムなどの系統があって、材料によって多少のちがいはある。ここでは、鉄骨・パネルの2階家を紹介する。
(『カラー図鑑百科21家庭科』、1969年)
当時まだ「プレハブ」という言葉が十分には人口に膾炙していなかったため「組立住宅」という戦前から用いられる名称が当てられていました。
ちなみに図鑑出版前年の1968年には、通産省官僚・内田元亨が雑誌『中央公論』に寄稿した「住宅産業:経済成長の新しい主役」(1968年3月号)がヒットし「住宅産業」が流行語になっています。高度成長まっさかり、都市部への人口流入はますます激しく、住宅不足問題は一向に解決しないなか、「住宅産業」への期待がますます高まります。
遡ること1962年には、住宅金融公庫による「不燃組立構造」が木造住宅よりも優遇されたかたちで融資対象となって以降、プレハブ住宅が急速に日本社会に定着しはじめていました。「不燃組立構造」とは次のような条件を満たす住宅でした。
①工場生産材を用いること
②主要部分を不燃材料とし
耐火性・耐久性・堅ろう性の高いものとすること
③居住性は従来の木造住宅以上とすること
④工期は1カ月
1964年にはさらに多くのプレハブ住宅を対象とする「工場生産住宅」という枠組みも設けられることになります。
また、民間による住宅ローンが一般化したのもこの頃。1962年の大和ハウス工業による提携ローンを皮切りにハウスメーカーと銀行の提携による住宅ローンがどんどん登場しました。
三菱銀行「ホーム・プラン」1961年6月
三井銀行「住宅預金」1962年10月
日本勧業銀行「住宅プラン」1961年4月
三和銀行「住宅ローン」1963年5月
東海銀行「プレハブ・ローン」1963年6月
東海銀行「住宅プラン希望積立預金」1963年10月
神戸銀行「住宅ローン」1963年4月
北海道拓殖銀行「ホーム・プラン住宅金融」1961年4月
北海道拓殖銀行「プレハブ住宅ローン」1963年12月
住友銀行「住宅ローン」1964年1月
協和銀行「協和ナショナル住宅ローン」1964年1月
(『資料でみる日本の住宅問題』、1980年)
公庫融資には手が届かない、あるいはそれだけでは足りない人々にマイホームを持つ道が「プレハブ住宅でもって」切り開かれたのです。
そんな背景のもと『カラー学習図鑑21家庭科』所収「すまい」の項に「プレハブ住宅(組立住宅)のできるまで」が掲載されたことになります。
高級路線、セキスイハウスF型
ちなみに、この図鑑に掲載されているプレハブ住宅は積水ハウスのものです。1960年に「セキスイハウスA型」によって住宅事業に進出。以来9年を経過、大和ハウス工業と並ぶ有名プレハブ住宅企業へと成長していました。
ハウスメーカーによるプレハブ住宅は、ちょうど自動車と同じように商品名があり、その型によって建設された年代がおおよそ絞り込めます。
掲載されてる積水ハウスのプレハブ住宅の商品名は「セキスイハウスF型」。1965年に販売開始された高級層向け商品でした。F型とは特徴的な屋根形状、フラット屋根(flat roof)から採られています。
なお、積水ハウスは1960年に最初の商品住宅「A型」を市場投入して以降、以下のように続々と新型の商品住宅を投入してきました。
1960 A型:日本初の水回り付きプレハブ住宅商品
1961 B型:A型不振の反省に立つ普及版住宅
1962 C型:強化プラスチックによるキャビン
1962 2B型:初の2階建て住宅商品
1965 E型:平屋建てのエコノミータイプ
1965 F型:初の高級路線商品
1969 H型:壁勝ちモダンデザイン路線
1969 HA型:初の低層賃貸住宅商品
1971 K型:日本の伝統家屋を意識した寄棟2階建て
競合するハウスメーカー・大和ハウス工業が繰り出した伝説の商品住宅「ミゼットハウス」(1959)が平屋建て・水回りナシの「勉強部屋」。その翌1960年には積水ハウス(当時は積水化学工業の一部門)が一人前の一戸建て住宅「A型」をリリース。1960年代前半はプランも外部・内部仕様も限定された平屋建て商品の時代でした。
そんなプレハブ商品住宅草創期の商品群が市場にどう受け止められたのかというと「仮設小屋みたいな住宅」、「プレハブ=安普請、画一的」といったマイナスイメージだったといいます(松村秀一監修『工業化住宅・考』1987年)。
「仮設小屋みたいな住宅」、「プレハブ=安普請、画一的」といったマイナスイメージをもたらした風景。たとえば、これは「セキスイハウスB型」が立ち並ぶ住宅団地です(図4)。
図4 B型が建ち並ぶ建売住宅群
プレハブ各社は2階建てへの対応を進めるとともに、規格商品からの脱皮を模索することに。どう脱皮するのか。それは競合する木造在来工法と同じように、あれこれ注文できる=「ユーザーニーズに対応する」ことでした。
昭和40年代のカタログ類に見られる「個性ある家づくり」「敷地への対応に優れる」「お望みのままに選べる自由度の高い設計」「住まいのイージーオーダー」等の謳い文句が、こうした必要性に対するプレハブ住宅側の必死の対応を裏付けてくれる。
(松村秀一監修『工業化住宅・考』1987年)
特に「F型」は従来プレハブ住宅につきまとっていた安普請感を払拭すべく投入された商品でパンフレットにはこう書かれています。
セキスイハウスF型はあなたの名誉ある地位と
社会的声価にふさわしい最高級住宅です
(積水ハウス「F型」商品リーフレット)
戦後日本の「家づくり」は、男の甲斐性を証明する一大イベントとみなされていたがゆえに「名誉ある地位と社会的声価」が「プレハブ住宅」と釣り合うことが謳われたのです。
力強い直線を生かしたデザインです。奥行きと厚みのある深い軒、個性的な玄関、明るく開放的な開口部、陽光をいっぱいにあびる広いバルコニー―どの角度からみても、最高級住宅の名にふさわしい、重厚で気品ある外観を構成しています。
(積水ハウス「F型」商品リーフレット)
ちなみに外観ばかり言及してますので、ちょっと内観もご覧いただきましょう。こんなカンジです(図5)。
図5 F型内観写真
高級化するモデルハウス
さて、積水ハウス初の高級路線として打ち出された「F型」。『カラー百科図鑑』に掲載されているのは、「F型」のラグジュアリ感をさらに高めた「セキスイハウス大手町展示場」です(図6)。
図6 セキスイハウス大手町展示場
4~5人の標準家族を想定し、計画した約128㎡(38坪)のプランです。1階はとくに、室内空間の変化と充実にポイントをおき、ハイクラスの方のお住いに合わせてデザインしました。
玄関ホールの床を一段下げ、階段室を吹き抜けにするなど、格調高いインテリア―の構成に役立てると同時に、落着きあるリビングルームへの導入、本格的な和室へのアプローチを床仕上材の変化で演出しました。
設備をコアー風にまとめて、合理化を計ると共に、主婦が、1日の大半を過ごす台所を南面に設けるなど、これからの住いの方向を示しました。
(大手町展示場リーフレット)
4~5人の家族を想定しつつも38坪なので、今の感覚からすると小ぶりですね。とはいえ、モデルハウスとあって「F74型」のプランをベースにしつつ、オプションがテンコ盛りされています。
ちょっと「大手町展示場」リーフレットに記載されたオプションを拾い上げてみましょう。①着色スパンドレル付=65000円/一式、②大手町型門門及門扉=70000円/個所、③フラワーボックス付バルコニー=185000円などなど、たくさん続きます。セントラル冷暖房設備も付いていました。
高度成長、住宅産業ブームといった追い風に乗って、プレハブ住宅は在来木造住宅に引けを取らないように「自由設計」を謳い、在来木造住宅との差別化を「高級化」路線でもってひた走るのです。
「安普請、画一的」に対抗する「自由設計」は、しっかりとお客様からの「あーだこーだ」の要望を受けて、それに対して丁寧に対応する「顧客第一主義」に帰結します。
このあたりの事情を、積水ハウス創業30周年を記念する『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』の巻頭「創業30周年によせて」にて、建築家・建築学者である内田祥哉(1925-)が指摘しています。
日本に顧客優先の傾向が定着している背景には、もう一つ、在来構法の影響があったことを加えておかねばならない。すなわち、大工棟梁によって建てられてきた伝統的手法では、顧客の注文は、逐一現場で聞きとられ、リアルタイムで施工に反映されてきた。だから、たとえそれが工業化製品になっても、家を建てるについては、建て主の個別的意向が製品に反映されるのは当然、という考えが一般に浸透していったのである。
(内田祥哉「創業30周年によせて」)
「F型」が販売される前年、1964年は日本にとっては「東京オリンピック」の年ですが、積水ハウスにとっては「直接販売・責任施工」に大転換した年でもあります。
住宅事業に進出するも赤字続きだった積水ハウス(当時は積水ハウス産業)。積水化学工業からも別会社化されるなか、会社立て直し役に田鍋健が社長就任します。社名を「積水ハウス」に改め、志をともにする出向社員に親会社への辞表を書かせます。さらに、これまでの代理店方式から直接販売・責任施工へ転換したのです。
それこそ、住宅がはじめて商品となった「ミゼットハウス」や「スーパーミゼットハウス」は、百貨店の展示即売で販売されました。しばらく後に代理店が設立されていきます(図7)。
図7 大丸特選、販売代理店
商品としての住宅をどうやって売るのか。それがまだ自明でなかった住宅産業草創期の試行錯誤がここに見られます。田鍋健は、代理店方式ではダメだ、直接販売・責任施工、さらにはアフターサービスまでをも重視した「人間愛」を打ち出したのです。
別の言い方をすれば「日本的経営」が業界ナンバーワンの地位を築く原動力になります。写真はアフターサービスを担った「セキスイハウスサービスカー」(図8)。
図8 セキスイハウスサービスカー
「F型」が販売された翌年には「総合住宅展示場」が登場します。今では当たり前の販売手法で全国展開していますが、1966年に大阪「ABCモダン住宅展」ができるまで、常設型の住宅展示場はなかったのです。プレハブ住宅の隆盛は販売手法の開発と一体でした。
そして「総合住宅展示場」ができた頃には、プレハブ住宅は高級化路線時代に入っており、現在にまで続く「立派で大きすぎて自分の家づくりに参考とならない」と嘆かれる「豪華なモデルハウス」ができあがるのでした。
本来、工業化や合理化、大量生産によって安価に手に入る住宅として登場したはずの「プレハブ住宅」ですが、時代の変化によって住宅に求められる「質」が高まったのと同時に、大工・工務店の木造住宅との差別化が「価格」ではなく「性能」に拠ったことから「プレハブのほうが高い」という状況が生まれたのです。
そんな「プレハブ住宅」の登場と隆盛を垣間見ることができる『カラー図鑑百科』なのでした。なお、高級化路線の1960年代後半が過ぎて、1970年代に入った日本はオイルショックに見舞われることになります。それは高級化路線の見直しが否応なく求められる時代の到来。そして「画一的」であることを逆手に取った「企画住宅=ミサワホームO型」(1976)の登場をもたらします。それはまた稿を改めて。
(おわり)
参考文献
1)積水ハウス『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』積水ハウス、2010年
2)積水ハウス『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』、積水ハウス、1990年
3)住宅金融公庫『資料でみる日本の住宅問題』住宅金融普及協会、1980年
4)松村秀一監修『工業化住宅・考:これからのプレハブ住宅』学芸出版社、1987年
図版出典
トップ)積水ハウス「セキスイハウスF型」リーフレット、1965年
1)同前
2)『カラー百科図鑑』世界文化社、1969年
3)氏家寿子編『カラー百科図鑑21家庭科』世界文化社、1969年
4)積水ハウス『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』、積水ハウス、1990年
5)積水ハウス「セキスイハウスF型」リーフレット、1965年
6)積水ハウス「セキスイハウス大手町展示場」リーフレット、
7)大和ハウス工業「ミゼットハウス」リーフレット、1959年
8)積水ハウス『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』積水ハウス、2010年
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