![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/7706838/rectangle_large_type_2_9d708d4b2e245c8db796fcc389989f5f.jpg?width=1200)
父娘問答【2】フルーツバスケット編
先日、保育園でフルーツバスケットをすることになった娘。父に似て対人スキルが著しく低い娘ゆえ、案の定やりたくなかったらしい。先生の促しで渋々参加するも、負けが嵩みあわや罰ゲーム寸前となって号泣、という有り様。先生たちの折に触れてのアプローチにお世話になりっぱなしで、なかなか先が思いやられる。。。
娘「今日、フルーツバスケットしたの」
父「なに?フルーツバスケットって?あの内村と千秋とウド鈴木のバンド?」
娘「それポケットビスケッツだし、ダジャレにしても全然かぶってないし!」
父「語感がね、語感が。でもホント知らないんだけど?あの『花とゆめ』に連載してたやつ?」
娘「それもフルーツバスケットだけど、言ってるのはゲーム!みんなで輪になって限られた椅子を獲りあうの」
父「それなら椅子とりゲームと言いなさい、オジサンにはわかりません」
娘「椅子とりゲームに包含されるけど、そのなかでもさらに細分化されたゲームだよ。鬼をひとり決めて、みんなが鬼を取り囲んで座るの。みんなはいくつかの果物に分類されて、鬼が「りんご!」って言ったらリンゴの人は席を交換しないといけないの」
父「え?じゃあ、椅子に座れないひとは発生しないじゃん」
娘「席交換のときに鬼も席をとれるの。あと、「フルーツバスケット!」って言ったときは、全員が席を交換しないといけないの」
父「へぇ~。楽しそうだねぇ」
娘「楽しくないの!だって鬼に3回なると罰ゲームがあるの。あと1回で罰ゲームしなきゃいけなくて泣いちゃったの」
父「ゲームだもん、罰ゲームもあるさ笑」
娘「そもそもそのゲームやりたくないの。人間を果物に例えて、しかも籠から排除した上に、その人を鬼と呼んで忌避するのって、金八先生なら許さないの」
父「古いな~。「腐ったミカンの方程式」ね。ちゅうかどこで知ったのよ笑」
娘「鬼が果物の名前を口にするとき、自分じゃなかったことにホッとするの。でもそう思った自分の感覚に恐ろしくなる。「鬼が最初バナナを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私はバナナではなかったから」の心境だし」
父「出た!マルティン・ニーメラー牧師だね。そうかそうか「そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」だね。う~ん。ある属性を名指しして席の交換を要求し、席を得られなかった者が鬼になる。鬼を続けることで罰を受ける、か」
娘「社会的包摂を学ぶべき場で、社会的排除の戯画ともいえるゲームが行われてるの」
父「まぁ、幼児教育における遊びの意義ってものもあるからねぇ。周囲の友だちとの関わりのなかで興味・関心・楽しみを味わういい機会だと思うよ。だんだん慣れてきたらきっと楽しくなるし」
娘「もっと排除じゃなくって包摂がテーマになるようなゲームがいいの」
父「ただねぇ、排除されてしまっているものを包摂すること=善っていう発想も危険な気がするんだよねぇ。包摂の中の排除/排除の中の包摂にまで踏み込んで考えないと」
娘「たしかに・・・。うちの保育園の母体になってる浄土真宗も、戦時には報恩と報国、阿弥陀仏と天皇を同一視して、そこへと包摂していくことが戦争協力の土台になったんだよね」
父「そうそう。その轍は踏まない」
娘「じゃあ、包摂と排除のパラドキシカルな関係を俯瞰しつつ、やっぱりやりたくないときには駄々をこねるね!」
父「う~ん、そうなるか、やっぱり」
(おわり)
いいなと思ったら応援しよう!
![竹内孝治|マイホームの文化史](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/6802203/profile_9628c3b0ee31f1cb1b92b359a531d93e.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)