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終わりの日 コーランと聖書の違い

今回は、終わりの日に訪れるとされる「復活」について、キリスト教とイスラム教の違いをご紹介します。

キリスト教の聖典は「聖書」ですが、イスラム教は「コーラン」となります。


コーランの予備知識


コーラン

コーランは紀元570年頃にアラビア半島のメッカに誕生したムハンマドを通して与えられた神の啓示をまとめたもので、イスラム教の最高の聖典とされる書物です。

イスラム教はキリスト教、仏教と並ぶ世界三大宗教の1つで、現在はアフリカからインドネシアにまで及ぶ広い範囲で信仰されており、信者の数も8億から10億に及ぶといわれているほど大きな宗教勢力となっています。

したがって、コーランは現在でもかなり大きな影響力を持つ書物といえますが、一読して、終末論的なイメージに溢れていることに驚かされる書物です。

 ムハンマドに神の啓示が現れ始めたのは、彼が40歳になった頃からで、その後20年間にわたり間欠的に現れたといわれています。

ムハンマドはこの20年間のうち最初の10年間をメッカで、後の10年間をメディナで過ごしていますが、とくにメッカで語られた啓示の中に、終末の情景について語ったものが多いんです。

 コーランの思想はユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書の流れを汲むもので、ユダヤ教を完成させるものだというのが基本的な立場であります。

この立場に立った上で、コーランでは唯一の神であるアッラーの偉大さと慈悲深さを徹底的に主張しています。

この宇宙や人間を創ったのはアッラーであり、これらの存在を現在維持しているのもアッラーの力であるそうです。

このアッラーが、すべての人間に寿命を定めたのと同じように宇宙にも期限を設けたので、終末の日は必ず来るというのがコーランの主張です。

そして、啓示のあちらこちらで、その日の情景が描かれています。

 コーランが語る終末は、あらすじとしてはユダヤ教やキリスト教に類似したものになっており、終末の日の核心部分には「最後の審判」が置かれています。

ただし、最後の審判における人間の行為の評価方法などには、コーラン独自の思想が現れています。


泥で作られたアダム



アダムとイヴ


 コーランの神アッラーは旧約聖書の神ヤハウェと同じものであり、コーランにおいても、世界は唯一の神であるアッラーによって創られたとされています。

 コーランによれば、アッラーは6日間かけて天地を創ったとされているが、このときの様子はだいたい次のようなものです。

天地が創られる以前、天と地は縫い合わされているようにくっついた1つのものだった。

アッラーがこれをほどいて天と地という2つのものにした。

次に、アッラーは地の上に山々を杭のように打ち立てて、地が揺れ動いたりしないようにした。

そして、そこに豊富な食物を配置した。

それからアッラーは天に昇ったが、このとき天は煙のように曖昧なものだったので、アッラーはここに7つの階層を設け、それぞれに役割を与えた。同時にアッラーは太陽と月を配置し、一番大地に近い天には無数の星々を置いたのである。

アッラーは天と同じく地にも7つの区分けを設けたが、これについては地獄の7階層だという解釈もあります。

 天地を創ったときに、アッラーは天使、妖霊、人間、動物も創った。

天使は火から、妖霊は燃え盛る炎から創られ、最初の人間であるアダムは泥から、動物たちは水から創られたとの事。

また、アダムの一部分から彼の伴侶が創られ、後世の人間がこの2人から誕生してくるようにしたのだといいます。

 この世界のすべてを創造した神アッラーは当然この世界を滅ぼす力も持っているそうです。

コーランでは、アッラーは世界を創造するときにすでにこの力を用いていたとされています。

この世に生きているものにはすべて寿命があり、この寿命はアッラーが定めたものとされるが、この世界を創造するときに、アッラーは世界そのものにも寿命を定めたのだといいます。

おそらくアッラーはエンリルかアヌのどちらかでしょうね。

ここまでは聖書の創世記と類似する点が多いですよね。


唐突に訪れる終末の日


EBS

コーランによれば、終末の日がいつ来るのか知っているのはアッラーだけで、人間はまったくこれを予期できないため、その日はまったく突然にやってくるといっていいそうです。

ユダヤ教・キリスト教においては、世界の終末にはいくつかの前兆があるが、コーランが語る世界の終末には前兆らしきものはほとんどありません。

ただ1つの例外は、ヤージュージュとマージュージュと呼ばれるものが解き放たれて、崖から駆け下りてきて世界を荒らすとされていることです。

ヤージュージュとマージュージュというのは、旧約聖書や『ヨハネの黙示録』の中で終末の直前に世界を混乱させるとされているゴグとマゴグのことですが、この2人(あるいは2つの種族)が、どのように世界を荒らすかは、コーランには語られていません。


 このため、世界の終末はまったく唐突に訪れます。

終末はまず天変地異という形でやってきます。

コーランではこの天変地異を天の崩壊と地の崩壊という2つの視点で語っています。

アッラーの創った天は7層で、がっしりしており、どこにも裂け目がないとされているが、終末の日にはこの天がぐらぐらと大きく揺れ、ぱっくりと割れて裂けてしまい、壊れ落ちてきます。(おそらく天蓋の事かと)

しかし、信仰心のない人間たちは、このときになっても、「あれ、随分と雲が重なっているな」などというだけだといいます。

天体の星々も、このときに命を終えます。(ホログラムの終了なのでしょうね)

星たちは輝きを失って地上に落ちてきます。

太陽も月も完全に光を失い、暗黒にぐるぐる巻きにされてしまいます。


 こうした崩壊は大地をも襲います。

本来ならば平坦で不動のはずの大地が、ぐらぐらと激しく揺れ、砕かれ、四方八方に裂け、中にあったものをすべて吐き出して空っぽになってしまいます。

大地を不動のものとするために杭のように打ち立てられていた山々も、ずるずると動きだし、ついに空中を乱れ飛んで、粉々になってしまいました。

こうして、すべての山々が崩壊してしまうので、大地はついにどこまでも平坦なものになってしまいます。

そして、この結果、海の水が大地に流れ込んで、世界は始まる以前の混沌の状態に戻ってしまうのでした。


正気の消滅と復活



 コーランは旧約聖書や福音書を前提にしているので、終末の日の出来事はユダヤ教やキリスト教のものと類似しています。

このことは、人間の身に起こる出来事についても同様です。
 
終末の日に人間の身に起こる出来事で最大のものは最後の審判ですが、この審判はこの世に生きたことのある人間のすべてが受けなければならないものだそうです。

終末の日に、地上で生きていたか死んで墓の中にいたかは関係ないそうです。

そこで、終末の日に生きていたか死んでいたかによって、この日経験する出来事が少しばかり異なることになります。


 終末の日には、天使が2度ラッパを吹き鳴らしますが、この日に生きていたものたちは、最初のラッパが鳴り響いたとき、すべてが一度気を失うとされています。(聖書では携挙と呼ばれていますね)

それから、2度目のラッパが鳴り響き、生きていたものも死んでいたものもすべてが、生きていたときと同じ姿で復活するのです。


 この復活の場面に関しては、コーランの考えはユダヤ教やキリスト教と異なっています。

ユダヤ教、キリスト教では、人間は死ぬとすぐに死後の審判を受け、天国や地獄に送られます。

そこで、最後の審判は、終末の日以前に死んでいた人間にとって死後に行われる2度目の審判ということになります。

しかし、コーランでは、人間の受ける審判は最後の審判だけです。

コーランの場合、人間は死ぬと墓に埋められ、その墓の中で、最後の審判を待っているとされています。

終末の日に天使が2度目のラッパを鳴らすと、死んでいた人間たちは墓の中から復活するのです。

墓の中にいた人間たちは、身体が腐り、骨になったり、完全に土になってしまっているものたちもいるが、そのようなことには関係なく、すべてのものたちが生きていたときと同じ肉体を供えた姿になって復活するといいます。
(聖書でいう栄化の体という事になりますね)


死後の時間感覚


死後の世界


 ここで、とくに興味を引くのは、墓から復活したものたちの時間に関する感覚です。

現実的な時間では、古い時代に死んだものと、より新しい時代に死んだものとでは、墓の中にいた時間には大きな違いがあると思います。

1000年以上も墓の中にいたものもいれば、10年間しか墓の中にいなかったものもいるはずですね。

しかし、コーランによれば、終末の日に復活した人間たちはみながみな、墓の中で暮らしていたのはほんの少しの期間に過ぎないと感じるのだといいます。

たとえ何百年間も墓の中にいたとしても、復活した日には、人々はみな、自分がわずか10日間しか墓の中にいなかったとか、たった1日しかいなかったとか、極端な場合には1時間しかいなかったと感じ、近くにいるものたちとひそひそと墓の中にいた時間について話し合ったりするんだそうです。


 復活した人々は、次に神アッラーの前に集められます。

このとき、人々はぞろぞろと群を成してアッラーの前に集まってくるとされています。

しかし、このとき人々はただたんに群を成しているだけで、それぞれの人間の間に特別な関係もあるわけではないし、むしろ、それぞれがまったく無関係な個人として群を成して移動しているだけだといっていいです。

生きているときに夫婦だったとか、親子だったとか、あるいは兄弟、親戚、友人同士だったなどという関係は、終末の日にはもはや存在しなくなってしまうし、何の役にも立たなくなってしまうそうです。

あくまでも1個人として、人々は群を成してアッラーの前に集まり、そこで最後の審判を受けることになるのだそうです。


嘘をつけない身近な証人


証人



 コーランの語る最後の審判は、ユダヤ教やキリスト教のそれと同様に、人間が生きてきた間にしてきた行為の数々を取り上げ、その善悪を判断して、天国に行くべきか地獄に行くべきかを決めるためのものです。

この判断を行うのはアッラーの神ですが、コーランでは審判が行われるのは大地の上なので、審判に先立って、神の来臨があるとされています。(キリスト教ではキリストの再臨です)

終末の日に、どかんどかんと大地が砕かれ、そこに神が降りてくるのだそうです。

神と一緒に数多くの天使たちも隊伍を整えてやってくるそうです。

業火が燃え盛るジャハンナムと呼ばれる地獄までもが、審判の場には持ち込まれるといいます。(この辺はヨハネの黙示録と似ていますね)


 終末の日に復活した人々は、みながみなこの場所へやってきて、1人1人最後の審判を受けることになるんだそうです。


 こうして、最後の審判の場まで来ると、人間はもうどんな嘘をついても通用しないし、どんないいわけも役に立たないそうです。

最後の審判にやってくる人間は、みなそれぞれに2人の天使に付き添われています。

そのうち1人は人間を追い立てる役目を持つものだが、もう1人は人間の魂の記録係だとされています。(魂は磁気エネルギー体なので、何らかのテクノロジーで記憶を読み取られるのかもしれませんね)

この記録係の天使は、すべての人間に1人づつ割り当てられており、人間が生きている間の行動をすべて帳簿に記録していたんだそうです。

2人の天使に伴われてアッラーの前にやってきた人間は、帳簿に記録されている善いことも悪いこともすべて見せつけられます。

そして、ここで発言されたことはすべて、そばにいる番人によって記録されるのだそうです。
 審判の場所には、数多くの証人たちも登場します。

興味深いのは、コーランの最後の審判では、天使や人間や妖霊ばかりでなく、舌、手、足、耳、目、肌といったその当人の身体の一部までが重要な証人となるということだそうです。

自分の肌が突然に自分に不利なことを証言し始めたことに驚いて、「どうしておまえは自分に不利なことを証言するのだ」と文句を言っても始まらないとの事。
アッラーが肌に証言することを許しているからです。

こうして、最後の審判にあっては、あらゆる意味で公正な裁判が行われるのです。(肉体の周波数等から読み取れるテクノロジーでもあるのかもしれません)

アッラーの裁量


最後の審判


 最後の審判を受けることで、人間はそれ以降の時間を永遠に天国(ジャンナ)か地獄(ジャハンナム)で過ごすことになります。(聖書では神の国ということになりますね)

天国は永遠の楽園であり、そこに入ったものは永遠に安楽な暮らしをすることができます。

地獄は全く逆の場所で、そこに入ったものは永遠の責め苦に苦しむことになります。(ロンメルやニュルンベルク対象者はこちらかな)

 ここで天国行きか地獄行きかを分けるものは当人の生前の行いだが、コーランにおいては、人間の生前の行いに報いるための独自の法則があります。

単純化すると、生前に少しでも善いことをした者は、その人が行った行為の中で最も優れた善行によって全人生を判断され、悪いことを行った者は、悪行の総量によって判断されるということです。

これは、善いことを行った者は自分が行った善いことの総量以上の褒美をもらうことができ、悪いことを行った者には悪行に見合った罰が与えられるということですね。

例えば、コーランを信仰し、善行を行おうと努力した者の場合は、たとえ少しばかり悪いことをしたことがあっても、それは見逃してもらえるそうです。

そればかりか、その人が行った行為の中で最も善いことを、一生涯行い続けた分だけの褒美を天国においてもらうことができるのだそうです。

コーランの中には、アッラーは人間の善行に対しては、それを十倍、あるいは何十倍にもして返すと記された部分もあります。

 したがって、コーランを読む限り、地獄に行くことになるのはかなり悪質な人間だと想像できますね。(まぁ、確実にロンメル対象者は地獄でしょうけどね)

しかし、このような人間に対しても、アッラーはその人が犯した罪以上の罰は与えないそうです。

生前に地上で行った悪事の1つ1つについて、それと同程度の苦しみを地獄で与えられることになるのでだそうです。


天国と地獄


天国と地獄



 天国と地獄については、コーランに特別に詳しい描写はないが、簡単な描写はいくつか見つけることができます。

天国は完全な楽園で、食うに困らない快適な場所である。(UBIですかね)

具体的には、絶対に腐ることのない水が流れる川、味の変わらない乳の川、美酒の川、蜜の川などがあり、あらゆる種類の果物も実っているそうです。

暮らしぶりも贅沢で、金糸で飾られたねだい臥台に横たわり若々しい従者に酌をさせて酒を飲むことができるし、その酒はいくら飲んでも頭が痛くなったりしないといいます。

また、鳥の肉も食い放題で、処女の妻まであたえられるそうです。(イスラム圏だと処女を神聖視していますからね。女性の場合だと童貞が与えられるということでしょうか…)

これに対して、地獄の方は基本的には燃え盛る炎に包まれた場所だとされており、煮えたぎる熱湯やどろどろの膿汁を呑まされる場所とされています。

地獄のどん底にはザックームという奇怪な木も生えているそうです。

この木には悪魔の頭のような実が生っており、罪人たちはこの実を無理矢理に腹一杯食わされるのだそうです。


コーランを色々と調べてみましたが、個人的には聖書の疑問点を補完する部分もあり、納得がいくような点も多かった気がします。

ロンメル後の悪人達はどうなるんだろうと思っていたのですが、コーランを調べてみたら納得できました。

アッラー=キリスト=エンキ=神なのは、間違いなさそうですね。

復活に関しても、キリスト教、イスラム教共に聖典にも書かれているので、キリスト教(22.5億人)、イスラム教(14.3億人)と地球人口の約50%が「復活」を信じていることになりますね。

日本でも明治8年までは土葬が主流だったので、やはり仏教の国ではなく、もともとキリスト教の国だったのではないかと思います。(隠れキリシタンは嘘の可能性が高いですね…)

そもそも勝てば官軍で、後からやってきたもの達(弥生人)が広めた宗教が「仏教」ですしね。(仏教では復活は否定されています)

なぜ、税金面で優遇されているのか、謎が解けそうです。(今田耕司の実家がお寺との事)

火葬は釈迦が死後に火葬された事に準拠しているそうですが、やはり火葬には「悪魔崇拝」が絡んでいそうですよね。

こちら

火葬の否定は必ずしも日本で採用される見解ではない。正統長老教会神学者ローレン・ベットナーは『不死-死後の問題の解明』で、聖書の火葬の記述、『ヨシュア記』7:25-26、『第一サムエル記』31:10-13が「呪われたもの」に対するものであったと指摘し、火葬に反対している(wikipediaより引用)

やはり、聖書でも「火葬」は否定されています。

しかし、米国でも2013年には43%が火葬を選んでいるそうですので、費用の面や信仰が薄れつつあるのは仕方ないのかもしれません。

イスラム教もキリスト教も元を辿れば旧約聖書となっています。

調べてみて、復活に関しては、そこまで大きな違いはないなという印象でした。

復活に関しては、やはり亡くなった時と同じ姿で復活するそうですね。

若返って復活するのかなと思っていました笑。

甥っ子くん(生後11ヶ月)が、祖母が亡くなってから人がいない方向を見てケラケラ笑ったり夜中に笑うので、妹が怖がっていたのですが、先々週に祖母の遺影を見てケラケラ笑ったそうで、やはり亡くなっても祖母の姿のままなんだなと思ったので、コーラン通りなんだなと感じました。

まぁ、他人の赤ちゃんにもよく声をかける人でしたし、赤ちゃんにも好かれる祖母だったので、あり得るエピソードだなと思いました笑。

妹だけではなく、Xのフォロワーさんも似た様な体験をされているそうですので、信憑性は高いのかなと思います。

イスラム教に関しては、死者への尊厳を尊重する為とされており、唯一神アッラーはどのような状態からでも身体を蘇らせることが可能であると信じているムスリムは、復活の為に土葬しているわけではないそうです。

それでは、今回はここまで。
ありがとうございました。

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