見出し画像

本当の覚醒とは?

今回は本当の覚醒について、考察していこうと思います。
僕は「覚醒者」とこの界隈について気付いてる方を書いていましたが、厳密に覚醒者を定義するとすれば、どこまで知っていれば「覚醒者」と呼べるんだろうなと思うんですよね。

結論から言いますと、「死」とは存在していないという事に気づいている方が「覚醒者」なのではないかと思っています。
そこで、まず「死」について聖句を用いながら考察していこうと思います。

死とは罪?

聖書は一貫して、「死」が原因で私たちが罪を犯すようになったことを教えています。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。「死」が人を支配するようになったことで、私たちの中に罪が君臨するようになったことを教えている。「それは、罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)。

ということは、「死」が神からの罰となれば、神が僕たちに罪を犯すよう仕向けたことになり、神こそが「罪の生みの親」という話になってしまいます。これは、罪と一貫して戦われてきた神の姿と完全に矛盾しますね。

僕たちは罪を犯す堕落した者となったので、神から「死」という罰を背負わされたとなれば、僕たちは神に似せて造られた以上、神も僕たちと同様に堕落する性質を持っておられることになり、僕たち同様に罪を犯す可能性があるということになります。そうなると、罪を犯すことができないとする神の性質とは完全に矛盾してしまいますよね。
「死」が罪に対する神からの罰であり、僕たちは神の怒りの中にいるとなれば、罪を取り除くキリストの十字架は神の怒りを鎮めるためであったことになります。そうすると、キリストと父なる神は、全く考えを異にする方ということになり、同じ思いを共有する三位一体の神とは完全に矛盾します。

僕たちもアダムにあって罪を犯したので、罰として「死」を背負わされ、滅び行く「肉の体」になったのなら、すなわち「肉の体」は罪を犯したことの結果となれば、イエスはどうなってしまうのでしょう。イエスも「肉の体」を持って来られたので、アダムにあって罪を犯したということなのでしょうか。この疑問は、いまだ解かれていません。

そもそもイエスは、罪に対してこう言われました。「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)。あるいは、「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜(ぼうとく)も赦(ゆる)していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません」(マタイ12:31)と言われた。「御霊に逆らう冒涜は赦されません」とは、キリストを信じさせようとする御霊の働きを拒む罪であり、キリストを信じないことを指します。

このイエスの言葉が真実であるなら、どうして神はアダムの罪をさばかれたのか、という疑問が生じます。アダムが犯した罪は、食べるなと言われた物を食べただけであり、神を信じないという罪ではなかったからです。あくまでもイエスが言われた、「どんな罪も冒涜も赦していただけます」に該当する罪でした。にもかかわらず、神はアダムの罪を怒り、「死」に処したとなれば、イエスは罪の処分について嘘をついたということなのでしょうか。

このように、「死」を神からの罰とするなら、さまざまな矛盾や疑問が一気に噴出してきます。しかし人は、「死」を罪に対する神の罰と解したために、こうした矛盾や疑問への返答に追われる羽目になりました。その結果、それに対するさまざまな回答が生まれ、今日に至ってもどの回答が正しいかと論争が続いています。どうしてこのような事態になったのでしょう。それを知るには、次の話が大いに役立つと思います。


「有名な外科医がいた。ある日のこと、交通事故で大けがをした親子が緊急搬送されてきた。父親はすでに死亡していた。子どもは重傷であった。早速、有名な外科医は子どもを治療しようとした。その時、有名な外科医は叫んだ。『これは私の息子だ!』」

これを読んで、重傷を負った子どもと「有名な外科医」との関係が分かるでしょうか。多くの人は「有名な外科医」というと、自らの「経験」から「男性」を連想するために、この子の実の父親だと思ってしまうのではないでしょうか。そうなると、死亡した父親という人は、一体誰だったのかという疑問が生じる。そこで人は、それを合理的に解決するためのさまざまな回答を試みます。
例えば、この「有名な外科医」は離婚し、今回事故を起こしたのは離婚した妻の再婚相手だという回答を試みるでしょう。あるいは、「有名な外科医」が、何らかの理由で自分の息子を養子に出し、その養子先の父親と事故に遭ったとする回答を試みます。あるいは、この子は誘拐され行方不明になっていた実の子であり、誘拐した男と事故に遭ったという回答を試みます。あるいは、この「有名な外科医」は勘違いをしたか、嘘をついたとする回答を試みる。そして、互いにどちらの回答が優れているかを巡って論争が起きると思われます。
しかし、どの回答も正解ではないんですね。この「有名な外科医」は「女性」であり、事故に遭った子どもの「母親」でした。交通事故で死亡したのは自分の夫であり、実の息子が大ケガをして運ばれて来たので、「これは私の息子だ!」と叫んだんです。

この答えを聞くと、人は一様に納得し、自分の回答を取り下げます。誰もこの答えに異議を唱えません。そうであれば、実に筋の通った自然な話になり、何の矛盾も疑問も生じないからです。そして、人は一様に思うでしょう。「何だ、実に簡単な答えではないか」と。

ところが、こんな簡単な答えが、自分の「経験」に惑わされ、見いだせないのである。これこそが、「経験」から来る惑わしの恐ろしさにほかならないのです。

先ほどの「死」の話は、これとまったく同じです。人は「罪」と聞くと、積み上げてきた「経験」から勝手に「罰」を連想し、その罰が神からの「死」だと思い込んでしまうでしょう。そのため、アダムが罪を犯した記事を読むと、何の疑いもなく、神が罰として「死」を背負わせたと勝手に決めてかかる。

そのようなことは何も書かれていないんですが、「有名な外科医」の話同様に、勝手に思い込んでしまう。そうなると、先に述べたような矛盾と疑問が生じてしまうので、何とか合理的な説明をしようとさまざまな回答を試みる。

しかし、「死」は神からの罰ではなかったとなれば、実は何の矛盾も疑問も生じないのです。「有名な外科医」は「女性」だと知れば、何の矛盾も疑問も生じなかったのと同じです。

そこで今回は、「死」は神からの罰でなかったことを丁寧に説明したいんです。というのも、これは「神の福音」理解における肝となるからです。

罪から来る報酬は死

人は自らの経験から、「死」は人の罪に対する神からの罰と考え、そのことにまったく疑問を抱きません。それどころか、聖書もそう教えていると思い込んでいます。その際、次の御言葉が必ず引き合いに出されます。

「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)

しかし、ここで「報酬」と訳されているギリシャ語は「オプソーニオン」[ὀψώνιον]であって、これは当然予想される自然の結果を意味します。分かりやすく言うと、人は高いところから飛び降りればケガをするが、その場合のケガは第三者による罰でも報いでもありません。

そのケガは、ただ飛び降りるという行為に伴って生じたのであって、ケガをすることは当然予想できますよね。そうした当然予想できる事柄を「オプソーニオン」といいます。このことを、今度は別の事例で説明してみます。

親が子どもに、千円で草刈りをお願いした。子どもは草刈りをしたので、親は千円をあげた。子どもにしてみれば、この千円は当然予測できたので、これは「報酬」となります。

一方、別の親は、ただ子どもに草刈りをお願いした。子どもはきれいに草を刈った。そこで親はよくやったと言って千円のお小遣いをあげた。この場合の千円は、子どもにしてみれば予測できなかったので「報酬」ではなく、「報い」となります。まさに「オプソーニオン」とは、日本語の「報酬」に当たる言葉であって、「報い」とは違います。

すなわち、「罪から来る報酬は死です」とは、人の「死」は第三者による報い(罰)ではないことを示しています。

神ご自身も、人が罪を犯せば自動的に死が訪れることを知っていたので、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と言われたのです。

「善悪の知識の木」を「毒キノコ」に例えるなら、神は「毒キノコを食べると、必ず死ぬ」と言われたのでした。要は、「罪を犯せば、自動的に死んでしまう」と言われた。「罪」と「死」とは、まさしくそうした関係にあったからこそ、聖書は「罪から来る報酬は死です」と教えています。

では、なぜ「罪」と「死」がそうした関係にあったのでしょう。それは「罪」とは何かを知れば容易に分かります。

神は人を造られたとき、人も神と1つ思いを共有するよう神に似せて造られた(創世記1:26)。つまり、人は神の部分として造られて、「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)、神と共に生きるようにされた。そのため、人がわずかでも「神と異なる思い」を持つと、神と1つ思いを共有する関係は維持できなくなり、人は神との結びつきを失うようになっていたのです。
そうしたことから、「神と異なる思い」を持つことが、すなわち「神の律法」に逆らう思いを持つことが、人における罪となった。だから聖書は、「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)と教えている。「神の律法に逆らう」とは、まさに「神と異なる思い」を心に持つことを意味します。
当然、悪魔はそこに目を付けました。そこで悪魔は蛇を使い、言葉巧みに人を欺き、「神と異なる思い」を信じさせ、食べてはならないと言われていた物を食べさせてしまった。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)。これが、人類最初の罪となり、その罪の結果、自動的に神と1つ思いを共有する関係は崩壊し、人は神との結びつきを失ってしまったのです。
これが「死」であり、そこには神の関与はまったくありませんでした。それゆえ神は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と教えていました。まことに、「罪」と「死」の関係は、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)なのである。
そもそも「死」が人の罪に対する神からの罰であり、そのことを述べたかったのであれば、「罪から来る報酬は死です」ではなく、「罪から来る処罰は死です」と教えていたはずです。ギリシャ語には、第三者が「報い」として与える「処罰」を言い表す「ティモーリア」[τιμωρία]という言葉があるので、その言葉を使えばよかったのではないでしょうか。

ところが、ここではあえて「オプソーニオン」という言葉が使われています。それは、「死」がアダムの罪に伴い生じた出来事であり、神の罰ではなかったからです。

このように、罪とは「神と異なる思い」を持つことだと知るなら、人が罪を犯せば自動的に神との結びつきを失ってしまうことが分かります。それが「死」であり、あくまでもこれは罪に伴う出来事にすぎないのです。

さらに言うと、「死」を招く「神と異なる思い」を信じさせたのは、まさしく悪魔の仕業によったので、聖書は悪魔のことを「死の力を持つ者」と呼日ます。「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)。神のことを、「死の力を持つ者」とは呼びません。では、さらに「死」は神の罰ではなかったことを、今度は神の証言からも見てみましょう。

「死」が神の罰でなかったことは、罪を犯したアダムに対し、神がされた質問を見れば容易に分かります。

「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(創世記3:11)

ここで神は、「だれが」、裸であることを教えたのかと聞かれたが、アダムが裸である自分を知ったのは、まさに神との結びつきを失う「死」が入り込んだからでした。つまり、神はここで、どうして「死」を招いたのかと聞かれたのです。「死」が神からの罰であったなら、決してこのような質問はされなかったでしょう。「お前が罪を犯したので、私はお前との関係を断ち切った。だから、お前は裸である自分を知るようになった」と言っていたんです。

さらに神は、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と聞き直されました。食べたなら死ぬと注意していた物を、「食べたのか」と聞かれたのです。この言葉からも、食べたことで、裸を知る「死」が入り込んだことが分かります。「死」は神からの罰ではなく、「神と異なる思い」を食べたことに伴う出来事であったことが十分に分かるのではないでしょうか。

こうした一連の神の証言こそ、「死」は神の罰ではなかったことを裏付けています。もしそうではないと言うのなら、神はここで人を欺いたことになります。自分が「死」をもたらしておきながら、嘘をついてとぼけたことになるのではないでしょうか。

それでも人によっては言うのかもしれません。神はアダムとエバをエデンの園から追い出したではないかと。あれこそ、神が人との関係を断ち切った「死」であり、「死」は神の罰であったことを明確に示していると言い張る人もいるでしょう。本当にそうなのでしょうか。

神が「死」について言われたことは、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)でした。食べた「とき」に起きたことは、裸を知る出来事であって、エデンの園からの追放ではありません。

無論、「とき」と訳されているヘブライ語は「ヨーム」[יוֹם]なので、「その時」(time)という意味の他にも、1日を表す「day」の意味も、1年を表す「year」の意味もあり、エデンの園を追い出した出来事を指していたと思われます。しかし、ここでの「ヨーム」は、明らかに食べた「その時」(time)を指していました。その理由はこうです。

アダムは食べた「その時」、裸を知るようになりました。そのことで恥ずかしいと感じる「劣等感」を持つようになり、「愛せよ」という御心とは真逆の「愛されたい」という「罪の思い」を抱くようになりました。そのことの現れが、いちじくの木の葉で腰のおおいを作ることであった(創世記3:7)。

新約聖書は、「死」が「罪の思い」になったと定義する以上、「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)、食べた「とき」に起きた「死」とは、明らかに裸を知る出来事を指しています。エデンの園からの追放と「死」とは、まったく無関係でした。ならば、どうして神はアダムとエバをエデンの園から追い出したのでしょう。そのことも併せて考察していきます。

神は彼らを追放した理由を、はっきりこう言われた。

「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」(創世記3:22)

アダムは神との結びつきを失う「死」により、「愛されたい」という願望に生きるようになり、自分が愛されるための「善悪」を知るようになりました。それで神は、「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」と言われました。

その「善悪」の知識は、アダムがいちじくの木の葉で腰のおおいを作ったように、「行い」でもって愛されようとする知識でした。そのため、アダムは「行い」でもって神の義を獲得し、神に愛されることを目指すようになったのです。つまり、「行い」の義をもって、神と永遠に生きようとしたのです。そのことを、「手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ」と言われたのです。

しかし、その考えは誤りでした。人が義とされるのは信仰によるのであって、「行い」ではなかったからです。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)。ゆえに神は、神の義を象徴する「いのちの木」に人が自らの力で(行いで)近づくことができないよう、その道をふさがれたのです。

これが、アダムとエバを追放した出来事の真相であり、それはまさしく「神の愛」の何ものでもなかったのです。彼らを助けようとしたのであって、神の罰などでは決してなかったんです。ましてや、神が人との関係を断ち切る「死」を意味するものでもなかった。

かつてイエスは、弟子たちの前から自分の姿を見えなくすることをこう言われました。「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」(ヨハネ16:10)。神がアダムとエバにされたことは、まさしくこれとまったく同じです。

このように、「死」は神から来たのではありません。そもそも創世記3章のどこにも、神は人の罪に対して怒り、「死」をもって罰したという記事はないんです。それどころか、神との結びつきを失う「死」によって裸の自分を知るようになったアダムとエバに、神は優しく皮の衣を着せられたのです。

「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)。「死」は神からの罰ではなかったから、彼らをあわれみ、そうされたのです。では、「死」は神から来たのではないことを示す決定的な御言葉をご紹介します。


「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)

ここに、「死」は神にとって「最後の敵」であることが述べられています。ということは、「死」は神から出たとなれば、「最後の敵」は神ご自身ということになってしまいます。「死」が神からの罰であれば、神こそが「死の力」を持つ者であり「最後の敵」ということになるでしょう。
だが、聖書は断言しています。「死の力」を持つ者は「悪魔」であり、キリストがその「悪魔」を滅ぼしたと。「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2:14)。それにより、キリストは「死」を滅ぼしたのだと。「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(Ⅱテモテ1:10)。
そのおかげで、人は「最後の敵」である「死」が完全に滅ぼされることを、「終わりの日」に知ることができます。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント15:52)。
これが真実であれば、「死」が神からの罰になどなりようがない。つまり、「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)という御言葉こそ、「死」は神の罰ではなかったことを示す決定打となると思います。

見てきたように、アダムの罪を通して入り込んだ「死」は、神からの罰ではなく、あくまでもアダムとエバの罪に伴う出来事であり、罪の報酬が「死」でした。だから聖書は、「というのは、死がひとりの人を通して来たように」(Ⅰコリント15:21)と綴(つづ)っています。「死」はアダムを通して来たと言い、神の関与はまったくなかったことを表現しています。

また、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」(ローマ5:12)と言い、「罪によって神が死を下し」とは言っていません。「死」については、あくまでも罪に伴う出来事として表現しています。

そして、「死」とは神との結びつきを失ってしまうことだったので、そのことで人は永遠に生きることができなくなり、それに伴い「体」が朽ちる体へと変化した。さらに人のために造られた被造物も、人の「死」に伴い、同じ滅びの拘束を受けるようになりました(創世記3:17~19、ローマ8:20~21)。

すなわち、人が覚える災いのすべては、まさしく悪魔の仕業で入り込んだ「死」に起因するのであって、神からではありません。ゆえにイエスは、弟子たちから「障がい者」に対する質問を受けたとき、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)と言われた。災いは神からの罰ではないこと、そして災いから人を助けるのが神であることを教えられました。

しかし、人は自らの「経験」に惑わされ、「死」を罪に対する神からの罰だと思い込んでしまったのです。その結果、他の御言葉との矛盾や疑問が一気に噴出し、それに対する返答に追われる羽目になったのです。こうして、神の福音には「おおい」が掛かってしまったのです。まさしく「おおい」は、「死」に対する誤解から始まったのですね。聖書はこの様子を、次のように解説しています。

「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです」(Ⅱコリント3:15)

ということは、この「おおい」さえ取り除かれれば、そこから素晴らしい福音が見えるようになります。そこで今回は、その「おおい」を取り除くこと、つまり「おおい」を取り除いた方が真の覚醒者ではないかと思うんですよね。それは一重に、次のような素晴らしい福音が見えるようになるためなのです。

「死」は、悪魔の仕業によって入り込んだ。その「死」が原因で、私たちは罪を犯すようになり、さまざまな災いにも見舞われるようになった。よって、神は人の罪を責めることなく、求める者を無償で義とし、救ってくださる。そのままで愛してくださるのです。

「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:24、新共同訳)

無償で救われる以上、人の救いが人の行いによって取り消されることもないんです。すなわち、人は悪魔の仕業で「死」を背負わされたので、神も人の行いに関係なく、ただ神に助けを乞うなら、誰であれキリストによって「永遠のいのち」を背負わせてくださるのです。イエスはそのことを、こう言われました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)

この恵みによって「死」は完全に滅び去り、「死」によってもたらされた人の罪も災いも、完全に取り除かれてしまうでしょう。「死」は罰ではないということが分かると、こうした素晴らしいキリストの福音が見えてくるのです。誰であれ、神にそのままで愛されている福音が見えてきます。


死をもたらした悪魔の正体とは?



モンキー・D・ドラゴン


それでは死をもたらした悪魔の正体とは?
それは堕天使「ルシファー」です。
天界から追放されたルシファーとは、「エンリル」の事ですね。
このエンリルは、ノアの方舟時の大水害やこれまでの様々な疫病等もエンリルの仕業だと言われています。
そのエンリルがモデルとなっていると言われているのが、ワンピースの主人公の父であるドラゴンなんですね。



ドラゴンという名で察して頂けるとありがたいのですが、ドラゴン=龍であり、蛇でもあるのです。

ワンピース、ドラゴンボールといったメジャーな漫画は、悪魔崇拝つまりルシファーを讃える漫画だったんです。


バフォメット



このバフォメットもルシファーですし、全てがルシファーの為に存在していたという星が、この地球だったのです。



WHOのロゴ

このロゴからもお分かりいただけると思いますが、聖書でいう「人が支配する」という時代、つまり終わりの時に終わる時代こそ、ルシファーが支配してきた闇のシステムが終わるという時なのです。
ルシファーが支配する為に必要だったもの、それが「死」という概念です。

不老不死は、古今東西、誰もが夢みていました。
クリスチャンは、「終わりの時」の為に毎週末に教会へと通い、祈りを2023年間に渡り捧げてきました。
それも「終わりの時」に救われる為なのです。
しかし、そもそも「死」とは存在していないのです。
この「死」とは存在しておらず、ルシファーが作り出した概念に過ぎないという事が分かった時こそ、本当に「覚醒者」となれるのではないでしょうか。
僕を含めた多くの方々が「覚醒」していないと思うのが、ここにあります。
こういったブログ記事を書いていますが、どこかで「復活」がなかったらどうしようと考えている自分がいます。

Qプランを知った当初から、「覚醒者でも顎が外れるような事が起きる」という噂がありました。
様々な事を調べ、日頃からQプランについて調べている僕らの顎が外れる様な事が起きるなんて、「復活」くらいしかありませんよね。

祖母が亡くなるまでは「聖書」を読み込んで、この様なブログ記事を書くことになるとは思いもしませんでした。
「福音」を知り、僕と同じく大切な方を亡くされた方のお役に立ちたいと思い、これまでブログを書き続けてきました。
もうまもなく、その役目も終わりに近づいてきたのかなと思っています。

大切な人々がEBS後に帰ってきます。
その時に、「死」が僕らの中からなくなります。
「死」が本当にないと、ないことが当たり前だと常識になった時に、初めて「覚醒者」と言えるのではないでしょうか。

僕はまだ「覚醒」はしていません。
毎日、祖母のことを思い出しては泣いてしまうので。

EBSがあれば、そして様々なことを知ってしまえば社会は大混乱となるでしょう。
混乱の最大の原因はイルミナティが行ってきた様々なジェノサイドによる死者が「2度と戻ってこない」という思い込みによるものです。
つまり聖書通りにいかないと、誰もトランプ大統領を信じないし、覚醒もしないんです。
5次元社会へと移行する為に、最も必要な出来事、それが「死者が栄光の体となり蘇ること、僕らが栄光の体となり、不死となること」なんです。
御伽噺だと思いますか?
これを御伽噺だと思う程に、イルミナティから僕らは洗脳されてきたという事が真実なのです。


それでは、今回はここまで。
ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?