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長州力は何故敗者髪切りマッチを望み、それを実現できなかったのか?
世間から随分遅れて NETFRIXドラマシリーズ『極悪女王』全5話の余韻に浸っている。当事者本人からももっと全女=松永兄弟の闇を深堀りした方がみたいな意見も見受けられたが、私はこのドラマについてはそういった事よりも『プロ論』を対照的に描いた意味で味わい深かったと思う。エリートと雑草いうありきたりな対局が導くアスリート原理主義と表現者としてのヒールとベビーフェースによる共犯関係の対立を短い話数で実に巧く描けていたと思う。WWWA王座戦を映像表現しない事での意思表示手段や最終的に視聴者に真の勝者はどちらなのか?を委ねたエンディングも非常に良かった。
もちろんこれは女子プロ。。。否!プロレス業界だけの話ではない。それは全てのプロ論にもあてはまるし映像や記事・投稿に至る全ての表現における現代への問いでもある。恐らく観客・視聴者としてダンプ・長与に心躍らせられながら、プレイヤーとしてはジャガー・飛鳥の原理主義に共感する方が圧倒的に多いのではないだろうか?それにしても長与千種は敗者髪切りマッチで最高のヒール相手ダンプ松本と共犯し、その2年前のテリー・ファンク引退試合とIWGP決勝猪木舌出失神KOを全く観てないであろう女子中高生相手に一夜にして再現し心を激しく揺さぶったのだからやはり稀代の天才レスラーであったのは間違いないのである。
さてそのテリー引退と猪木舌出失神KOが起きた 1983年。。。正確にはそれが起こるより同年のほんの少し前に敗者髪切りマッチを叫んだ男がいる。
ようやく本題である長州力である。これも意見分かれると思われるが長州力の生涯ベストバウトと言えば 1983年4月3日に蔵前国技館で行われた藤波辰巳(当時)を破ってWWFインターナショナル選手権を奪った試合ではなかろうかと思う。そして古いマニア(特に週プロ読者層)には誰もいない控室でターザン山本氏に呟いた『俺の人生にも一度くらいこんな事があってもいいだろう』が数ある長州語録の中でも感動的な一言として記憶されているのではないだろうか?
但しこれは有名な『咬ませ犬』発言同様に映像記録としては残っていない。
あの日長州力はリング上で保坂アナとのインタビューでは『いやいやまだまだこれから!次は藤波と髪の毛をかけてやるぞ!』とまだ垂れる程の長髪ではなかった中途半端な後ろ髪を掴みながら叫んだのだ。結局この1984年に長州vs藤波はこの後藤波がリングアウトで王座奪還するまで3回対戦した。古舘伊知郎氏の残した『名勝負数え唄』とはこの4回のWWFインター選手権を巡る期間の攻防と個人的には理解しているが、長州が叫んだ敗者髪切りマッチは結局実現しなかった。
それまでパンチパーマや七三の短髪だった長州力が長髪になった理由としては、メキシコ左遷(アンドレ等との対戦が肉体的にキツク自ら希望説もあり)中にスペイン語が解らず現地でおかしな髪型にされるのが嫌で床屋にゆかなかったというのが定説となっている。もちろんこれは事実だと思う。ただ昨今の長州さんのおコメ事情やグラン浜田さんのメキシコでの悪評などを知るにつけ。。。ここからは全くソースの無い話になので素人の想像話としてそれを許容できる方のみ是非楽しんで頂きたい。
敗者髪切りマッチと言えば昨今でも現NXT王者ジュリアまでもが体感した女子プロレスのお家芸的な試合形式であるが、男女問わず敗者が日本的価値観よりも遥かに屈辱的な罰ゲームとして認知されているのがメキシコ=ルチャリブレでのカベジュラ・コントラ・カベジュラとして認識されている。そして多くのルード(メキシコでの悪役を現す)経験をした日本人レスラー達はこのカベジュラ戦で敗れる事で下世話だが大金を手にした自慢話を目にしてきた今となっては。。。長州さん!その為にむしろ髪を伸ばしてたんじゃないですか?ととても本人には怖くて聞けないが聞いてみたくもある。
さて一旦ここで革命前の長州力について検証しておきたい。冒頭の千種vs飛鳥論で言えば間違いなく革命前の長州は飛鳥的なレスラーだったと思う。革命後のライバル藤波がジュニアブームを巻き起こしたのであくまでイメージは格下扱いではあったが、実は実績的には北米タッグ戦ながらマサ斎藤そしてストロング小林からバックドロップで完全フォールを奪う事で当時の新日本№4のポジションを明確に与えられている。後に当人長州が日テレとの契約でTV出演できない事もあり不毛な抗争になった世代闘争などはその10年近く前に長州は実は既に達成済みだったのである。後に暖簾分けさせてもらった恩?はあるにしても当時売り出し中スタン・ハンセンのウエスタンラリアットの生贄にされ続けた事が気の毒ではあるが地味さに拍車をかけたのかもしれない。メキシコ行きを嘆願したくなる気持ちは痛いほどわかる。
革命と言えば天龍は長州の後塵を拝したように歴史上は見えるが、少し見方を変えると 1982年秋にメキシコから凱旋帰国したまだ不安定未知数な長州の立場的な背景は前年 1981年にビル・ロビンソンと組んで馬場・鶴田のインタータッグに挑戦した天龍にむしろ近かったように今は思える。この時点の天龍は何度目かの凱旋帰国でもパッとせずこのシリーズが終わったらグレート・カブキさんを頼ってテキサスに再修業を模索していたと聞く。今思うとその世界線もそれはそれでと思うがそこは今回は割愛する。そのメンタルで開き直った天龍は当時全日本ではあり得なかった猪木の得意技延髄蹴りや大相撲時代の突っ張りを使用したのがウケて全日本の№3ポジションを以降不動のモノとした。なので実はどちらが先か後かは実に微妙なのである。
ここまで説明が非常に長くなったが。。。本題の長州が敗者髪切りマッチを望んだ背景には『俺の人生で一回はこんな時もあるだろう。でも結局は藤波にベルトを奪還されたら俺なんかまたお払い箱で格下扱いになるんだろ?』
と開き直ってだったらメキシコでおコメに出来なかった髪ももうそろそろ切ってサッパリしたいな!等と考えていたのではないかと推測する。前述の天龍さん的メンタルで紐解くと、凱旋帰国して待遇や評価が変わらなければまたメキシコに戻って闘牛場を行う大会場エルトレオのメインでUWA王座を争ったカネックとの完全決着戦でカベジュラ戦で大儲けすれば良いくらいに開き直っていたからこそ長州力は飛鳥的思想から長与的思想にレスラーとして脱皮できたのではないだろうか?と想像する。
1983年6月2日。IWGP決勝での猪木舌出し失神KO(真意はここでは不問)はもしかしたら長州のレスラー人生をも変えてしまったのかもしれない。
もしこの事で猪木欠場という事態にならなかったら前述の名勝負数え唄と古館さんに評されたあの短期間による長州vs藤波のWWFインター王座連戦がメインとしてあれ程熱狂的に行われたのか?については答えがだせない。そしてこの藤波との抗争と同時期に長州は元はぐれ国際軍団を離脱したアニマル浜口と合体しその軍団は長州に由来する『維新軍』と命名された事が、今回の本題である長州が髪を切る事を断念し何かを引き受ける駄目押しになったのではないだろうか?
NETFRIX『悪のオーナー:Mrマクマホン』でヴィンスは『プロレスとはイメージ商売である』という信念を力説している。長州力と言う実力はあるが地味だったレスラーに必要だったイメージ戦略は『維新』という言葉に激しくシンクロした長髪をなびかせながら浴びせかけるスピード感あふれる刃(ラリアット)だったのである。結局私の記憶では 1993年天龍さんとのドーム決戦を終えて長州・藤波vs龍原砲の夢対決直前にアキレス腱断裂にて欠場し翌年藤原喜明とのドーム復帰戦の間まで長州はあの長髪を切る事は無かった。余談にはなるが 1984年夏蔵前国技館でのプロレスラスト興行のメインはアントニオ猪木vs長州力だった。新日本プロレスワールドは入場シーン全カットなので今からなかなか確認は難しいと思うがこの日は記念品授与等があった為に猪木が先に入場して来た。意図的だったのか偶然かは今更問題ではない。蔵前国技館にて最後に入場して来たレスラーは長州力だったのである。
とここまで長州力について熱く語ってきたが実は私は長州信者ではない。革命当時も私は藤波派だった。しかしこれ以外にも新旧世代闘争という茶番に至った長州TV問題やその直前に行われた藤原喜明とのお蔵入りTVマッチこそが長州力の隠れ生涯ベストバウトだったのではないかという話も語りたかったがこれ以上は長すぎるので今回はここまでとしたい。また髪の毛関連で木戸修さんの髪にまつわる不穏試合を締めに考えていたがこれもどこかでまた語りたいと思う。さてそのとりとめない締めに選んだのは私の記憶についての検証である。Youtubeをメインに時折とんでもないお宝映像がUPされるが、長州力凱旋帰国時ワールドプロレスリングのオープニング画像についてはまだ残念ながら保有者を聞いたことがない。実はここで当時プロレス興行では恒例だったサインボール投げでのアクシデント模様が放送された。藤波が凱旋の長州におふざけで後ろからボールをぶつけてニヤニヤしてると長州がガチ切れするという例の6人タッグに繋がる非常に貴重なシーンである。本当は正規映像としてNJPWWにこういうのをUPして欲しいのだが、NETFRIXで『革命戦士』がもしドラマ化されるのならばその際に是非描いて欲しい幻のシーンとしてここに記憶しておきたい。