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誰のものでもない光に抱かれたい



 街を彩る光の明滅。
 夜を形作るその灯りは沢山の人の幸せと不幸せで出来ていて、その全てを眺めながら、きっと自分もこの灯りの中の一つで、そのはずなのにそこに自分は居ないと思いたかった。
 そうはなれない事も知っていたけど、誰かを導いたり、誰かを照らす灯りの一つではないと、そこにいる事は出来ないと、思いたかった。

 きっと意味が出来てしまったから。
 東京を彩る多くの灯りにも、東京タワーにも。
多くの意味が出来てしまって、それを無くしてしまった時、きっと以前と同じ気持ちでは眺められないから。

 誰のものでもない沢山の光に抱かれたいと思った。
 自分とは全く意味のつながらない沢山の人が作った生活の灯りの中に、落ちて落ちて。
 そこには自分は居ないから。

 緊急事態宣言が明けて日常生活を取り戻して一年後、函館の街を訪れた。
 本当に誰のものでもなく自分の為だけの一人の旅としては随分久しぶりで、からりと乾燥した涼やかな潮風が、湿り切った夏の東京を忘れさせてくれる。そんな気がした。

八軒坂

 恋人との生活の中で、お互いの沢山の行きたい所リスト、したい事リストを共有した。緊急事態宣言中で中々会う時間が取れないという事もあって、共有する事は途轍もなく膨大になっていて、一つ一つ潰していくだけでも、生涯を賭ける価値のあるものであった。
 それだけに、恋人との生活を無くしてしまった後では、それ全てを避けて新しく自分を取り戻すことは難しくて。どこに行きたいかも何をしたいのかも、そして何より自分の心も未来も委ねていたからこそ、自分一人の置き所を再発見するのが、難しかった。結局恋人がいたらこんな風にしたいとか、こんな所に行ってみたいとか、こんな経験をしてみたいとか、非日常側しか考えられておらず、肝心の日常が置いてけぼりになっていたからなのかもしれない。現実的な日常では、もっと小さな望みだけで、きっと満足出来ていたはずなのに。

五稜郭タワーから

 函館の街をあてもなく、ベタな観光をしている時、一人で生きていける気がした。いや、そうしたいと思いながら歩いていた。
 そこに恋人の影はなく、誰かと過ごす幸せを掴めないのではないかという不安もなく、ただ純粋に生活をしていけるのではと思っていた。普通の仕事をして、ご飯を食べて、あたりまえに小さな部屋で寝たり掃除をしたり。
 たまに街をぶらついて好きなもの好きな店を見つけて、小さな交流を重ねて、好きな景色を見つけて、そんな日々がどこかにあるんじゃないかと、そんな事を考えていた。

旧ロシア領事館

 函館の街はいい意味でコンパクトだ。
 海も有名な夜景も近い距離にあるし、空港に近いところに温泉もある。都会すぎる面はないし、ちょっとした寂れ具合もレトロと言っておかしくない。街を探せば気になる店を見つけられるし、路面電車も使いやすい。

赤レンガ倉庫

 函館市内からちょっと離れた区間にあるゲストハウスに二泊し、3日間函館の街を歩き回った。たまたまゲストハウスに泊まっていた他の宿泊客と軽く会話をしたり、共に足湯に行ったり、夜中はそんな交流が出来た。まだまだそういったバックパッカーのような交流の仕方が出来るのだなと、少し安心した。

 昔から、初対面で数日だけ関わるようなそんな人々との方が上手くコミュニケーションが取れる方だ。わざわざLINEやインスタの交換なんてしなくていい、その場限りの縁の方が心地が良かった。都内でしがらみや立場、時間の使い方や価値観、生活リズム、過去の遍歴、年齢、性別、まるで拒絶する理由を探しているような、自分の前にあえて壁を作ることにわざわざ自分を納得させるような、そんな人間関係で疲れ切っていた自分にとって、明日にはいなくなる、ただ暇だからという理由で交流を育める縁というのは本当に心地が良かった。あれ?おかしいな。一人で居たかったはずなのにな。なんて。

函館山展望台

 これってSNSの弊害だとは思うのだが、僕たちは当然のように共有する人々を選んでいる。
mixi、Xから始まって、ごくごく身近な人たちに好きなものや行った所、思い出を共有する事が当たり前になって、Facebookでそれが最高点まで行った。その内上がってくる情報が段々自分自身の自己顕示欲を掻き乱すようになって、instaglamなど、情報の深さを捨てるようになっていった。
 ネット社会では不特定多数の人と繋がれるけど、代わりに身近な人々との区分けを自然にするようになった。オフラインで話せない事が、オンラインで言えるようになった。
 それが良い事なのか悪いことなのかは人によるしわからない。
 ただ、誰とも繋がらないこの旅の中で、いつか誰かにここでの思い出を直接、話してみたいなと思ったのは、自分が寂しいと思い始めたからなのかな、と思った。

函館山 日本三大夜景

 函館山の夜景を沢山の繋がらない人達と眺めた。
 それは筆舌に尽くし難い程に美しかった。
 思い思いに、誰かとこの美しさを共有する観客の気持ちも美しく、光を形作る函館の人々の暮らしも美しかった。

 自分はそこにはいないんだと、そう思いながらその場に立って。
 きっと自分も街を彩る光の一つになりたいと、誰かと話をしてみたいとそんな事を思いながら。
 東京タワーで、スカイツリーで誰かと光を眺めたそんな日々を想いながら。本当はガラスに反射するその表情を見ていた自分を想いながら。

 そうしてまた日々は続く。
 東京に帰ればまた些末な日々は続き、自分の心に向き合う機会も少なくなった。
 自分自身は変わらずとも、周りは変わっていった。関わる人々の沢山の幸せを見、そして知った。くだらない事も知ったし見てきた。
 その一端を担っているのは間違いなく自分で。
 変えているのは自分だった。

 そうして、また誰のものでもない光に抱かれて。
 自分のものではない沢山の光に抱かれて。
 夜そのもの。沢山の灯りを輝かせる、そんな夜そのものになって。

 でも本当は、小さな灯りに抱かれたい。
 いつかそんな日が来る事を今も願っている。

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薄情屋遊冶郎
サポートはお任せ致します。とりあえず時々吠えているので、石でも積んでくれたら良い。