The Wheel of life-200notes-
2017年から書き始め、気が付いた時にはもう記事数は199記事を超えていた。
残念ながら始めた当初のnoteと2019年、そして今のnoteはどこか趣が違うようになっていて、ひとえに、自分が記事を書くことによって自分を書き換えていったからに他ならないが、きっと、その過去もここまでの道のりとしては、残していくことに悪くはないのだろう。
栄えある200記事目は今の自分に行きつくための重要な記事、マイルストーンとして残していこうと思う。一つ言えることはもうこの段階の自分ではなくなっているし、それが完全に消滅したわけでもない。一面として掌握しただけだ。自分がどういう人間なのか、そんなことはこれから作っていくことにする。だから、ここから先は、別人が書いている、そう思ってくれて、構わない。読み方は委ねる。
1.自己開示-破壊の本能について-
・88世代の地獄道
初めて書いた自己開示系note、主に大学卒業~社会人1年目までの考え方を振り返った文章。主に仕事観、人生観の一端。表層部分だとは思う。
・昔いじめられていたけど、今は気にしてないなんて、どの口が言いやがる#8月31日の夜に
今まで書いた中で最も嫌いな記事。明確に自分の過去を振り返ったもので、全ユーザーを突き刺す気持ちで書いた。ここで言った事は明確に自分が、加害者意識を持っている事。辛い経験をしてきた人々に、あんなに共感しない、その理由。僕は加害者で、犯罪者、そういったレッテルを自分で貼り付けた。ただそれだけが全てではない。理由の部分はいずれリブートする予定。
ここから過去の焼却が始まった。
・暗夜という、力の壁#勝手にアンサーnote
事件後の長きに渡る、自己破壊について書いた。桃子さんのnoteに対する、更に破滅的な人生観を描いたが、この時の僕は、人間を捨てていたと思う。人を物扱いする、長きに渡る傲慢さの元凶が、これだ。
・止められる。ということ#幸せをテーマに書いてみよう
幸福論を完全否定し、手に入れた凪。前述の記事の価値観が少しずつ入っている。幸せになってはならないと、押し付けられた幸せを、信じられない心と。
この4作品は、思春期に創り上げられた思考を明らかにしてくれた。他者の生命を脅かしてでも、敵とみなした者の尊厳を踏みにじっても、己を維持しようとする試み。これが思春期に、誰かとの絆を感じたり、考えたりする事を、全否定していた。この思考が自分にとって、本来あるべき当然の人と交流する事、言葉を交わすこと、いつくしむこと、それらと置き換わってずっと内部にあった。だが、これだけではない。もう一人いた。
2.自己開示‐狂的な理性について‐
・ペンよりも先に、剣によって救われた。
中高時代に生まれた、もう一人の自分がいる。彼は自分の中にいる、他者の生命を脅かし、尊厳を踏みにじり、支配によって人との関りを掌握しようとする本能に対して、自ら抗する強靭な理性だった。
これは、努めて手に入れた自分だった。そして、その環境があったことだけが、自分にとっての救いだった。だが、この理性は本能と同じぐらいの肥大化を持って、自分自身の人間としての活動を阻害した。
人を愛することを己の心の弱さと断じ、本音を話すことを心の甘えと断じ、体調の悪さを身体の弱さと断じた。
そして、その理性が他者に向けられる時、恥ずべき振る舞い、恥ずべき行為、暴力、嫉妬、怠惰、情欲、それらに対しての強烈な嫌悪感として現れた。
・破壊的な恋愛を完全否定したい。
他者が他者に対する暴力的な行動、威圧的な行動、甘え、それすら許すことが出来ないほど暴走した理性は、ここにおいて顕現した。生理的嫌悪そのままだった。
2019年、一つの変化が訪れた。これらの経験を書くことで、理性と本能がこれまで別々に動いていた自分から、融和の道を模索し始めたのだ。暴走した理性が、人を助けるため歩を進め、本能の力が人に対する承認欲求という形で顕現し始めた。
3.変革‐本能と理性の融和について‐
・華咲ける俺らのフィジカルと本能
自らを男性であると認め、尚のことそれを動かす欲求という本能に抗う。破壊でも、競争でもなく、分かち合うことに行きつく、その為にこそ気を昂らせ、強い気持ちで進んでいきたい。それを書いた作品だ。この時までは、まだまだ模索だった。
・夜を切り払う
これまで、理性によって己を制圧する為だけの試みであったはずの鍛錬が、この時、違った意味を持った。
この時まで自分には、対峙する相手が眼前に見えていた。だがこの日初めて、見えなくなった。その時振るった一刀は、筆舌に尽くしがたいほどの自由に満ち溢れていた。
そしてこの時初めて、この気持ちを誰かに伝えたいという、澄んだ本能が生まれた。人生において初めて、己が進む道を、誰かに肯定してもらえた気分になった。夜は、僕と共に連れ添って歩いていた。
・開けない指先達の絶唱
noハン会小冊子企画の小説。
これまでとは明らかに趣が異なっている。理性と本能の両輪が、行きたい場所へと回り始めたその瞬間の話である。ここで、自分は初めて、他者への無関心を恥じた。本能的に無関心だった自分を、受け入れた。そして、ここからは、という気持ちを理性で作り上げた。そういう作品だ。
全て偶然の産物だ。だけど、この時点でこれを書き上げたことが、自分にとっては大きな影響を与えている。
4.内在闘争との決別
・少年Aだったかもしれない私たちからの決別行
・我が背徳
とはいえ、すぐに新しい自分を受け入れられたわけではない。
明確なる決別と、意志による前進が必要だった。
長年抱いていた加害者意識との決別。そして、長年醜いものと断じてきた、人を慈しみ、手を取りたいという本能、愛情。それらを肯定する必要があった。
『少年A』は理性によって加害者意識を払拭し、『我が背徳』は夜の澄んだ本能で生理的嫌悪感を示す理性に愛情の為という動機をを取り戻させるための果てしない闘争だった。
求めることを否定し、愛されることを否定し、慈しむことを否定し、己を徹底的に殺し、他者を徹底的に捻じ伏せ、日常を破壊し、人生を破壊し、明日目が覚めなければいいと、この世が常に地獄であればと願った自分が最終的に行きついた先はここだった。
・どこにでもいる一人の男の、不退転
愛する人ただ一人に捧ぐ為、己の気持ちを拡散させることを封じ込め、徹底的に伝える。徹底的に考える。そして、過去との内在闘争の果てに、未来を見る。
そう、答えになっちゃあいない。自分は人と全く異なった人生を歩いていたつもりで、普通の人の人生を歩いていた。恐れる必要も、嫌悪感を持つ必要も、抗う必要もなかった。
もし、何か一つ後悔していることがあるとするなら、ここに行きつくまで199もの記事を書かねばならなかったこと、だろう。
今はそれすら自分にとっての血肉だ。
そしてここからはもっと分からない。時間がない。進まなければならない。
今度は僕が誰かに手を伸ばしたくなっている。色んな人々の記事を読みたいし、話を聞いてみたい。そして、理性でも本能でもない本質を作り上げてみたい。そう思う。
まだまだ、人生は長い、路は長い、いつ切れるかわからない。ただここに、一つだけ、200記事目という旗を立てて、進もうと思う。
これまで読んでくださった読者の方々に大いなる感謝を込めて。