僕たちはもっと書くべきなのかもしれない。
『すべ花』関連の話。
エッセイもそうだし、小説、なんか書いてると尚更ですが、今の自分とは違う人の人生、視点を持ってその時間を歩んでいること、割合贅沢なことやってんなぁと思います。
もちろん読む方もなのですが、他の人生を知ることにおいて、読むことも書くことも、凄いことだなぁと。言い換えてしまえば、書く人は普通の人2人分、3人分の人生を生きていて、読む人は普通の人の2人分、3人分の人生を経験しとる。単純計算だとそういう事になります。
転職要らず。ですね。
実際のところそんな風になることはなく、作者&読者はそれぞれ自分の人生、書籍の中には別人の人生、があって書籍では完結するのに実人生は完結してくれないのでずるずる続いてしまうのが本当のところ。
何が言いたいのか?というと、多分みんなもっと書いた方が良いっつうことです。これ特に、無名の方、ごくごく一般の方、正社員でもフリーターでも学生でも事務職でも林業の方でもなんでも良い。読む権利と、書く権利は自由だ。だからこそもっと読んだ方が良い、書いた方がいい。そう思います。
何故ってそれは、別人の人生をなぞること、だから。
もちろん今はそういうの飽和している。例えばゲーム。スマホゲーム。自由があるならそれでも良い、自分の嗜好に沿っているなら、そりゃ最高。でも、ゲームには選択肢、があって、その選択肢以外は往々にしてない、そんな事を感じます。
読むことは別でも、書く事は白紙の上では完全に自由で、時に自分の嗜好とは外れた所に放埒に動きます。
これを遊ばせることが出来るなら、選択肢の中から選ぶ必要は、ない。
自分の文章を読み返すと、書いた時点ではその意図が無くても、後からこういう解釈もあるし、なんならこういうの書きたい訳じゃないのにな。というのもあります。そこら辺ガチガチにコントロールして、豪速球投げるのがプロなのですが、私の文章は放埒。アマチュアです。
それでも、良くないか?失敗の人生も、誤解の人生も、普通の速度で2人分いけるのなら、僕たちはもっと、書くべきだ。