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2011.3.11 = -5 +1

はじめに

noteを見ていたら、トップページにこの記載を見つけました

・東日本大震災から10年のいま思うこと
・記録しておきたいできごと
・未来に伝えたいこと

震災から10年たち、当時の記憶が薄れてきていると感じたため、当時自分に起こったことを自分自身のため残しておこうと思い、この記事を書くことにしました。

自身の振り返りのため、実際に私が現地で撮影した被災地の写真を載せています

家族の間では陸前高田のことを高田と言っているので本記事でも高田と記載します

2011年3月11日

私の両親は岩手県陸前高田市の出身

小さなころから年に何度も祖母のいる高田に遊びに行っていた

高田松原での海水浴や花火大会、商店街での現金つかみ取り、親戚が集まっての晩ごはんなど楽しい思い出が詰まった街

親元を離れた私は結婚し東京で、両親は盛岡、親戚の多くは高田でそれぞれ生活をしていた

その日、勤務先で大きな揺れにあった私は震源が宮城県沖であることを知り慌てて盛岡の両親に電話をした

「通話が集中し、繋がりにくい状況になっている」といったメッセージが流れる中何度も電話をかけ続け、地震から約2時間後、自宅にいた父とパート先にいた母、それぞれに連絡がとれ両親とも無事であることが確認できた

揺れは激しく余震も続いているが、今のところ実家の被害はあまりなさそうだということで、ひとまず安心した

その日は電車が動かなかったので、約10キロの道を歩いて帰った

この時、高田ではあんなことが起こっていたなんて想像すらしていなかった

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帰宅して、テレビのニュースを見て愕然とした

福島県、宮城県、岩手県の沿岸で大きな津波があったという

血の気が引くのを感じた


高田は大丈夫なのか?


緊急地震速報が何度も流れる中で少しでも情報を知りたいと思い、テレビのニュースを見ながらネットで情報を漁ったりしていたが、ひどい惨状の様子しか伝わってこない

「みんな無事でいて欲しい」

それしか考えられなかった




そんな中、妻のお腹に子供がいることが分かった

嬉しさと驚きと悲しさと不安さとがごちゃまぜで、その時一体どんな顔をしていたのか分からない


テレビのニュースで知った叔母の生存

震災から数日経ち、病院勤務のいとこの奥さんがヘリで救助されたとか、震災後から連絡が取れない親戚が何人かいるなど、高田の親戚の状況がポツポツと分かってきた

両親は盛岡から何度も高田に向かい、避難所を周り親戚を探した

一番気がかりだったのは、広田半島に住む一人住まいの叔母の状況

この時、広田半島に行く道は分断され通行が困難で、一般人は通行を許されていなかった

また、携帯電話も全く通じなかったので安否が分からず、無事でいることを信じて祈るしかなかった


その頃夕方の岩手県内のローカルニュースでは、お寺や学校などに避難している人へのインタビューを流す時間があった

ある日、広田のあるお寺からその放送があった

何人かのインタビューの後、突然叔母の姿がアップで映った

盛岡に住む弟(私の父)に向けたメッセージ

「寺に避難していて無事です」

たまたまこのテレビを見ていた母は慌てて父に伝え、二人で涙を流して喜んだ


震災被害

震災で母の兄、姉2人、父の姉とその孫の5人が亡くなった


母の兄と姉2人はみんなで一緒にいるところを津波に巻き込まれたらしい

いとこの奥さんが車に乗せて高台に避難させようとしたところ、

「まだ大丈夫だよ、慌てなくていいからオチャッコ(お茶)飲んでいかないかい?」と、いつもと同じ調子で声をかけられたそうだ

一度避難先の様子を見るために、みんなをその場に置いて別行動をとったところ、すぐ津波が来てしまった


「なんでもっと強引に連れて行かなかったのか」と、とても後悔していた


父の姉は共働きだったいとこが仕事の間、孫を預かっていた

海から大分離れている酔仙酒造のすぐ近くにあった家まで津波はやってきて全て流されてしまった


3歳だったいとこ夫婦の一人息子

言葉を話したり歌ったり踊ったり、周りの同世代の子と比べ明らかに成長が早かった

もしかすると成長する姿を早くみんなに見せたかったのかもしれない


震災後の陸前高田へ

2011年5月にやっと高田に行くことができた

父の運転する車で街に入ると、言葉を失い自然と涙が出た

祖母の家があったところに筏のようなものが流れてきていた

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家の前にあった南天の木を持っていこうと掘り起こそうとしたが無理だった

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奥に見えるのは昔の高田高校

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あちこちにこのような場所があった

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一面が瓦礫の山で驚くほど静まり返っていた

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車が逆さのまま放置されている

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津波の被害にあった浄土寺

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変わり果てた姿に圧倒され、知らない場所にいるようだった


その後の陸前高田の様子

2013年4月 奇跡の一本松

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2015年5月 

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2015年9月

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2019年3月、嵩上げ工事が済み区画整理された、かつて祖母の家が建っていた土地の引き渡しが終了した


あれから10年

2011年10月に生まれた娘は今年10歳で4年生になる

東日本大震災のことは授業で習ったそうだ


父は肺癌となり約2年間の闘病の上、令和になった2日目に亡くなった

今は祖父母と同じ高田のお墓に入っている


残った親戚は高台に新しく整備された土地に家を建てて高田に住んでいる

広田半島の叔母は昨年免許証を返納し、元あった家の近くの市営住宅に住んでいる




2021年5月は父の3回忌で高田に行く

行くたびに新しい施設や家などが増え、変化する高田を見るのが楽しみだ


高田にいったら昔から大好きな磯ラーメンを食べてこようと思う

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#それぞれの10年


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