業を課すということ
秋分の日をむかえ、今年もあと残すところ100日
ふと、もう10年近く前になるが、ふと自分に課した業を思い出した
ある願いを叶えるために、あることを毎朝決まった時刻に100日連続で続けたことがある
それは、般若心経の写経だった。
朝6時から、だいたい1時間弱くらいかけて、「摩訶般若波羅蜜多心経」を10巻(10枚の意)写す。300文字くらいのお経なので3000文字程度の漢字の分量ということになる。
それを100日途切れずに行うので文字数では30000字ほどになる。
主観だが、負荷として決して大変ではなかった。達成感はある。
継続は得意だし、決めたことなのでやるまでだと考えている。
どうせやるならば修行ではあれ、有意義に楽しくするのがモットー。
工夫しながら行った。文字のトメハネを意識したり、意味を考えたり。
読経でも、写経でも、最初は意識して行うが、慣れると無意識でできるようになる。ぐっとその世界に没頭することで自分の中に「無」をつくり、何かが入ってくる余地をつくることができる、そういった装置なのではないと思っている。
非常に感覚的なものだが、やろうと決めるのは自分の意思、意識の働き。ただ一度やり始めると自我を忘れ、無意識に自然と願う気持ちが膨らむような気がする。
いずれにしても一つのきっかけ。行動からしか何も始まらない。
このときは結果的に願いを成就した。
1年後、うそみたいに予想外に2倍の結果になって。
因果関係というのは、さも法則があるようで、すべて自己の解釈に過ぎない。どちらでも選べるのだから、どうせなら行動の結果だと思ったほうがよい。自分の捉え方次第でしあわせにも、不幸せにもなれるもの。
思い立ったが吉日、今日から何かとりあえず100日初めてみませんか?
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