これからの書き手には「国語力」よりも「感情力」が必要だ
学校の国語の授業で、こんな問題を解かされたことがあるだろう。
「下線部のときの主人公の気持ちを書きなさい」
おもしろくもない小説を読まされて、主人公が思っていることを書かされる。そこで先生が用意したものと違う気持ちを書いてしまえば「✕」だ。主人公の気持ちには「答え」があって、それに合わせないといけない。
ぼくらが国語の授業で習ってきたのは、こうして相手の気持ちを汲みとり、空気を読み、他人に合わせることだった。自分がどう思うかは関係ない。とにかく先生の用意している「答え」を探りあてることが重要だった。
もしこれを「国語力」というのなら、これからの書き手にはあまり必要のない力かもしれない。もちろん、相手の気持ちを考えることは大切だし、文法などの基本的な国語力は必要だろう。
ただ、みんなと同じような解釈をして、みんなと同じような整然としたアウトプットをするだけなら、人工知能でもできてしまう。
もし、多くの人から一目置かれるような「おもしろい文章」を書きたいなら、書くことで注目度をアップさせたいと願うなら、そういった「国語力」よりも「感情力」のほうが大切だ。
感情力とは、文字どおり「感情の力」だ。
「これ、めちゃめちゃすごいな!」
「あれ、ほんと素敵だよね!」
「この人、マジおもしろいね!」
そう思える力。
「みんなはこう言うけど、俺はこう思う!」
「あれは私、スルーできない! おかしい!」
そう思える力。
感情力といっても、別にテンションは高くなくていい。「感情的」である必要もない。そうではなくて、人が何も感じないところで感じたり、人とは違うことを感じたりする力だ。これがきっと「おもしろい文章」につながるのだと思う。
「感情力」の高い人は、取材やインタビューにも熱が入る。熱が入っておもしろい質問ができれば、必然的におもしろい原稿になる。「取材のための取材」にならず、心の底から聞きたいことを聞けるようになり、それが読み手にもかならず伝わる。
おもしろい文章は、内容がおもしろい。あたりまえだけれど。そのためにも「感情力」は必要だ、と思う。