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『居場所』についての思考の整理[v1.0]

月1回更新すると宣言したものの、なんだかんだで時間が取れてなくて最終日の駆け込み投稿に。夏休みの宿題は早めに終わらせるタイプだったはずなのに。。

2019年6月に社名をArchiTech株式会社に改めてから、ずっと『愛される建築』をキーワードとして扱ってきました。

2020年には当時京都大学の建築学助教であった太田裕通先生(現在は武蔵野大学専任講師)と共にデザイン評価に関する共同研究をやったり、その後は独自にデザイン評価ツールの開発なんかもやってたりしました。

その時の論文はこちら→デザイン評価の可視・共有化を促進する「LIVE AHP」を導入したデザイン審査会方式

独自に開発したデザイン評価ツール

そうした活動を続ける中で、昨年の秋頃からは『愛される建築』よりもう少し広い概念としての『居場所』について考えたり議論したりする機会が増えてきて、自分なりに一旦の整理ができるようになってきたので整理の意味も兼ねてこのノートにまとめていこうと思います。
(なお、本投稿は2022年2月28日時点での自分の『居場所』論バージョン1.0であり、これからもアップデートし続ける位置づけのものになります)

なぜテーマが『居場所』に変わったのか

※本題ではないのでさらっと読み飛ばしてもらっても全然OKです。

上でもさらっと書きましたが、明確に『居場所』というものについて考えるようになったのはまだここ半年くらいの話で、それまでは『愛される建築』がメインテーマでした。
僕は大学では建築学を学び、その中でも意匠設計の分野にいたので当時から「素敵な空間を作りたい」「居心地の良い空間をデザインしたい」という建築の作り手側のマインドを強く持っていました。
(学生時代の作品はこちらのページの投稿した作品に挙げてたりします。
時間を持て余してしょうがない人か、僕という人間にものすんごい興味もってくれている人だけご覧ください。)
それゆえに"建築"というワードを強く意識し続けてきたわけですが、一方でハードウェア=箱としての建築はユーザーである使い手に対してどれだけのことができるのか、という限界点についてもずっと考えていたように思います。

ある時ふと「自分が心から愛していると思う建築ってなんだろう?」と思った時、敬愛するザハ・ハディドさんの作品より真っ先に自分の生まれ育った実家や、家の近くの行きつけの居酒屋、自分が作るプロセスに関わらせてもらった建物が頭に浮かびました。
作り手としてのマインドを持って"愛される"建築を考えるのではなく、一個人として"愛する"建築を考えた時に必ずしも建築そのものは重要ではないんだと気づきました。

自分でさえそうなのだとすると、建築を勉強していない、もっと言うと建築に興味なんてないような人たちからすると、その感覚がもっと強くてもおかしくない。

そうした建築の外側にある要素まで含めて考えようとすると、それはもう愛される"建築"というよりは愛される"場や空間"と言ったほうが適切だろうし、それを『居場所』という言葉で表現してしまっても差し支えないだろう、というざっくりとはそんな思考過程でめでたく『居場所』について考える日々がスタートしました。

居心地の良い空間≠居場所

ここからが本題です。
最初に明確にしておかないといけないのは、僕は『居心地の良い空間』と『居場所』とを明確に区別しています。
関係性としてはこうです。

この両者を隔てる要素は後ほど書きますが、一旦はこの2つを異なるものとして扱っていること、『居場所』を説明するためにはそれを包含する概念である『居心地の良い空間』について説明する必要があることだけご理解ください。

居心地の良い空間とは

先ほど"ハードウェアとしての建築"という表現を書きましたが、居心地の良い空間においてハードウェアとしての建築は一つの重要な側面です。
ただそれだけではない。
むしろ僕の実家や行きつけの居酒屋なんかは建築的な魅力はほとんどありません。(お父さんと店主さんごめんなさい💦)

建築的には魅力が少ない場所でも居心地が良いと感じる時、そこにはソフトウェアとヒューマンウェアという2つの要素が隠れていて、その空間がどんな性格付けがされていて(行きつけの居酒屋、と言うときの"居酒屋"がソフト)、そこにどんな人がいる、あるいはどんな人と訪れるのか。(実家だったら家族)
"居心地の良さ"はハード・ソフト・ヒューマンの3要素から成っていて、それらがうまく調和することでもたらされます。

逆に、これらが調和していない時に人は"居心地の悪さ"を感じます。

例①:作業場所を求めて雰囲気の良いカフェに入ったが、入ってみるとカップル客が多くコーヒーだけ頼んで長時間滞在するお客さんが他に見当たらなかった。
→ハード・ソフトは満たされているがヒューマンの要素が調和していないために、この空間でPCを開いて作業をするのは居心地悪く感じてしまう。

例②:休日に友だち数人とふらっとランチに入ったお店が、入ってみるとかなり高級感のある内装だった。
→ソフト・ヒューマンは満たされているがハードの要素が調和していないために、変に緊張感を感じ居心地が悪くなってしまう。

居心地の良い空間を居場所化するために

上でも書いたように、ハード・ソフト・ヒューマンの3要素が調和した空間は居心地の良い空間にはなりますがそれが必ずしも居場所になるとは限りません。
例えば、心を尽くしておもてなしをしてくれる高級旅館に訪れたことを想像してみると、キレイに整えられているものの随所に歴史を感じられる建物、旅館の品格を感じさせる調度品、そして人当たりよく配慮の行き届いた仲居さん。ハード・ソフト・ヒューマンの三拍子が揃い、居心地の良い空間であることは疑いようもありません。

でも、そこを訪れた時に「あぁ、ここは自分の居場所だな」と感じるでしょうか?
多分そうではないはずです。

居心地が良いけど、居場所とは感じられない空間。
居心地が良くて、居場所として認識している空間。
この2つの違いはどこにあるんでしょうか?

その答えは、空間に対する自らの関わり方だと思っています。

先ほどの旅館の例のように、空間に対して受動的に、言い換えるとサービスを享受するスタンスでいるとそこは居場所にはならず、
一方で空間に対して主体的・能動的にに関わろうとすると居場所化していく。

また旅館の例に戻りますが、毎年決まった時期に繰り返し通う、仲居さんと積極的にコミュニケーションを取って仲良くなる、などしていくと最初はお客様気分で訪れていた場所が、いずれは毎年帰る場所へと認識が変化していくはずです。

これを"俺の庭"化と言い換えても良いかも知れません。
いくら居心地が良くても"よその庭"である間は居場所にはならず、自ら主体的に関わることでそこが"俺の庭"になることで初めて居場所として感じられる。

僕たちは、居心地の良い空間を居場所化していくための空間に対する主体的・能動的な振る舞いのことを『居こなす』と呼んでいます。(「居る」と"使いこなす"などと言う時の「こなす」を掛け合わせた造語)

居心地の良い空間 + 居こなす = 居場所
という感じですね。

居心地の良い空間 + 居こなす = 居場所

最後に

現在、私たちArchiTech株式会社では"誰もが気軽に居場所をもてる世の中"を目指して新サービスikonasを立ち上げようとしています。(サービス名の由来はもうお分かりですね?笑)

まだ公開情報としてオープンにできる段階ではないのですが、今回書いたような居場所についての考えを踏まえつつめちゃめちゃ面白いサービスを作っている真っ最中です!

今回のノートの内容を面白いと思ってくれた方や一緒に『居場所』について議論したいという方、新サービスの内容が気になる方はTwitter等から気軽にご連絡いただけたら嬉しいです!!

3月のノート投稿はもうちょっと余裕もてるように頑張ります笑

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