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― 自己紹介 ー

はじめまして波乱万丈の人生をあゆみつづけているタカです。
NOTEでは、あなたが生きていく上で何かのヒントとなればとマガジンを3~5部書こうと思っていますので、今後ともすえながいお付き合いよろしくおながいします。

では自己紹介します。

1961年愛知県名古屋市に生まれた、今年で59歳になる、やんちゃなジジイです。


31年前、世界初の表現技法「ホログラムズコラージュ」を考案しパイオニアとして現在も活動しています。

小学校時代

父親が転勤族のため、3度転校したが裕福な家庭で、なに不自由なく育ち卒業。

中学生時代

中学生の2年生のとき、両親が離婚し弟と一緒に父親に引き取られる。
翌年その弟も水難事故で亡くし、精神的にも荒れて不良になる。

高校時代

翌年父も亡くし高校進学をしたが、経済的理由から1年で退学。天涯孤独となる。
翌年、レストランで働きながら夜間高校へ通い20歳で卒業。

20歳~28歳

夜間高校卒業後、結婚。
調理師、コンピューターのオペレーター、プログラマー、SE,トラックの運転手、水商売、会社経営など数々の職を経験、家庭を持ちながらバックパッカーとしても国内外を放浪する。

29歳~59歳の現在

インドネシア・バリ島である出来事から、芸術をめざす。
帰国後、芸術家を宣言したがとうとう頭がおかしくなったと思われ、周りの友人、知人が離れていく。

アート活動をはじめてから現在まで、2度の裁判やアートで生きていくためのサバイバルなど、厳しい現代社会の中で最も難しいアートの世界で後悔しない人生を送っている。

1989年 29歳の時、インドネシア・バリ島でおきた出来事からアート活動を始め、自身の芸術を追及を始める。

1990年 作品の素材としてホログラムに出会い、視覚芸術のいままでにない表現技法としてホログラムズコラージュ技法の研究をはじめる。

1995年 当時、国内最大級のアートコンペであったパルコ・アーバナート#4にて、美術史上初の試みとなるホログラムズコラージュ作品「SENSE]を出品、審査委員・伊東順二賞受賞し世界初の表現技法として認められる。

1996年 第11回日匠記念展にて日匠大賞を受賞。

1998年 インド・ニューデリー・ハイダラバード二か所の国立ICCRギャラリーにて日本インド芸術交流展開催、日本人アーティストの代表を務める。

1999年 伝統工芸と現代美術の融合をコンセプトにしたUnit:WASABIとして備前焼六姓窯元桃蹊堂二十六代・陶芸家・木村桃山(本名:木村英昭)氏とユニットを組み、アート活動を開始する。

2000年 テレビ東京 ASAYAN 新機軸第2陣 N.Y. 大個展 2000 にWASABIとして「和 Japanese Soul」出品。

2002年 下地補強専用ボンドの研究開発を始める。

2003年 下地補強専用ボンドの研究開発終了、キャンバスなどの平面やオブジェなどの立体制作も可能となる。

2004年 中国・上海出身の書画家、胡永華氏の協力により、上海アートフェア招待出品。世界初の新表現技法として、ホログラムズコラージュ作品が紹介される。

2005年 Unit:WASABI解散その後、中国・上海にアート活動拠点を移し、チベット、万里の長城、黃山などを取材する。

2006年 中国・上海からインドネシア・バリ島・ウブドに活動拠点を移しアート活動をする。

2007年 インドネシア・バリ島ウブドARMA MUSEUM、グル「Future」とマンダラ祭(バリアートセンター)に参加。

2008年 日本に帰国しアトリエを三重県・伊賀市に移し、カラーシートの開発をホログラムメーカーに依頼しさらなる研究に没頭する。

2011年 アトリエを三重県・伊賀市から岐阜県・可児市に移す。

2012年 作品搬送中に交通事故にあい、作品が全損し補償をめぐり大手損保会社と裁判になり原告となる。

2013年 3月27日一審の判決が下り原告の勝訴、P40号のホログラムズコラージュ作品に対し392万5000円(1号あたり、98,125円)の損害賠償支払い命令とホログラム・コラージュ考案者でパイオニアの芸術家として認められる。

2014年 ホログラムズコラージュ保護用樹脂の研究開発をはじめる。

2019年 ホログラムズコラージュ保護用樹脂の研究開発終了。ホログラムズコラージュ専用の樹脂が完成し。技法として完成する。
     
2020年 Art no MOTOを立ち上げ、スペシャリストの養成を始め、現在に至る。


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Takayuki  Hibino
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