分別すれば相応した影が現れる #禅の言葉
ああだこうだと分別すれば、それに相応する偏りが出てくる。何事も空だと自覚した途端に空見に囚われる(「覚(かく)すれば即ち塵(ちり)生ず」)。いずれも、影や塵と呼ばれるものだ。
挙起(こき)すれば分明(ふんみょう)、放下すれば隠密(おんみつ) 影や塵を取り上げれば何もなかった(何も取り上げることができるものがない)と明らかになる。さらに明らかになったということをも放り出せば天下太平の境地に至る。
田地隠密(でんちおんみつ)の処、着衣喫飯(じゃくえきっぱん) 田地は、あらゆる作物を育て生まれるところであり、出来不出来もごまかしはきかない。田畑を見れば、その人の人となりがわかる。だから、心を田畑に譬える。隠密は物事をかくしておくこと、転じて仏心は隠されていて真っ暗である。
禅師同士のやりとりは、悟り切っていない人が見ると、何を意味しているかわからない。日常生活のあらゆる場面(着衣喫飯)で、善事はひそかに施されなければならない。禅師のやりとり(善事)は、ひそかに施されるものであり、あたかも「龍魚(りゅうぎょ)は未だ知らず水を命となすことを」(水の中にいる龍や魚は水のことを気にしていない)というようなものだ。だから禅師同士のやりとりは、「潜縮(せんしゅく)や蓮に巣(す)くい、遊戯や藻(そう)を弄す」(蓮の根元に身を潜めて隠れたり、藻を弄して遊んだりする)かのようだ。遊戯三昧ということだ。
函蓋箭鋒(かんがいせんぽう)、深竿影草(たんかんようぞう) 函(はこ)と蓋(ふた)がよく合致したり、箭鋒あいささう(両者から放った矢の切っ先同士がぶつかる)ように見事である。また、水の中の草の影を見て竿で深さを探ることから転じて、相手の腹を探る。
これらの二種は、禅師同士のやりとりを形容するものだ。
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