死について考えてみた。【拗らせ男子の革命日記】20210704
今年も折り返しに入った。
年齢を重ねることに時間のスピードが早まっている。
僕が一つ歳を重ねると周りも一つ歳を重ねる。
先日、叔父が亡くなった。高齢者の死因トップ3に入る誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)だ。
叔父と僕との関係は極めて希薄。一昨年に初めて話をしたくらいだ。
父方の祖父の歴史を知りたく、資料を持っていたのが叔父だったから、手紙をしたため会いに行った。会話は全く覚えていない。叔父の認知症の進行もあってか、母と同じで何度も同じ会話を繰り返していたのは覚えている。叔父の人柄はおとなしいのか、人見知りなのかというくらい。それ以上はわからない。
ただ、僕の父は叔父(父からしたら兄に当たる)を嫌っていた。お互いそう思っていたのだろう。過去に何があったのかわからないが、父は叔父に対してコンプレックスを持っていた。世間体、常識という物事を父は意識し、叔父に対抗していた。
父は何かあれば僕ら兄弟を力づくで叔父に間接的に関わることがあれば、参加させていた。「みろ。うちの息子たちは常識に則って参加しているぞ。」と。
叔父と父を見ていると、僕にも下に弟がいるが仲良くしていきたいと思う。母方の祖父母は僕ら兄弟に言い聞かせていた。『兄弟仲良くしなさいよ。』と。
今回、叔父の死を知り、一昨年会って祖父の遺品を譲ってもらったお礼も含めて、お通夜に参列した。お通夜はこじんまりとした家族葬だった。
お通夜といっても、コーヒー1杯を頂いて手を合わせて、少々会話をしてといった流れだった。
義叔母(叔父の奥さん)と会話をしたのも一昨年ぶり。
僕との会話も事務的。以前から冷たい人間だという印象はあった。
叔父家族の人間関係も何か問題があったのだろう。叔父が亡くなりほっとしたようだった。
家族ってなんだろう?
僕は母方の祖父が亡くなった当時は1人で大泣きし、今でも当時のことや祖父のことを想うと感情が昂ってくる。
最初に乗馬を教わった馬の死を思い出すだけでも感情が昂ってくる。
死ってなんだろう?
ふと今、カフェで紅茶を飲んで、叔父の死について電話で話すことがあり、考えさせられた。
叔父が亡くなったと電話口で僕が相手に伝えた時に、僕は笑っていたのだ。
死に対して、笑いながら話すとはなんと不謹慎かと思うのだが、思わず笑ってしまった。だから罪悪感がきていて、この文章を書いている気がする。
一方でなぜ僕は笑ったのかも考えた結果、「あの人は先に旅立った。この世から解放されて楽になったのだ。羨ましい。」と笑っていたのだ。
行きつけのカフェの店員さんに見られたであろう会話と笑顔。
これはきっと「あの人はサイコパス」と思われたのかもしれない。
叔父は僕にとって、兄弟仲良くすることを教わった。
祖父の遺品を譲ってもらった。
反面教師。
それ以上何もない。
話が逸れたが、『死』について考えてみた。
僕にとって『死』とは、現世からの脱出。
つまり、楽になれるという意味が強い。
宗教で仏教では現世もあの世でも修行で辛いというが、僕にとっては現世で生きていることの方が辛いんじゃないかと思う。
煩悩に振り回される。人、もの、お金、世間体、この世に存在するだけで、支払い催促から逃れられないのではないかと考えてしまった。
生きづらいという話とリンクしているのかもしれない。
何のための生なのか。
何のための死なのか。
人は生まれた瞬間から死へ走り始める。
そして最後は土に還り、自然に帰る。
頭の中で、答えのない答えを追いかけているだけで、時間の無駄かもしれないし、おそらくこの文章を書いたところで乱文でしかないが、ここに書き記しておこう。
死しても、誰かの心の中に生き続けている。またどこかで出会える。
そういう感情もある。
現世は生き地獄。
生きているだけで、よく頑張っている。
努力している。
生きているだけで、丸儲けというセリフを聞いたことがあるが、
僕の場合、
生きているだけで、努力していて偉いと思う。
生きづらい世の中を逃げずに戦っていると思う。